播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

鶉野(うずらの)飛行場跡の展示:無蓋掩体壕とSNJ(T-6テキサン)

私が住む兵庫県姫路市の北東に隣接する加西市には、鶉野(うずらの)飛行場跡と呼ばれる「姫路海軍航空隊鶉野飛行場」の跡地があります。

その鶉野飛行場の滑走路跡の北西に、当時戦闘機を保管するために使われた無蓋掩体壕(むがいえんたいごう)跡と、基地を守る対空機銃陣地跡が残っているのですが、今まで荒れ放題だった掩体壕跡で、当時の米軍機(米海軍の名称では「SNJ*1」。米空軍の名称では「T-6テキサン*2」。)の屋外展示が2020年の春に始まりました。

SNJはアメリカ軍のかつての高等練習機。
日本軍機ではありませんが、改造された機体が映画「トラ・トラ・トラ!」(1970年 20世紀フォックス)にゼロ戦や九七式艦上攻撃機として登場しています。

「SNJ」よりも「T-6テキサン」の方が知名度が高いかも知れませんが、現地の看板では「SNJ」や「SNJ-5」と表記されているので、この記事内では「SNJ」の名前を使用します。

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▲無蓋掩体壕に展示されたSNJ(旧日本海軍機のように塗装されている)

海上自衛隊

『SNJ-5』練習機

 米海軍名『SNJ』の呼称を海上自衛隊が引き継ぎ、航空自衛隊では別名T-6『テキサン』とも呼ばれ米国のノースアメリカン社で開発された傑作機の一つで、世界で最も成功した練習機です。 昭和10年に誕生してから約55年間飛び続け、総生産数17,096機、世界の40ヶ国で使用されました。

 戦後、自衛隊発足後、昭和30年1月、MSA協定により供与され、航空自衛隊に167機、海上自衛隊に48機の計215機を保有した。この機体は、鹿児島県鹿屋市の海上自衛隊『鹿屋航空基地資料館』に展示されていましたが、第1航空群司令のご好意により加西市防衛協会に貸与されたものです。

『SNJ』の要目

速度 巡航 約287km/h 発動機 R-1340 600馬力×1基 全備重量 約2,400kg 乗員 2名 製造会社 ノースアメリカン社 機体 幅12.81m×長8.84m×高3.80m

(出典:現地の看板)

SNJは生産数が多いことと戦勝国の機体であることから、現在も多くが飛行可能な状態で残っているようで、2018年にアメリカのウィスコンシン州で開かれた航空ショー「EAA エアベンチャー・オシュコシュ」では、多数のSNJ(T-6)による大編隊やアクロバット飛行が披露されました*3

その航空ショーで撮影された動画がYoutubeにありますので、転載します。


Oshkosh Texan Day! - 80th Anniversary of the T-6 - EAA AirVenture Oshkosh 2018

2019年12月に神戸新聞に掲載された記事によると、鹿屋航空基地史料館(鹿児島県)に展示されていたSNJを、鶉野平和祈念の碑苑保存会の方々の尽力により借り受けることができたそうです。

その記事を読んでから、「いつ公開されるんだろう?」とワクワクしながら続報を待っていましたが、私が見落としたのか、その後SNJの続報を見ることはありませんでした。

ところが、ある日Googleマップを眺めている時に「『SNJ』(別名T-6)展示」と書かれた地点をたまたま発見。

終戦の日の記事にしようと考えて、日本海軍機のように塗装された本物のSNJを見に行ってきました。

鶉野飛行場跡について

https://goo.gl/maps/RCuCZFYS1zR5KYxj7

▲鶉野飛行場跡の位置

姫路海軍航空隊鶉野飛行場は、兵庫県加西市に作られた旧日本海軍の飛行場で、紫電や紫電改のメーカーである川西航空機の工場も併設されていました*4

北東から南西にかけて延びる長さ1,200mの滑走路跡が今でもはっきりと残っており、滑走路の北東端には当時の格納庫をイメージした防災備蓄倉庫が建てられています。

倉庫の中には紫電改のリアルなレプリカが保管され、定期的に一般公開もされています。

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▲南西向きに見た鶉野飛行場の滑走路跡(2019年9月撮影)

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▲紫電改(精巧なレプリカ)の一般公開の様子(2019年9月撮影)

鶉野飛行場跡の最寄り駅である北条鉄道の法華口駅は、当時を思わせる木造駅舎が残っており、駅から飛行場跡までの道には、防空壕など当時の遺構がよく残っています。

これらについては、この記事の末尾に詳細な記事へのリンクを掲載していますので、興味のある方はご覧ください。

無蓋掩体壕について

https://goo.gl/maps/aseR3w93xmKk8FRP8

▲無蓋掩体壕の位置(「『SNJ』(別名T-6)展示」と表示されている場所。)

無蓋掩体壕は、上から見るとアルファベットの「C」の字型をした土塁で、完成当初の高さはおよそ3m。

その内側に戦闘機を置くことで、周辺が攻撃を受けた際の爆風や破片から戦闘機を保護します。

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▲無蓋掩体壕の土塁で囲まれたSNJ(機体の背後の旗は旭日旗とZ旗*5

鶉野飛行場に残る戦争遺跡

無蓋掩体壕

 大東亜戦争末期、姫路海軍航空基地では本土決戦に備え、待機する『紫電』他を隠すため、飛行場周辺に土盛りの『無蓋掩体壕』を作りました。約3mの高さの堤体にして飛行機を入れ、木の枝や木葉で覆いして保存していた。

 昭和20年7月に入り基地の施設や配備する飛行機に対し、連合軍の戦闘機の攻撃も頻繁になり、海軍第585設営隊の完璧な作業で1機も破壊されることなく全機無傷で残された。

この掩体壕を含めて飛行場の周辺には55箇所の無蓋掩体壕が作られました。

【今に残るこの『無蓋掩体壕』は鶉野飛行場に現存する価値の高い戦争遺跡です。】

(出典:現地の看板。原文まま)

無蓋掩体壕の土塁は登ることができる*6ので、地上からとは異なる角度でSNJの機体を眺められます。

やはり、こういう機体は少し上から全体を見た方が格好いいですね。

注:無蓋掩体壕の内側の範囲(SNJの周囲)は立入禁止です。

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▲土塁に登って左から見たSNJ

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▲土塁に登って左後方から見たSNJ

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▲SNJのプロペラハブ(軸)とエンジン

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▲SNJのカウル(エンジンの覆い)と排気管(排気管は右側にしかない)

米軍機ですが旧日本海軍機の様式で塗装されているため、旧日本軍の基地跡にあっても違和感なく眺められます。

日本軍機に詳しい方は違和感を感じられるかも知れませんが、これを紫電や九七式艦上攻撃機(いずれも当時鶉野で運用されていた)に脳内で変換して眺めることをお勧めします。

無蓋掩体壕で全天球パノラマを撮影したので、現場の雰囲気は以下のパノラマでご覧ください。

パノラマ画面左上のリストで2種類のパノラマを切り替えられます。

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/uzurano20200810/virtualtour.html

▲無蓋掩体壕の前と土塁の上で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2020年8月10日)

96式25粍(ミリ)対空機銃陣地跡について

https://goo.gl/maps/KiP1LXsSXWHiFTyv8

▲96式25粍対空機銃陣地跡の位置(「鶉野対空砲陣地跡」と表示されている場所。)

無蓋掩体壕のすぐ東にあり、映画「男たちの大和」(2005年 東映)で使用された三連装の対空機銃(撮影用の小道具)が設置されています。

(注)設置されている模型は三連装ですが、実際に使われていたのは連装機銃です*7

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▲96式25粍対空機銃陣地(機銃の模型を保護するため小屋がかけられており、機銃陣地内部の構造は見づらくなっている。)

上の画像には地下道の入口のようなものが写っていますが、これは機銃陣地の地下にある弾薬庫への出入口。

この機銃陣地が活躍していた当時、地下の弾薬庫へは陣地の外からはこの階段で、陣地の内側からは梯子で上り下りできるようになっていました(地下の弾薬庫は現在、水が溜まっています)。

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▲機銃の模型が設置される前の機銃陣地の様子。地下の弾薬庫へ下りる梯子の入口*8は、格子でふさがれている。それ以外の四角い穴は、弾薬置き場。(撮影日:2012年8月4日)

ここに設置されていたのは、96式25粍(ミリ)機銃。

1945年7月30日に鶉野を攻撃した米軍のアヴェンジャー雷撃機(100kg爆弾を1機あたり12発装備)9機の内、2機が25mm機銃により被弾しています。米軍の報告書では、基地西部の機銃陣地からの攻撃だったと記載されているので、その時に弾を命中させたのがこの機銃陣地かも知れません。
※米軍の報告書の内容をこの記事の末尾にまとめていますので、興味のある方はご覧ください。

ちなみに、兵器の名称で○○式と書かれている場合、「96式」なら「きゅうじゅうろくしき」ではなく「きゅうろくしき」と発音するのが正しい読み方です。なお、「式」の前につく数字は、採用された年*9の末尾2桁です。

口径などを示す数字は、普通の読み方をします。

そのため、「96式25粍機銃」は「きゅうろくしきにじゅうごみりきじゅう」と読むのが正しいことになります。

15発入りの箱形弾倉*10で給弾する機関銃*11で、単装、連装、三連装の3種類の設置方法がありました。

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▲実際の九六式二五粍機銃(連装)の陣地*12。周囲に多数の箱形弾倉が置かれている。(出典:Wikimedia Commons)

Youtubeに九六式二五粍機銃の当時の映像(地上に設置された連装型と艦艇に搭載された三連装型の映像)がありましたので、転載します。


九六式二十五mm機銃 Type96 25mm Anti Aircraft Gun

日本海軍

96式25粍対空機銃

 この機銃は2005年(平成17年)12月17日、に東映株式会社が製作した『男たちの大和』の撮影に使用された実物大の模型です。最近加西市の鶉野飛行場の戦争遺跡が、多くの方々に知られることになり、その中でも完全な形をした対空機銃座跡が現在4カ所(戦争当時5箇所)が当時そのままの姿で残されております。

 その内の1カ所(鶉野町の奉天池東)にある機銃を平成22年に有志により清掃、整備しました。この度東映太秦撮影所の保管されている模型機銃をお借りし、装着して当時の飛行場を守る姿を再現し、設置の状況を見て頂きたいと思います。

96式対空機銃の説明

 この機銃は日本海軍が軍艦及び陸上の基地を守るために配置されたが、主に低空から進入する飛行機を攻撃するために配備されました。

25機銃の開発史

製造業者:横須賀海軍工廠造兵部・製造機関:1936~1945・製造数:32,380挺

25機銃の諸元

重量:(連装)1,650kg・銃身長 1,500m・要員数:5名*13・口径:25mm・作動方式:ガス圧利用・砲架:電動旋回又は手動旋回・仰角:-10度から+80度・旋回角:360度・初速:900/秒・発射速度:最大発射速度 230発/毎分・実用発射速度 130発/毎分・有効射程:有効射高 3,000m前後・最大射程 8,000m・最大射高 5,250m・装填方法:15発入り箱形弾倉・照準方法:95式照準装置(2FR式)

(出典:現地の看板。原文まま。「製造機関」は「製造期間」の、「銃身長」の「1,500m」は「1,500mm」の、「初速」の「900/秒」は「900m/秒」の、「照準方法」の「95式照準装置」は「95式射撃指揮装置」の、「2FR」は「LPR」の誤りか。日本軍での制式名称は「九六式二十五粍機銃」で、「対空」という言葉は本来ついていません。)

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▲無蓋掩体壕との位置関係

注意事項

  • 今回紹介した無蓋掩体壕や対空機銃陣地の見学者用駐車場はありません。SNJの目の前にある路側帯(車を2~3台止められる)に車を置いて見学することになります。
    あるいは防災備蓄倉庫で紫電改が展示される際に、倉庫から歩いても良いかも知れません。紫電改が展示されている防災備蓄倉庫から無蓋掩体壕までは、片道およそ650mです。
  • 車道から無蓋掩体壕や対空機銃陣地へ行くための道は、田んぼのあぜ道です。
    雨や雪の後は、靴が汚れたりぬかるんで歩きづらくなる可能性があります。
  • 展示されているSNJは、当時鶉野で使用されていた機体ではありません。当時の様子をイメージしやすくするために、同時代の米軍機を日本軍機のように塗装して展示されています。
  • SNJが展示されているすぐ東の機銃陣地跡は、三連装の機銃の模型が設置されていますが、戦時中にここで実際に使われていたのは連装機銃です。

最後に

今回紹介したSNJや対空機銃陣地跡は、単独の観光スポットとしては物足りないと思いますので、鶉野飛行場跡北端の防災備蓄倉庫で行われる紫電改の一般公開と併せてご覧になることをお勧めします。

2020年6月からは、紫電改の公開日に滑走路南の巨大防空壕跡がシアターとして開放され、特攻隊員の遺書を読み上げる動画の上映が行われています(要事前申し込み)。

巨大防空壕シアターについては、北条鉄道のWebサイト(下のURL)をご覧ください。

http://www.hojorailway.jp/sidenkai

紫電改の展示については、以下の記事をご覧ください。

注:新型コロナ対策のため、記事掲載時点とは状況が異なっている可能性があります。必ず事前に調べてからお出かけ下さい。

戦争遺跡に興味のある方は、鶉野飛行場から法華口駅の間にある戦争遺跡もぜひご覧ください。

それらの遺構については、以下の記事で紹介しています。

おまけ:鶉野飛行場を攻撃した米軍部隊の報告書

鶉野基地の25粍機銃は、1945年7月30日に米軍機に損害を与えました。

その際の米軍の戦闘報告書がWebで公開されているので、概要を紹介します。

<由良、加古川、姫路を対象とした攻撃>
日付: 1945年7月30日
時刻: 米軍機の発進時刻は07:38、帰投は12:20
攻撃部隊: アメリカ海軍空母サン・ジャシント(CV-30)の艦載機(VF-49所属のアヴェンジャー(TBM-3)×9機)。全機が100ポンド爆弾12発を装備。
飛行距離: 往路200マイル(約322km)、復路220マイル(約354km)。
飛行時間(平均): 4時間42分
燃料搭載量(平均): 401(単位不明)
燃料消費量(平均): 302(単位不明)
消費弾薬(合計): 50口径弾 1,190発
日本軍の対空砲火: 中~大口径の対空砲による中程度の攻撃。
米軍の損害: 2機が被弾。25mm機銃により1機は右主翼が小破。もう1機は左主翼のエルロンを損傷。全機が帰還。
攻撃の内容:
 厳重な防空体制が敷かれた呉海軍基地への一連の攻撃の後、休息日を1日とってから神戸地域北西部と淡路島に存在する8つの航空基地(そのうち3つは主要目標)の掃討作戦が行われた。
 第49雷撃隊(VT-49)の9機は、主要目標とされる3つの基地のどれでも攻撃できるよう準備を整えた状態で、7月30日午前7時30分に発艦。以前にこれらを攻撃した部隊の指揮官とのやりとりで、8箇所のうち多くは攻撃する価値がないことが分かっていたため、今回の指揮官は瀬戸内海から数マイル入った所にある姫路航空基地を攻撃することを決定。本州最南端の紀伊半島を越えて攻撃目標へ向かった。
 神戸地域の海岸線に接近すると、大阪陸軍造兵廠 播磨製造所付近から正確な対空砲火を受けたが、幸いにも被害は免れた。散在していた積雲のため航法が困難で、基地を見つけたのは部隊が基地の真上に来たときだった。Peters大尉は、僚機であるPruitt中尉とCoffey少尉の機体とともに270度の右旋回を行い、北部にある掩体壕を南向きに飛行しながら爆撃。投下された100ポンド爆弾により、少なくとも1機の航空機が炎上した。6発の爆弾を残した状態で、大尉は北西向きに爆撃を実施。少なくとも1発が滑走路南西部の工場に命中した。
 MacCollister中尉、Richards中尉、Ferbert中尉、Poulson少尉は駐機場と西側の格納庫に爆弾を投下。以前の攻撃で破壊され、修理中だった格納庫1棟から火の手が上がった。Seckinger少尉は、事前の写真偵察で3機の航空機があることが判明していた南部の誘導路に、搭載していた爆弾12発全てを投下。しかし、爆撃効果判定用の写真撮影をしていないため、損害は確認できない。
 MacCollister中尉の機体は、撤退時に被弾。しばらくの間エルロンの動きが不調になった。Peters大尉も、2回目の爆撃行程後に西へ撤退する際、主翼の付け根に被弾。いずれも25mm機銃弾(炸薬を搭載した通常弾頭)による被害だが、これは基地の西部から発射されたものと思われる。
 Livingston大尉は、基地上空での爆撃行程の際に爆弾倉の扉が開かないトラブルがあったが、加古川市内の航空機工場と思われるノコギリ屋根の工場に爆弾を命中させた。爆弾の搭載方法や信管の設定に問題があったが、この後VF-49の部隊が上空を飛行した際に、工場から火の手が上がっていたことを確認している。
 江井ヶ島から少し離れた合流地点へ向かう際、Coffey少尉は停泊中の商船を発見。機銃掃射を行い、合流地点からでも見えるほどの煙が船から上がった。この5,000トンほどの商船は、4時間後にVF-49の掃討部隊がロケット弾と機銃掃射で攻撃を加えた際も、煙を上げ続けていた。
 部隊は高度6,000フィートの雲底の下を飛行し、空母に帰還。被弾した2機は、4時間半以上の飛行を終えて、胴体着陸(着艦)した。

参考資料:「Aircraft Action Report No. 26 1945/07/30 : Report No. 2-d(58): USS San Jacinto, USSBS Index Section 7」

*1:「SN」は当時の米海軍の命名規則では「高等練習機(Senior Trainer)」を、「J」はメーカーである「ノースアメリカン」を表す記号です。

*2:米空軍の命名規則では、「T」は「練習機(Trainer)」を表す記号です。「テキサン(「テキサス州の人」の意)」は、工場がテキサス州にあったことから名付けられた愛称。

*3:1938年の初飛行から数えて80周年記念になるため、SNJ(T-6)の飛行展示を目玉として実施したようです。

*4:姫路市のJR京口駅の東には当時「川西航空機姫路製作所」があり、そこで作られた機体が馬車などで鶉野へ運び込まれ、組み立てられました。組み立てられた機体は、鶉野飛行場で試験飛行を終えてから海軍に引き渡されたそうです。

*5:日露戦争時、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の意味を持たせて戦艦「三笠」に掲揚された旗。

*6:東端には丸太階段があり、西端は緩やかな坂になっています。

*7:アジア歴史資料センターのWebサイトで閲覧出来る「姫路航空隊 海軍」とだけ表紙に書かれた引き渡し目録に付属する「姫路航空基地概要図」から、この機銃陣地に設置されていた機銃が25ミリ連装機銃であることが分かります。

*8:地下に保管してある弾薬を銃座内の装填手に渡すための穴。専門用語では「揚弾筒(ようだんとう)」と言います。

*9:日本軍では、元年が紀元前660年となる皇紀(神武天皇即位紀元)の末尾2桁を使用していました。自衛隊の装備品の場合は、西暦の末尾2桁です。

*10:1発700gの弾丸を15発入れると、弾倉自体の重さも含めて16.37 kgにもなります。

*11:現在は、口径が20mm以上なら機関ではなく機関と呼びます。

*12:日本海軍がグアムのアガナに建設した飛行場(現在のグアム国際空港)で、米軍がグアム奪還後の1944年10月5日に撮影した九六式二五粍機銃(連装)の陣地の様子。

*13:5名は連装の場合の要員数です。現地に設置されている模型のような三連装の場合は、9名で操作しました。