今日は、景色の良いところで昼食を摂ろうと思い、増位山へ行っていました。
ブログの記事にする予定ではなかった(私はすべての山行をブログの記事にしているわけではありません)のですが、新しい場所を見てきたので、簡単にまとめておきます。
今日初めて見たのは、有明山構居跡。
有明の峰 増位山の内北嶺をいう。昔伊勢両宮を勧請して二社高宮ととなえ、大そう有名であつたそうであるが後総社に移した。貞観十七年(八七五)に在原業平が、また建久四年(一一九三)に西行法師がこの峰にのぼつたという。共に古歌が残つている。中世末ここに構居があつて領主は安芸法師休無(小寺職隆の弟)であつたが、天正元年八月十二日別所長治に攻め落された。前記増位随願寺が焼かれて三百余人が嵐山*1に居住したのもこの時のことである。
(出典:姫路市史 第1巻 (地理篇), 姫路市, 1955, 10.11501/2990089. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I2990089 p170)
以前から増位山に砦跡があったことは知っていたのですが、「どうせ何も残っていないだろう」と毎回素通りし、砦跡は見たことがありませんでした。
今日も随願寺から増位山へ向かう途中、有明山構居跡の下を歩いていたら、比較的新しい看板が立っているのに気づきました。
その看板の内容は、以下の通りです。
有明山構居跡「地蔵院」とも称し、黒田職隆(もとたか)の弟(高友)が「安芸法印休無(きゅうむ)」(休夢)と名乗って、ここを姫路城の北の守りとしていた。天正元年(1573)8月12日、三木の別所長治800騎が増位山を襲い、寺を破却、随願寺僧侶ら200余人が嵐山(現在の景福寺山)に避難した。和歌や茶にも秀でた休夢は後にお伽衆として豊臣秀吉に仕えている。有明山構居跡はこの上で、東西30m、南北18mの削平地、東、南、西の三方に堀、西に土塁が残る。平成26年3月姫路市教育委員会・姫路市文化財保護協会(出典:現地の看板)
看板には上の説明だけでなく、有明山構居跡の位置も簡単な図で示されています。
堀や土塁が残っているなら見てみようと思い、まずは増位山頂で景色を楽しみながら昼食を食べ、帰りに有明山構居跡へ立ち寄りました。
有明山構居跡へは、道があるわけではありません。
砦跡の東側を南北に通る遊歩道から、斜面を適当に登るだけです。
砦跡の東側を南北に通る遊歩道から、斜面を適当に登るだけです。
距離も標高差もほとんどないので、道がなくても有明山構居跡へは簡単にたどり着けます。
私は、増位山山頂から北へ戻る時、道が右へ折れ曲がる場所をそのまま直進し、雑木の斜面を登りました。
山頂部分が主郭のような大きめの削平地ですが、その手前にも曲輪跡のような削平地があり、石が散らばっていました。
そこからさらに北へ進むと、広い削平地に出会いました。これが看板にあった「東西30m、南北18mの削平地」でしょう。
植林の中に間伐材などが転がっていて、雑然とした空間です。
砦跡を思わせるものは何も見当たりません。
砦跡を思わせるものは何も見当たりません。
看板にあった堀や土塁はどこだろうとウロウロしていると、遊歩道に近い場所で、郭を囲うような溝(空堀跡?)がありました。
堀跡のようなものを見られたので満足し、雑木藪の斜面を下って遊歩道へ復帰しました。
有明山構居跡の看板が立っている地点には、土橋があります。
これも構居跡に関係あるのかな。
これも構居跡に関係あるのかな。
土橋の有明山構居跡から遠い側は急斜面、反対側は池になっています。
本日昼食を食べた増位山山頂ですが、有明山構居の見張り所だったかも知れません。
構居跡から数分で行けますし、国道312号線(当時も主要な街道)と市川を間近に見下ろして監視でき、姫路城、御着城、庄山城、甲(功)山城もよく見えます。
西は樹木があって今は見通せませんが、カシミール3Dを使って調べると、置塩城跡も見通せるようです。
今回歩いた増位山周辺の遊歩道については、当ブログでも何回か紹介していますので、興味のある方はどうぞ。
2008年1月14日の記事
*1:現在の景福寺山のこと。