2023年10月7日、姫路城の内濠(うちぼり)と中濠(なかぼり)を流れる水の流路を紹介する記事をこのブログに掲載しました。
その記事の中で「姫路城の濠は、天守閣の北東から反時計回りに渦巻き状に広がるという特殊な構造」という記載をしたのですが、実際に渦巻きの始点から終点までを確認したことがないことに気づき、姫路城の濠の始点から終点までを歩いてみることにしました。
全行程が長いため、「内濠~中濠編」(前編)と「外濠編」(後編)に分けることにしました。
この記事は後編で、外濠跡を歩いた記録です。
▲今も残る姫路城の外濠(直角に曲がっているため自然の川ではないことが分かる。「神屋町4丁目」交差点付近。2023年11月上旬撮影)
前編はこちら。
外濠の始点はどこ?
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1k5iIjz3PlKXJFZvTt3ybrSAZeRQlu8Y&usp=sharing
▲前編、後編を通じて歩いた姫路城の濠跡全体
姫路城の濠は反時計回りの渦巻き状ですから、はっきりと「ここからが外濠」と言える場所がありません。
そもそも、姫路城の北にあるシロトピア公園北側を反時計回りに延びる中濠は清水橋付近で閉じていて、地図で見る限りそれ以上外側へ広がっているように見えないのです。
ところが現地に行ってみると、中濠の終わり(清水橋付近)と船場川はつながっていることが分かります。
▲北部中濠と船場川は小さな溝でつながっている(出典:地理院地図。当ブログ管理人が濠や川、施設等の名称、引き出し線を描き加えた。)
▲北部中濠南端付近と船場川をつなぐ溝(奥が北部中濠。2023年9月撮影)
これは私の勝手な解釈ですが、ここで中濠と船場川はつながっているため、渦巻きの形状が維持されているといっても問題は無いでしょう。
ということで、清水橋付近を外濠の始点という扱いにし、今回は清水橋から外濠跡をたどることにしました。
https://maps.app.goo.gl/5aWvJmqZRskxLBwQ7
▲今回外堀の始点とした清水橋の位置
外濠(西側)
唐突ですが、川の両側を示す言葉に「左岸(さがん)」と「右岸(うがん)」があります。
左右は相対的な位置関係で分かりづらいため、地図内で場所を示すときに使われることが少ないですが、川に限っては例外的に使われる言葉です。
川の中に立って下流側を向いた時、左にあるのが左岸、右にあるのが右岸で、これは川が曲がりくねっている場合、場所によっては川の西が左岸になることもあれば、川の東が左岸になることもあり、川の片側を正確に表現する際に東西南北が使えないからです。
では本題。
前回中濠沿いに歩いた時は、船場川の左岸にある千姫の小径を通りました。
お城の西側では船場川が外堀の役割を果たしているため、千姫の小径を通ると船場川沿いに歩けるのですが、それだと前回と全く同じルートを歩くことになり、渦巻き状の濠の形状を表現できません。
ということで、今回は船場川の右岸を歩きます。
川の右岸沿いは小利木町や材木町という地域で、古い建物と町並みが残っています。
そのため、道路も狭小。自動車は一方通行です。
この狭い道路を南西向きに歩きました。
▲材木町の町並みの中を歩いた(2023年11月上旬撮影)
「市之橋」交差点を渡ると道は広くなり、歩道もあって安全に歩けるようになります。
ちなみに、「市之橋」交差点付近には、今はわずかに残る石垣しか痕跡がありませんが、かつて「市之橋門」がありました。
▲「市之橋」交差点から南は、船場川を左に見ながら安全な歩道を歩ける(2023年11月上旬撮影)
「白鷺橋(はくろばし)」交差点を南へ渡るとさらに道は広くなります。
なお、「白鷺橋」交差点に架かっている「白鷺橋」には、太平洋戦争で姫路市街地が空襲に遭った際の焦げ跡が残っています。興味のある方はそちらもご覧ください。
▲「白鷺橋」交差点から南の道路(通称:産業道路)の様子(2023年11月上旬撮影)
「白鷺橋」交差点を渡ってから南へおよそ200m進んだところには、「備前門橋跡」があります。
▲備前門跡の復元レプリカ(2023年11月上旬撮影)
『復元レプリカ解説』
姫路城 備前門橋跡
礎石にある15センチメートル四方の穴には、木橋の高欄(欄干)の親柱が立っていたと思われます。4本の延石はどれも直方体の石(長さ120~140センチメートル)で、木橋の橋台を構成する部材で、橋桁を留める役目があり、この上まで橋面敷板が伸びていたものと考えています。
イラストの図面の赤色がついている箇所が出土した備前門跡であり、レプリカを忠実に作成し展示しています。なお、「礎石」と「延石」は風化により劣化しないよう、発見した位置のまま地面の下(約100センチメートル)に埋戻しました。
平成二十八年三月 兵庫県
(出典:現地の看板)
備前門跡から南へ約70mほど進んだところにある「亀の甲橋」を東へ渡ってください。
この辺りから外濠は東の飲み屋街へ伸びていきます。
この時、橋を渡って左に見える池のようなものは、実は外濠の跡です。
▲大蔵前公園の西に残る外濠跡(レンガ敷きの歩道の左に船場川がある。2023年11月上旬撮影)
城跡とは無関係ですが、上の写真で中央に大きく写っている「トリノミュージアム」には、数多くの貴重な名車が展示されています。
車好きの方は、濠跡散策のついでにいかがでしょうか。
ここに残っている外濠跡の南東の角付近から、外濠跡は暗渠(あんきょ=地下を流れる水路)になってしまいます。
暗渠の中で水がどのように流れているのかは不明です。
▲外濠は暗渠になって飲み屋街の中へ伸びていく(2023年11月上旬撮影)
外濠(南側)
今は飲み屋街になっている場所を、かつて外濠はカクカクと折れ曲がりながら南東へ進んでいきました。
外濠の形状と現在の道路の形状は一致しないため、外濠跡に沿って歩くことはできません。
▲外濠の形状と現在の街並み(出典:姫路城跡中曲輪施設整備方針(平成27年10月策定)姫路市役所政策局企画政策室)
現在の道路の形状に沿って飲み屋街の中を南東へ進み、「お菊神社」付近で西行き一方通行の国道2号線(通称:十二所線)に出ました。
ちなみに、この「お菊神社」に祀られているのは播州皿屋敷で有名なお菊さんです。
▲お菊神社(2023年11月上旬撮影)
「姫路城跡中曲輪施設整備方針」の地図では、この神社の敷地の中央を外濠が東西方向に通っていたようですが、その痕跡らしきものが神社の西にありました。
それは、玉垣の陥没。濠を埋め立てた所が凹んでいるのかな。
道路は補修されて平面になっていますが、玉垣は直されていないようです。
▲お菊神社の西側の玉垣。矢印の付近がへこんでいる。(2024年1月中旬撮影)
前掲の地図でまさに外濠があったところを通る道路も歩いてみました。
▲お菊神社の東で東西に走る道路(2023年11月上旬撮影)
外濠跡と思われる細い道路を東へ進み、太い道路に突き当たって右前方の信号を渡ると、アーケードのある商店街(南町中央通)に入ります。
この商店街の北に立ち並ぶ建物は、外濠跡に建っていることになります。
▲南町中央通の様子(2023年11月上旬撮影)左に見える建物は外濠跡に建っている。
商店街を東へ進むと、「ボンマルシェ」というスーパーマーケットの南西角に「飾磨津門跡」の看板が立っていて、ここがかつて外濠跡であり、しかも門もあったことが分かるようになっています。
▲飾磨津門跡を示す看板(2023年11月上旬撮影)
飾磨津門跡
姫路城南方の外濠にかかる門で、姫路城の外港である飾磨津に向かう街道に向かって開かれていることからこの名がある。
明治時代になるとこの門は破却されその跡に公立姫路病院(のちの姫路赤十字病院)が建てられた。
(出典:現地の看板)
ここから山陽百貨店の一階を東へ通り抜け、「姫路駅前」の信号で大手前通りを渡って東へ進み、再びアーケードのある商店街(駅前フラワーロード)に入ります。
そのまま商店街を東へ抜け、駅東大路を東へ。
この通りは、かつての外濠跡です。
▲姫路駅の北側を東西に走る駅東大路(外濠跡)を東へ進む(2023年11月上旬撮影)
アーケードのある商店街を抜けてから東へ進むことおよそ340m、信号がある無名の交差点を左折します。
ここから北向きの通りも、外濠跡。
交差点を左に折れて北向きに歩く区間は、左に住宅や駐車場がありますが、この付近には「北条門」があったそうです。今は何の痕跡もありません。
そのまま北上し、「北条口3」交差点を右折。
ここから東へ延びる道路の南側、ビルが立ち並んでいる場所が外濠跡です。
「巽橋(たつみばし)」交差点を東へ渡ったら、左へ曲がって北へ。
ここからは、お城の東側を北向きに進むことになりますが、この道も外濠跡。
外濠(東側)
北向きに歩き、「神屋公園」を過ぎたら「北条口」交差点を右に入ります。
「北条口」交差点から東へ150m進んだところに小さな橋(神北橋=しんぼくばし)がありますが、この橋が架かっている流れこそ、外濠跡です。
橋から南の流れは後世に付け替えられたものだと思われますが、橋の北側はまさしく姫路城の外濠跡です。
▲神北橋(2023年11月上旬撮影)
▲神北橋から北を流れる外濠跡(2023年11月上旬撮影)
神北橋を渡ってすぐの交差点を左に曲がり、北へ進みます。
濠跡が見えない住宅地を歩くことになりますが、住宅のすぐ背後を外濠跡が当時の流路のまま流れていると思うと、ワクワクしてしまいます。
神北橋から北へ170mほど進んだところで、公園に出会いました。
この公園の名前は「外濠公園」。
この公園に来ると、外濠の折れの形状がしっかり確認できます。
▲外濠公園から見た外濠の折れ(2023年11月上旬撮影)
外濠公園から東へ出て北へ向かうと、すぐに「神屋町4丁目」交差点です。
これを渡り、大阪ガスのすぐ西を南北に走る道路を北上。
100mほど進んだところで、親水公園のような場所に出会いました。
▲外濠跡を利用した親水公園のような場所(2023年11月上旬撮影)
石碑が立っていたので見てみると、河合惣兵衛という方の屋敷が近くにあったようです。
河合惣兵衛邸跡
文化十三年(一八一六)、姫路藩士河合宗信の子として生まれる。名は宗元。はじめ藩校好古堂の肝煎役となり、ついで使番勘定奉行、宗門奉行となり、さらに物頭、持筒頭となる。
文武両道に達し、早くより尊攘論に傾倒し、姫路藩尊攘派の領袖として活躍したが、元治元年(一八六四)甲子の獄に連座して禁固を命ぜられ、ついで獄に下った。同年十二月二十六日に自刃を命ぜられ、四十九才で没した。尚明治二十四年特旨を以て従四位を贈られる。墓は坂田町善導寺にあり、
尚邸跡はこの碑の前の道路を挟んだ所。
平成九年(一九九七)三月
城東地区連合自治会
(出典:現地の石碑)
さらに北へ進んで「国府寺町」交差点を北へ渡ると、間もなく交番に出会います。
ここは、姫路城の「外京口門跡」。
▲「外京口門跡」近くで外濠跡に架かる橋の名前は「京口橋」(2023年11月上旬撮影)
ここを通って東西に延びている道が、かつての西国街道です。
ちなみに、外京口門から姫路城外曲輪(そとくるわ)*1に入った西国街道はまっすぐ400m西へ進み、そこで南へ折れて「坂田町」交差点を渡り、2つ目の角から西へ曲がっていました。そのまままっすぐ西へ進むと、今の二階町や西二階町の商店街。これらの商店街は、西国街道跡なのです。
西二階町を西に抜けた後、備前門から姫路城の外へ出るようにルートが設定されていました。
▲「国府寺町」交差点から北では外濠跡を左に見ながら歩ける(2023年11月上旬撮影)
「国府寺町」交差点から北へ約530mで、「竹之門」交差点に出会います。
名前の通り、ここには姫路城の「竹之門」がありました。
竹門は姫路城の鬼門筋にあたり、鬼門は木門に通じるので竹(他家)門にしたとも伝えられている。
(出典:世界文化遺産 姫路城アーカイブ 公式ガイド p.82)
▲「竹之門」交差点に架かる「竹之門橋」の橋台は古い石垣(2023年11月上旬撮影)
外濠は、「竹之門」交差点の一つ北の曲がり角から西へ延びていきますが、濠とは思えないほど細くなってしまいます。
▲「竹之門」から西へ延びる外濠跡(2023年11月上旬撮影)
そんな細くなった外濠を見ながら西へ進むと、およそ200mで「五軒邸北口(ごけんやしききたぐち)」交差点に出ました。
「五軒邸北口」交差点を西へ渡り、信号の一つ北の角を左へ曲がると、再び左手に外濠跡が出てきます。
外濠を左に見ながら歩けるこの道路は、外濠を埋め立てて造られたものです。
ちなみに、「五軒邸北口」交差点から200mほどの区間で外濠の西にあるのは、同心町(どうしんまち)で、名前の通り同心が住んでいた地域。
▲「五軒邸北口」交差点から北へ延びる車道が外濠跡(2023年11月上旬撮影)
「五軒邸北口」交差点からおよそ450m、外濠は暗渠の中へ消えていきました。
ここには、「姫路城外濠跡」の石碑と看板があります。
▲外濠跡の流れは暗渠に通じていた(2023年11月上旬撮影)
▲外濠が暗渠になる地点に設置された石碑と看板(2023年11月上旬撮影)
外濠の終点付近の東側の町名は、濠の終点があることから付けられたのか、堀留町(ほりどめちょう)です。
長かった外濠跡巡りもこれで終了…と思いきや、車道にグレーチングがあってその下から水の音が聞こえます。
道路の下には、まだ外濠跡が残っているのかな。
▲道路の中央にグレーチングがあって水の音が聞こえる(2023年11月上旬撮影)
グレーチングがある道路は外濠が暗渠になってから90mほど西へ続いていましたが、南北の通りに突き当たってグレーチングは姿を消しました。
今度こそ本当に外濠の終点です。
清水橋からここまでの所要時間は、1時間30分ほどでした。
▲外濠始点~外濠終点を歩いたGPSログ(対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「姫路北部」)
交通アクセス
今回歩き始めた「清水橋」は、姫路駅前から「城周辺観光ループバス」に乗車し、「清水橋(文学館前)」バス停で下車すると、楽に到達できます。
今回の行程の終点から姫路駅へ帰るには、野里街道沿いの「河間町(こばさまちょう)」バス停(外濠終点からおよそ240m)が便利です。
https://maps.app.goo.gl/JjVHtKsoQfHEgcsK6
▲「河間町」バス停(姫路駅方面行き)の位置
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路線バスの時刻、運賃は「神姫バスNavi」で、ループバスは「城周辺観光ループバス」で検索をお願いします。
参考情報
姫路駅の東には、大規模なイベントが行える「アクリエひめじ」(姫路市文化コンベンションセンター)があり、JR姫路駅から屋根付きの連絡通路を歩いて行けるのですが、その途中、「アクリエひめじ」に到着する200mほど手前に「外堀の石垣に使われていた石」が展示されています。
▲外堀の石垣に使われていた石について書かれたパネル(2023年11月上旬撮影)
姫路の城下町 ~外堀の石垣に使われていた石~
江戸時代、姫路城は三重の堀を巡らせ、外堀は広大な城下町を取り囲んでいました。アクリエひめじは外堀に近接した位置に建っており、この近くまで城下町が広がっていたことが分かります。すぐ横にある石は、実際に外堀に使われていたもので、「矢穴」と呼ばれる石を割るための楔形の穴の痕跡が見られます。
敷地内には、他にも7箇所、外堀の石があるので探してみて下さい。
(出典:アクリエ姫路への連絡通路沿いのパネル)
▲外堀の石垣に使われていた石(左)とパネル(2023年11月上旬撮影)
*1:内濠の内側が内曲輪、内濠の外側で中濠より内側が中曲輪、中濠と外濠の間が外曲輪です。