播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

姫路城の外堀発掘現地説明会

姫路城の外堀跡近くでマンション建設工事に先立つ発掘調査が行われ、外堀の石垣が新たに発見されたというニュースを見て、我が家の近所ということもあり現地説明会に参加してきました。


▲現地説明会会場入り口の様子

現地説明会概要
日程: 2023年7月22日午前10時30分開始
場所: 姫路市福中町52番その他
説明会の対象となる調査: 姫路城城下町跡(姫路城跡第480次)発掘調査

明治から大正にかけて大部分が埋め立てられてしまった姫路城の外堀の長さは、往時は約5,000mありました。

その外堀の内側を城内として考えた場合、城内の面積は233ヘクタール(2,330,000平方メートル)になり、東京ディズニーリゾート(201ヘクタール=2,010,000平方メートル*1)よりも広いということになります。

一般的に「東京ドーム〇個分の広さ」という表現がよく使われますが、東京ドームは約4.7ヘクタールですから、姫路城外堀の内側の面積は「東京ドームおよそ50個分の広さ」ということになります。

私が姫路城の近くに住んでいると言っても、それだけ広いと家から発掘現場まで遠くなる可能性もありますが、今回は我が家のすぐ近所。

発掘現場を覆うシートの隙間から石垣が見えている時期があり、前を通るたびにその石垣を眺めて感動していました。

そしてついに、その石垣の発掘調査に関する現地説明会が行われることに。
城好きの地元民としては、行かないわけにいきません。


https://goo.gl/maps/aEsfw6RQPqbQmyQZA
▲姫路城跡第480次発掘調査現場の位置

江戸時代の調査地付近の様子
 今回の調査地は、町人地を中心とした外曲輪の西部、姫路城の西を画する外堀にあたります。江戸時代の絵図等によれば西側を船場川、その東に石積みの土手を挟んで外堀が設けられ、堀沿いには土塀がありました。調査地のすぐ南には、西国街道の西の出入口である備前門があり、門には木橋が架かっていました。
(出典:現地で配布された資料)


▲発掘現場の位置(出典:現地で配布された資料)

10:30
見学者用のテントが現場の北側に設置されていましたが、そこに収まりきらないほどの見学者が集まった中、説明会が始まりました。


▲現地説明会の様子

今回発掘されたのは、船場川と平行に南北に伸びていた外堀の一部です。
遺構は、船場川と外堀を隔てる堤の東側(外堀の西側)の石垣と、外堀の東側を固めた石垣、そして外堀の底です。


▲発掘された石垣と外堀の底(北から南向きに撮影。船場川は右側にあるので、右の石垣が船場川との間にあった堤の東側=外堀の西側の石垣で、左に写っているのが外堀東側の石垣。発掘担当者が立っているのが外堀の底。)

現場がどういった場所なのかは、今回の発掘現場の北にある「白鷺橋(はくろばし)」交差点の北側で現存する外堀を見るとわかりやすいと思います。


▲現存する外堀と船場川

今回発掘された場所も、明治が始まるまでは上の画像のように水を湛えた外堀の一部だったわけです。

発掘された石垣は、裏込めが見えるようになっていました。
まずは外堀東側の石垣。


▲外堀東側の石垣の断面(裏込めの石が見える)(地表付近にも川原石があり、明治以降の開発で地表付近が攪拌されたことが想像できる。)

川原石が裏込めに使われていることが良く分かりますが、裏込めがどのくらいの奥行きを持っていたのかは、明治時代にこの付近が深く掘られて遺構が壊されたため分からないそうです。

続いては外堀の西側(堤の東側)の石垣。
こちらも裏込め石が少し見えるようになっています。


▲外堀西側の石垣の断面

外堀東側の石垣は高さ1.7m、7段の石積みになっており、凝灰岩の自然石または割石が使われています。

説明によると、この石垣は整地された地面に石が積まれており、下の方には石を積むときに出る水平方向の境目が出ているのに対し、上部は石の積み方に乱れがあることから、積みなおしが行われた可能性があるとのことです。


▲外堀東側の石垣

昔の船場川は今よりずっと広く、外堀東側の石垣が当時の船場川の東岸だった可能性があるそうです。

つまり、姫路城築城にあたって船場川を縦に割るように細い堤を作り、西を船場川、東を外堀にしたということです。

外堀西側(川と外堀を隔てる堤の東側)の石垣は、川底を整地せずそのまま石が積まれており、裏込めに大きな石(石垣の石そのもの)が使われているところもあることから、洪水で損壊した際には石の元の配置にこだわらず、復旧を急ぐため乱雑に石が積みなおされた可能性があるそうです。

こちらは高さ約2.6mで、9段分が残っています。


▲外堀西側の石垣(東側の石垣と比べると積み方が荒い?)

外堀東西に残る石垣上端の高さは同じなのに、外堀の西側の石垣が東側より高いのは、外堀の底が西へ行くほど(船場川に近づくほど)低くなるように傾斜しているからだそうです。

このような立派な石垣に挟まれた外堀は幅が約10m、深さは約1.7~2.6mあったようですが、この付近は明治時代に埋め立てられてしまいました。


▲外堀を埋めている土の層(発掘現場南側から北向きに撮影)

現地で配布された資料にある明治初期の写真では、外堀東側の石垣の上には、狭間(さま。丸、三角、四角の穴。その穴から銃や弓矢を撃つ。)が開いた城壁が写っています。

見学者からは「明治時代には、この城壁も壊されて外堀の埋め立てに使われたのですか?」という質問が出ましたが、発掘の際、堀の底から若干の瓦は出てきたものの枚数が少ないため、城壁は壊されて埋められず、何かに再利用された可能性があるとの回答でした。

もともと船場川の一部だった場所を外堀にし、それを埋め立てたため現在でも水が流れており、今回の発掘現場には排水用のポンプが置かれていました。


▲外堀跡には今も水が湧き出している(発掘担当者の足元にあるのは排水ポンプ)

外堀の底は凸凹していますが、これは発掘調査で荒れたわけではなく、きちんと発掘をして「当時の堀底の形を正しく再現したもの」とのことでした。

11:30
説明会と質疑応答が終了。

説明会の終了後、人が少なくなってから会場の様子を全天球パノラマで撮影してみました。


https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/sotobori20230722/index.html
▲現地説明会終了後に撮影した全天球パノラマ

説明会の会場では近所の方が何人か来られているのにお会いしましたし、自転車で来られている方も多かったので、参加者はやはり地元の方が多かったようです。

「白鷺橋」交差点の北には、埋められることなく現存している外堀やその石垣がありますが、今回のような「掘りたてほやほや」の状態の石垣は雰囲気が違っており、感動を味わいながら見学を楽しめました。

ところで、船場川の両岸は護岸工事によってすっかり当時の石垣が見えなくなっているのですが、今回の発掘現場の50m北、西国橋の下には石垣のようなものが残っているのを見られます。


▲西国橋の下に残る石垣(?)


▲石垣が見えるのはこの場所(白鷺橋から撮影)

*1:東京ディズニーランドはそのうちのおよそ4分の1。