播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県加東市の三草山(423.9m)と国宝の朝光寺

私が勝手に山歩きの師匠だと思っている「やまあそ」さんのFacebookを見ていると、兵庫県加東市の朝光寺の北にある尾根(朝光寺コース上)には12世紀まで山の上にあった朝光寺の跡地があり、古地図にある権現社跡や愛宕社跡、そしてその2か所の間にある池が今も残っているとのこと。

そこで、それら旧朝光寺の遺跡を見るために三草山(兵庫県加東市)に登ってみました。

「朝光寺コース」で山頂を目指し、下山には「畑コース」を歩く行程です。

せっかくなので、三草山の近くにある朝光寺(本堂が国宝)も見学することにします。


▲朝光寺本堂


▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「比延」

「やまあそ」さんのFacebookで紹介されていた天明7年(1787)の古地図では333m標高点が「愛宕社」で、池を挟んだ西のピークが「本山権現」とされています。

そこで、現地では「権現山」のプレートが設置されている333mピークを愛宕山、その西のピークを権現山としています。


▲カシミール3Dで作成したルートの断面図

08:30
姫路市街の自宅を車で出発。

国道372号線を北東へ進み、加古川を渡って4kmほど進んだところにある「嬉野(うれしの)交差点を右折。

ここからは県道564号線(学園道路)です。

県道564号線を東へ進み、社高校や兵教大付属幼稚園、付属小学校を過ぎた先にある「兵教大付属小東」交差点を左折。

1kmほど北へ進んだところにある「藤田東」交差点を右折して県道17号線(西脇三田線)に入ったら、中国自動車道を左に見ながら県道17号線を東へ。

県道17号線はやがて中国道の下を潜ります。

中国道をくぐってからおよそ2.7kmにある「朝光寺口(ちょうこうじぐち)交差点を左折。

「朝光寺口」交差点から北東へ延びる道路はやがて大きく左へカーブしますが、そのカーブの終わりで「国宝 朝光寺↑」「西国25番 清水寺→」「東条湖→」と書かれた標識に出会うので、「国宝 朝光寺↑」方面へ左折。

「朝光寺口」交差点からおよそ3.5km、道が西へ向きを変えた後、「←国宝 朝光寺・三草山 畑登山口→」と書かれた標識のある三叉路(直進と右折)に出会ったら、標識に従ってそれを右折。

三叉路から1kmほど北へ進んだところで右手に現れる駐車場に車を止めました。


https://goo.gl/maps/zpYEXVCoeCteTkya6

▲登山者用駐車場の位置

09:52
駐車場に到着(地図中「P」)。


▲駐車場の様子

GPS受信機が衛星を補足するのを待ちながら靴を履き替え、準備を整えます。

10:00
出発。
朝光寺コースの登山口を目指して駐車場から南へ車道を進みます。

途中で左(東)に見える巨大な寺院は念佛宗の「ナーランダ僧院」

これも十分に巨大な施設ですが、畑コースで下山するときに見える念佛宗 無量壽寺(むりょうじゅじ。後述します。)の規模には遠く及びません。


▲道を歩いていると見えるナーランダ僧院

10:09
駐車場からおよそ900mで「←国宝 朝光寺・三草山 畑登山口→」の道標が立つ三叉路に達したら、朝光寺を目指して右へ曲がります(地図中「朝光寺・畑登山口分岐」)。


▲三叉路で道標に従って朝光寺方面へ曲がる

10:17
三叉路から約600m西へ進んだところ(総持院の手前)に「防火水そう」の標識が立ち、路面に「駐車禁止」と書かれた空き地があります。

この空き地の奥が朝光寺コースの登山口
朝光寺コースから登る場合の最難関は、この登山口探しだと思います。

▲防火水そうの標識(奥は総持院)


▲朝光寺コース登山口(矢印の位置)

歩く人が少なそうなコースですが、竹や木に赤テープが巻かれていてわかりやすくなっています。

と思ったら、登山道に入って間もなく、越えるのが難しそうな倒木に登山道がふさがれてしまいました。

突破するのは大変そうですが、よく見ると右側に巻き道が作られていました。


▲登山道に入って間もなく出会う倒木は右から巻く

倒木を右から高巻いて越え、枯れ沢を渡ると道が明確になってきました。
ただ、男気あふれる一直線の道なのでキツイ!


▲尾根に乗ると道は明確になる(道は333m標高点まで終始このような雰囲気)

10:46
一直線の道で斜面を登ったせいでヘロヘロですが、何とか333m標高点(愛宕山)に到着しました(地図中「愛宕山」)。

現地には「権現山」のプレートが立っていますが、朝光寺の古地図では愛宕社が描かれているため、この記事では「愛宕山」としています。


▲333m標高点(愛宕山)


▲333m標高点に残る礎石(?)

ここから道は西へ向きを変えます。

10:49
池の横を通過(地図中「池」)。
この池は、前述の古地図にも記載されています。


▲333m標高点の西にある池

池の辺りでは、道の左(南)の斜面下に平坦な場所(削平地)が何段か見られました。
かつて山の上に旧朝光寺があった頃は、これらの場所に伽藍が建っていたのかも。

さて、池から西のピーク(権現山)へ続く道は尾根の中心を外れており、意識して歩かないと権現山のピークを通らず鹿野コースに合流してしまいます。


▲登山道は権現山の山頂を避けるようにつけられている(右上が権現山のピーク)

権現山のピークを右上に感じながら歩いていたら、そろそろ通り過ぎたかなと思うころに下の画像の場所に出合います。


▲権現山山頂への入口(ここでいう「権現山」は、333m標高点の西にある小ピークです。)

10:54
路面に並べられた枝をまたいで先へ進んだところが権現山の山頂(地図中「権現山」)。

展望のない雑木林ですが、1189年に現在の位置に移されるまでは旧朝光寺がこのピークを西端として愛宕山まで広がっていて、その遺跡が目の前にあると思うとワクワクします。


▲権現山山頂に残る旧朝光寺の遺物(?)

あまりのんびりしていると三草山山頂に到着するのが遅くなるので、鹿野コースとの合流地点に急ぎましょう。

池を中心とした旧朝光寺跡の周辺は木々が鬱蒼としていて薄暗かったのですが、権現山から鹿野コースへ続く道はマイナー感が少ない明確な道です。

11:01
376m標高点の少し南で鹿野コースと合流しました(地図中「鹿野コース出会い」)。


▲ここで鹿野コースと合流した

376m標高点の周辺だけは砂が浮いた岩がちな路面になっていて、周囲の植物が少ないため展望が楽しめました。

11:03
道の左に少し外れたところに、「展望岩」と書かれたプレートがぶら下がった展望所がありました(地図中「展望岩」)。

ここからは、南西方面の大展望を楽しめます。


▲展望岩

376m標高点を過ぎてからは両側の展望がなくなり、細かいアップダウンのある道になります。

11:15
「炭焼窯跡古道コース」が左へ分岐する鞍部を通過(地図中「炭焼窯跡古道コース分岐」)。


▲炭焼窯跡古道コース分岐がある鞍部の様子

鞍部から北へ上り返す斜面は斜度が急な上に、大きな段差や人間工学を無視した擬木階段もあってなかなかキツイ。


▲鞍部から登り返す急斜面の様子

やがて路面が赤っぽい岩の斜面になると、畑コース分岐はもうすぐです。

11:22
畑コースが右に分かれる分岐に出合いました(地図中「畑コース分岐」)。

今はここを直進して山頂を目指しますが、下山の際はここから右(東)へ分かれる畑コースで下ります。


▲畑コース分岐の様子(三草山山頂へは直進、畑コースは右)

山城好きの方なら、この付近から階段状に並んだ削平地が登山道の右側に出てくるのに気づくと思います。
それもそのはずで、この一帯は三草山城跡

畑コース分岐の直前でも、足元を注意して見ていれば石積みを見つけられます。

「三草古道コース」が左に分岐する三叉路を山頂に向けて直進すると、虎口跡のような場所を通って三草山山頂に到着です。


▲右側に削平地(山城の郭跡)を見ながら進む


▲山頂直前は虎口(こぐち。山城の平坦地への侵入を防ぐ門)跡のような地形

11:27
二等三角点標石(点名:三草山)が埋設された三草山の山頂に到着。


▲三草山山頂(奥に見えているアンテナは簡易デジタル無線の「三草山 中継無線設備」。三角点標石は中央の男性の足元にある。)

すでに書きましたが、三草山の山頂は三草山城跡です。

三草山城趾
 三草山は播磨平野の北東隅にあり、山麓をはしる街道は、古くから、播磨と丹波を結び京の都への要路であった。
 寿永三年二月、平家追討のため、源九郎義経の率いる一万余騎は、丹波小野原の里に布陣し、夜半、民家や山野に火を放ち、三草三里の山中を駆け抜け、一挙に平家の陣に突入した。三草山の西の山口に陣取る小松三位中将資盛、左中将有盛など平家一門七千余騎は、不意の夜討ちに弓矢を取るいとまもなく、もろくも、屋島をさして敗走していった。これが世にいう「三草合戦」と、「平家物語」などの伝えるところである。その後、建武三年、赤松出羽守則友がこの地に山城を築いた。嘉吉元年の騒乱のとき、三草口に赤松方の将宇野能登守国祐が配置され、また、「嘉吉の乱」の後にも、赤松満政、則尚が三草山城で山名方の軍勢と一戦を交えて敗れたことなど、三草山にまつわる歴戦の史である。
 新社町発足二十五周年記念事業として、清水・東条湖県立自然公園のこの地に、「三草山遊歩道」を新設し、住民こぞって郷土の歴史的遺産を保存し、学園都市社町のシンボルとすべく、ここに碑を建立するものである。
 昭和五十五年四月
  三草山に遊歩道をつくる会長
   社町長 石古勲
(出典:三草山山頂にある三草山城趾の碑)


https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/mikusayama20170225/virtualtour.html
▲三草山山頂で2017年2月25日に撮影した全天球パノラマ

南端のベンチに陣取り、霞んだ南東方面の景色を楽しみながら昼食をいただきました。


▲本日の昼食は冷凍食品の「大阪王将 金華スープの醤油ラーメン」

食事中、隣のベンチに座っている男性が気になって仕方ありませんでした。
というのも、登山者用SNSの「ヤマップ」で私がフォローしている方(顔出しされています)にそっくりなのです。

その男性はお友達と思われる方と二人でおしゃべりに花を咲かせておられたのですが、その会話の中にヤマップのアカウント名が出てきました。

それでご本人だと確認でき、声をかけさせていただきました。
最初は怪訝な表情でしたが、私が「しみけん」だと名乗ったところすぐにお分かりいただき、いろいろとお話ができました。

さらに、ヤマップで見覚えのあるワンちゃんと飼い主ご夫妻も山頂に登場。
「絶対にあの方だ!」と思って見ていたら、先ほどの男性が「あちらは〇〇さんですよ」と教えてくださり、「やっぱり!」とそちらのご夫妻にも挨拶をさせていただきました。
人のいない静かな山が基本的には好きですが、たまにはこういう出会いも楽しい。

12:18
食事と出会いを楽しんだので、下山開始。

12:22
畑コース分岐に戻り、東(畑コース)へ入ります。

畑コースの下り始めは、三草山城の郭跡(周囲に土塁の痕跡がある)の中を通るので、山城跡好きの方には楽しいかも。

城域を抜けると、展望の良い道になります。


▲畑コースの標高が高い区間は展望がいい

擬木階段などの段差が大きな箇所には黒い土嚢が設置されており、泥が乗っていると滑りやすいですが、段差が小さくなって快適に歩けました。


▲擬木階段の間(土砂がえぐれたり流されて凹みがち)に土嚢が設置されて場所の様子

気持ちよく下っていると、視線の先に巨大寺院が見えました。
「念佛宗三寶山 無量壽寺(ねんぶつしゅうさんぽうざん むりょうじゅじ)です。

遠近感がおかしくなるような大きさの寺院ですが、後でこのお寺をじっくり見られる場所があるので、この段階では無理に写真を撮らなくても大丈夫です。


▲東麓の無量壽寺が正面に見える場所があった

12:31
360m標高点の手前で、「源平古戦場(三草山)」と題した看板に出合いました(地図中「源平古戦場看板」)。

ここに城があったわけではなく、この場所からだと三草山の山頂を見渡すこととができ、山城の姿をイメージしやすいから看板が立っています。


▲源平古戦場(三草山)の看板と三草山山頂

源平古戦場(三草山)
 平家物語によると、寿永三年(一一八四年)二月、源九郎義経率いる一万騎は、丹波小野原(現 篠山市)に布陣し夜半、民家や山野に火を放ち、三草山西の山口に陣取る小松三位中将資盛ら平家七千余騎を襲撃しました。不意の闇討ちに平家の軍勢は弓矢を取るいとまもなく、屋島をさして敗走していったとのことです。
 また、それから後の南北朝の時代、播磨から京都に入る要衝の地として三草山には城がありました。城主は、赤松出羽守則友といい、山名氏との戦いにおいて軍功のあった人です。当時の名残である土塁が、今もなお山頂付近に残っています。
(出典:現地の看板)

360m標高点を過ぎてすぐ、道の左側に木が伐採された展望所があります。
ここは、無量壽寺を見るためのスポット。


▲展望スポットから見た無量壽寺

無量壽寺の公式サイトによると、最奥に見える本堂の高さは51.5mで、その前に立つ石燈籠の高さは12m
右手前に写っている山門は、高さが35.6mです。

どえらい大きさですね。

思う存分無量壽寺を眺めてから登山道に戻ります。

「畑コースNo.3」と書かれた緊急通報用の看板を過ぎると、赤ペンキが塗られた木と黄色いプラ杭が道の左側にずらっと並ぶ区間に入ります。


▲赤ペンキが塗られた木々

プラ杭には「分育界」という文字が入っていますが、調べても分かりませんでした。

12:40
ベンチが置かれた畑コースの五合目(地図中「五合目」)を過ぎるとすぐ、「畑コースNo.2」の緊急通報用看板に出合いますが、その近くには「分収育林 写真定点」と書かれたプレートが木にぶら下がっていました。

先ほどのペンキが塗られた木々や黄色いプラ杭と関係がありそうです。
過剰整備の成れの果てかと思っていましたが、何やら木々の管理に必要なものなのかも。

畑コースの終盤では、擬木階段が長く続きます。


▲畑コースの終盤は擬木階段

12:56
三草山神社(山頂に小さな祠がある)の鳥居をくぐり、駐車場に戻ってきました(地図中「P」)。


▲三草山神社の鳥居

せっかくなので、本堂が国宝に指定されている朝光寺を見に行きましょう。
朝は時間がなかったので、朝光寺の目の前まで行ったのに見学しなかったのです。

車に乗って南へ進み、「朝光寺・畑登山口分岐」を右折。
「朝光寺登山口」前を通り過ぎて左にカーブし、続いて右カーブを過ぎてすぐ左にある朝光寺の駐車場に車を止めました。

朝光寺は、駐車場、拝観料ともに無料です。


▲朝光寺駐車場


https://goo.gl/maps/1QbQAJig8D6cbJrm6
▲朝光寺駐車場の位置

駐車場の東端から遊歩道に入るとすぐ、きれいなお手洗いがあります。
登山前後にお手洗いに行きたい場合は、ここが便利です。


▲駐車場の東端から道標に従って朝光寺へ向かう

お手洗いを過ぎ、沢沿いの遊歩道を歩いていくと「つくばねの滝」に出合います。


▲つくばねの滝

つくばねの滝
 「つくばねの滝」は、鹿野川にかかる滝で、朝光寺の周辺にツクバネが多く自生していることからこの名で呼ばれ、親しまれています。
 ツクバネはビャクダン科の植物で、果実の形が羽子板で突く羽根に似ているので、衝羽根(つくばね)と名付けられました。
播磨地域でも大変珍しく、昭和58年(1983年)に加東市の天然記念物に指定され、保護されている植物です。

兵庫県自治振興事業

(出典:現地の看板)

つくばねの滝から石段を上り、朝光寺の山門(仁王門)をくぐると国宝の本堂です。


▲朝光寺本堂

国宝 朝光寺本堂

(昭和二十九年三月二十日指定 付厨子一基 嵌板三枚)

 朝光寺は、法道仙人の創立と伝え、もとは裏の権現山にあったが、平安末期文治五年(一一八九)に現在地に移したという。
 桁行七間梁間七間単層寄棟造本瓦葺、堂々たる本堂である。和様を基調として、扉の桟唐戸や組物中備の双斗など唐様を取り入れた密教寺院の折衷様式の典型ともいうべき貴重な遺構である。
 現建物について直接の資料は欠くが、厨子の嵌板には室町初期応永年間の仏壇造営記録銘等があり、本堂の様式手法も同時代に一致すると見られている。正面向拝は、文政十二年の後補である。
 旧法の特別保護建造物であったために、昭和十年から三ケ年に亘り解体修理が行われた。
 所蔵遺品には、鎌倉・室町期の銘を有するものが多く文化財の宝庫である。

加東市・加東市観光協会
(出典:現地の看板)

本堂に向かって右には多宝塔、右奥には鐘楼があります。


▲多宝塔


▲鐘楼

重要文化財 朝光寺鐘楼

(昭和二十九年九月十七日指定)

 この鐘楼も本堂同様平安末期に現在地に移されたと伝えられる。
 桁行三間梁間二間四注造銅板葺袴腰付の建築で、全国的にも類例の少ない貴重な遺構である。
 和様を基調とする様式手法で、屋根の優美な曲線などに鎌倉後期の建築の特徴をよく表現しているといわれ、本堂よりも早い時期の建立と見られている。室町後期、赤松義村ら多くの播磨国主の崇敬を受けて、いくたびか修理を重ねたという。
 多宝塔にも姫路城主池田三左衛門輝政の再建寄進銘があるなど 国主豪族の庇護のもとに隆盛を誇った往時がしのばれる。

加東市・加東市観光協会

(出典:現地の看板)

私が来た時にはすでに車が何台も止まっていましたし、見学している間にも続々と見学者が訪れていて「人気があるお寺なんだなぁ」と驚いたのですが、理由が分かりました。

朝光寺は、キムタク主演の映画「レジェンド&バタフライ」(2023年1月27日公開)のロケ地の一つだそうです。

ファンの方々が、映画のロケ地訪問感覚で訪れているのかも。

13:25
朝光寺を出発。

14:45
自宅に到着。


交通アクセス

畑コースの登山口、あるいは朝光寺へ直接行ける公共交通機関はありません。
自家用車をご利用ください。
遠方から来られる場合は、中国道の滝野社インターチェンジが最寄りの出口です。

周辺の駅からタクシーを利用することは可能ですが、運賃が高額になります*1

*1:JR加古川線の滝野駅から駐車場までは14km。JR宝塚線の相野駅からは20km弱です。