播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

鳥羽伏見の戦いの舞台にもなった景福寺山(姫路市)

姫路城十景は、10箇所全てを紹介し終えてこのカテゴリーは一応完結していますが、番外編として補足情報を紹介することにします。
 
この記事で取り上げるのは、姫路城十景のうち「07.景福寺(けいふくじ)公園」に関する補足です。
 
景福寺公園のある景福寺山には、歴史的な遺物とエピソードが残されているのです。
 
歴史的な遺物とは、頂上にある姫路藩主松平明矩(あきのり)の墓所。
歴史的なエピソードは、鳥羽伏見の戦いに関するもの。
 
どちらも姫路城十景の記事(https://dfm92431.hatenablog.jp/entry/2017/12/17/094529
で軽く触れていますが、この記事ではもう少し詳しく紹介します。
 
注:この記事で使用している画像は、全て2019年3月17日に撮影したものです。

姫路藩主松平明矩墓所

景福寺山の山頂へ続く道は、山の南面と東面に付けられています。
 
景福寺本堂裏から始まる道がおそらく正規の道だと思いますので、その道で登るルートを説明します。
 
最も簡単なのは、景福寺の本堂に向かって左側のゲートから入るルートですが、景福寺には保育園があるため、私のような怪しげなおっさんがうろついていると園児に不安を与えかねません。
 
というわけで、私は目立たずに景福寺山へ入るルートを使っているのですが、それを紹介します。
 
注意
  • 景福寺公園から山頂へ通じる道はありません。山頂へ行くには、山の南側から登る必要があります。
  • 景福寺の参拝者用駐車場は景福寺の東側にありますが、山歩き目的での駐車に使えるかどうか、常に駐車場のゲートが開いているかどうかは不明です。公共交通機関では、神姫バスが利用できます。「岩端南口(いわばなみなみぐち)」「市之橋文学館前(いちのはしぶんがくかんまえ)」「元町3丁目」のいずれかのバス停を使うと良いでしょう。
  • 景福寺山は、住宅地や公園になっている場所を除いて、ほぼ全域が墓地になっています。この記事内の画像では墓石はあまり写っていませんが、現地には新旧数多くの墓石がありますので、そういった雰囲気が苦手な方にはお勧めしません。
 
東行き一方通行の国道2号線「小姓町(こしょうまち)」交差点から北へ伸びる道は、300mほど行ったところでロータリーに突き当たります。
この道は「船場1号線」。
以下のURLをクリックすると、Googleマップで船場1号線北端のロータリーの位置が表示されます。

https://goo.gl/maps/9nyAXVyynQS2
このロータリーには「協調」と題された彫刻作品が設置されています。
 
▲船場1号線北端のロータリーにある「協調(昭和59年8月)」
 
このロータリーから30mほど西へ進んだところから北向きの細い道に入り、景福寺山に突き当たるまでまっすぐ北へ進んで下さい。
 
▲船場1号線の終点からさらに北へ進む
 
山に突き当たったところで右を見ると、下の画像のように「景福寺」の石柱が立っています。
以下のURLをクリックすると、Googleマップで景福寺の石柱の位置が表示されます。

https://goo.gl/maps/i8DipJadp4y
▲山沿いの道の入口に立つ景福寺の石柱
 
石柱のある場所からコンクリート擁壁沿いの道を東へ進むと、間もなく景福寺本堂の裏に出ます。
 
▲景福寺本堂に裏に出てきた
 
本堂裏に出たら、コンクリート擁壁に付けられた階段を登って下さい。
この付近に擁壁があるのは、周辺が急傾斜地崩壊危険区域になっているからです。
 
▲この階段で擁壁の内側へ入る
 
階段を登るときは西向きになりますが、登り切った後に東へ少し進めば、古い石の階段が山の上に向かって伸びているのに出会うので、それを登ってください。
 
この石段の道は山頂付近まで続いています。
 
▲古い石段を上がる(序盤はしっかりした石段)
 
▲山頂に近づくと山道らしくなる
 
手水鉢と石垣が見えると、山頂はすぐそこです。
進路を右に変え、石垣沿いの石段を登ってください。
 
▲山頂直前の手水鉢と石垣(矢印の通り右に進む)
 
すると、突然開けた場所に出ます。そこが姫路藩主松平明矩墓所。
 
▲姫路藩主松平明矩墓所
 
姫路藩主松平明矩墓所
 寛保元年(1741)当時7歳の榊原政永が越後高田に転封、奥州白河より結城松平明矩が入封。結城松平家は三度目の入封となるが、台風による凶作の年が続くなど財政が悪化、姫路町は著しい人口減だったという。
 明矩は延享3年(1746)中風を病み寛延元年(1748)旱魃と台風による領内疲弊、寛延の大一揆の勃発を眼前に36歳で没した。山麓にあった孝顕寺で葬儀を行い当所に葬るが、江戸にあった嫡子朝矩は11歳のため、翌年前橋に転封となった。基壇上の五輪塔型墓石、墓前亀趺碑、石製門が残るが石柵と周囲の瓦葺土塀は倒壊している。
平成28年3月 姫路市教育委員会
(出典:現地の看板)
▲倒壊した石柵など
 
▲五輪塔
 
▲亀趺碑(きふひ)
 
▲亀趺
この墓所が荒れ果てる前の姿が、明治時代に発行された本に描かれていますので、参考のために掲載します。

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▲明治32年発行「沿革考証姫路名勝誌」(矢内正夫 編)に掲載されている景福寺の図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

鳥羽伏見の戦いに関するエピソード

墓所の北側に回り込むと、東へ延びる山道が見つかります。
その道沿いには石仏が一定の間隔で並んでおり、それぞれに「第○○番」と読める文字が刻まれているので、手軽に札所巡りができるようですが、詳細はよく分かりません。
 
▲景福寺山山頂北側で東西に延びる山道を東へ進む
 
すると、東方面に向けて展望が開けた場所に出ました。
下の画像のように、姫路城を眺められる場所です。
 
▲姫路城方面を眺められる場所に出た
 
ここに立っている看板には、姫路城と景福寺山に関する歴史的エピソードが書かれています。
 
▲姫路城がよく見える場所に立っている看板
 
鳥羽伏見の戦いの際、旧幕府側についた姫路藩に対して新政府軍が討伐に向かいました。
その際に新政府軍はこの景福寺山と北東500mの男山に陣を張り、姫路城に向けて大砲を発射したと言われています。
 
姫路藩は降伏を申し出ており、戦う必要は全くなかったのですが、新政府軍は戦って姫路城を落としたように見せたかったので、適当に何発か撃ったそうです。
姫路城に損害を与えるつもりはなかったようですが、実際は姫路城の福中門に砲弾が命中しています。
 
景福寺山から見た姫路城天守閣の方角は「東」。福中門の方角は「南」です。
姫路城に当てるつもりがなく、でたらめな方向に撃ったらたまたま福中門に当たってしまったという感じでしょうか。
 
ちなみに、姫路藩を砲撃した新政府軍は備前藩の軍勢。当時の備前藩主は池田氏。
当時も今も聳えている美しい姫路城を最初に作った池田輝政の子孫です。偶然なのかな。
 
歴史好きの方なら、新政府軍の兵士の気持ちになって姫路城を眺めてみるのも興味深いと思います。
当時の兵士が見た姫路城も、今わたしたちが見ている姫路城もまったく同じ姿ですから。
 
姫路城がよく見える場所から南へ山道を下っていけば、景福寺の本堂裏に下りてきます。
 
▲鳥羽伏見の戦いについて書かれた看板の場所から南へ下る道は、よく整備されている
 
山歩きというほどではありませんが山道を歩くことになるので、景福寺山に登ってみようという方は歩きやすい服装で挑戦して下さい。
 
また、山全体が墓地なので、曇りの日や遅い時間帯は不気味な雰囲気になります。
 
暖かい時期は虫や蜘蛛の巣が鬱陶しいので、行かれるのであれば涼しい時期の天気の良い日をお勧めします(ただし、秋は蜂に注意)。