播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県姫路市の増位山に砥堀駅から登る

姫路市の増位山に登るルートとしては、随願寺の西にある南北の尾根をたどる「西尾根ハイキングコース」と、随願寺の東を南北に走る、増位山のある尾根を通る「東尾根コース」、北のキャンプ場から登るルートの合計3つが一般的です。
 
以前、とある休日に増位山の山頂でのんびりお昼ご飯を食べながら過ごしていたら、単独の男性ハイカーに出会いました。
 
「どちらから登ってこられました?」と尋ねたところ「このすぐ下の神社から」と言って東を指さされました。
地形図を見ると、確かに東麓に神社の記号があります。
 
初めて聞いたルートなので「一般的なルートですか?」と続けて尋ねると「あんまり歩く人がいないみたいで、分かりにくくなっている」とのことでした。
 
本日、増位山山頂でのんびり昼ご飯を食べようと思い立ったのですが、あの時のハイカーさんに教えてもらったルートをたどることにしました。
 
その時の気分で好きなように歩けるように、公共交通機関を使うことに。
 
行程はこうです。
 
JR姫路駅から播但線に乗り、砥堀(とほり)駅で降車。
まずは砥堀駅の西にある地形図の神社記号を目指し、そこからマイナーなルートで増位山山頂へ。
その後どのルートで下山するかは、その時の気分で決めるというもの。
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「姫路北部」。
 
10:52
寺前行の播但線普通列車でJR姫路駅を出発。
 
11:03
砥堀駅で降車。運賃は¥190。
 
砥堀駅は無人駅なので、降車時は列車の先頭のドアから、運転士さんに切符を渡すか、ICカードで乗車した場合はICカードを見せて下車します。
 
ICカードをお使いの方は、駅で出場専用のICカードリーダーにかざしてください。かざさなくても駅から出られますが、出場記録を書き込まなければ、次回ICカード利用時にエラーが起こるかも知れません。
 
▲砥堀駅
 
11:06
GPSの測位を待ってから出発。
 
砥堀駅の南側に出たら、踏切を渡って西へ進みます。
すぐに「砥堀駅前」交差点があるので、直進。
 
ちなみに、この交差点にある大きな会社は、国内の手袋メーカーとしては首位のシェアを誇るショーワグローブ株式会社の本社です。
 
砥堀駅前交差点を渡ると、道は細くなります。
 
ここには「糸の細道」と書かれた道標がありますが、今回私が歩こうとしている道が「糸の細道」だったようで、本日、この後何度かこのタイプの道標に出会うことになりました。
 
▲砥堀駅前交差点の西側の道を進む(「糸の細道」の道標がある)
 
しばらく歩くと丁字路に突き当たるので、そこを右折。
 
この突き当たりには「糸の細道」の由来について刻まれた石碑が置かれています。
 
糸の細道

播磨路や糸の細道わけゆけば
 砥堀に見ゆる有明の月

 砥堀の集落から有明山に通じる道は、在原業平により“糸の細道”と歌われた道です。有明山の上に明け方まで残った月は、この道を朝はやく通った昔の人たちの心をなごませたことでしょう。
 貞観17年(875)、9月の随願寺の山王祭礼の時、勅旨として在原業平が随願寺に来た。一日、有明の峯に遊び和歌を詠す。和歌を詠んだ時刻は、午前6時ごろである。
 平成20年12月吉日
 砥堀一区自治会

(出典:現地の石碑)
石碑で有明山とされているのが増位山なので、「『糸の細道』の道標に従えば、古の和歌で詠まれた道をたどって増位山に行ける」と判断し、「糸の細道」と書かれた道標を探して歩くことにしました。
 
歩き始めてすぐ、「糸の細道」と書かれた石碑を道ばたに発見。
その石碑の横にある細い路地を入っていくのかと思いましたが、道は行き止まり(地図中「×」)。
 
▲この石碑に騙されてしまった
 
突き当たりを右に曲がり、そのまま道なりに北東へ進むのが正解です。
 
突き当たりから70mほどの十字路で、砥堀駅前交差点近くで見たのと同様の道標に出会いました。
道標に従ってそこを左折。
 
▲道標のある十字路(矢印の位置に道標)
 
道なりに北西へ進むと、神社に出会いました。
 
11:15
登山口があるはずの春川神社に到着(地図中「春川神社」)。
神社の石段の下に「糸の細道」の道標があって、左を指しています。
 
石段を登らず、左に見えている道を進むのが正しいようですが、せっかくなので拝殿でお参り。
 
▲春川神社全景
 
▲春川神社の拝殿
 
春川神社
 境内には宝暦9年(1759)と慶応2年(1866)の燈籠、弘化2年(1845)の狛犬、元治元年(1864)の鳥居など江戸時代の石造品と天保11年(1840)の武者絵馬やユニークな「参議対韓問題を論ず」の絵馬がある。昭和51年神社南の谷川の土砂崩れの際に、比較的古い矢穴の痕跡のある石材が出土、姫路城築城時の可能性もあり、社殿横に保存されている。
 平成14年3月
  姫路市教育委員会
  姫路市文化財保護協会
(出典:現地の看板)
石段の下に戻ろうかと思いましたが、面倒臭いし「拝殿の左でさっきの道に合流できるのでは?」と思って拝殿の左を見ると、期待通り広い道があり、すぐ先で下からの道と合流しています。
 
▲拝殿の左から広い山道に入った
 
「なんでこんなに道が広いんだろう?」と思っていたら、砂防ダムが道沿いに見えてきました。
 
当初は砂防ダム建設工事用の道路だったようです。
本来は広くて斜度の緩い快適な道のはずですが、今は落ち葉が厚く積もって歩きづらい。
 
▲左に砂防ダムを見ながら登る
 
11:25
昭和54年施工の大きな砂防ダムの右端に突き当たりました(地図中「砂防ダム」)。
丸太階段の残骸がある斜面を右へ登って砂防ダムの上に出たら、再び谷沿いに登って行きます。
 
▲大きな砂防ダムに突き当たったら右へ
 
▲砂防ダムのすぐ上の道の様子(糸の細道の道標があった)
 
11:28
「おのこ岩」と書かれた道標に出会いました。標高100m付近です。
 
奇岩でもあるのかなと思って、道標に書かれた矢印に従って見に行きましたが、丸太のベンチがある平らな岩でした。
そもそも、本当にそこが「おのこ岩」なのかどうかも分かりませんが。
 
▲おのこ岩(?)
 
おのこ岩への道標から先は、踏み跡が薄くなります。
例えば、下の写真のようなちょっとした徒渉地点(またげる幅ですが)もありますが、矢印を描かなければ、どこが道なのかもよく分からないと思います。
 
現地は木々にマーキングが付けられているので、写真ほど分かりにくくはありません。
 
▲おのこ岩から先の道は分かりづらい
 
上の画像の徒渉地点からは、マーキングに従って斜面を適当に登ると、小さな尾根の上に出ます。
この尾根上も踏み跡が薄いですが、マーキングがあるので正しい道を歩いていることは分かります。
 
▲小さな尾根上の様子(矢印は木に巻かれたマーキングを指している)
 
ただ、あまり人が歩いていないことは確実で、道に見えるところを歩いても枝が上半身にひっかかります。
登山道と言うより、動物たちの通り道なのかも。
 
標高150m付近ではトラロープに出会い、その先で尾根の中心から左(西)へ道がずれていきます。
 
11:42
「みはらし台」と書かれたプレートがある展望所を通過(地図中「みはらし台」)。
 
▲みはらし台
 
みはらし台を通過して間もなく、東西方向に伸びる大きな尾根に乗りました。
 
この尾根には、稜線伝いに東へも道が延びているようですが、私が歩いて来た「糸の細道」へ案内するための道標がありました。
 
平坦な道を西へ歩いていると道は北寄りに進路を変え、人工的に改変されたようにしか見えない不思議な地形の中を進むことになります。
 
11:48
そうめん滝と古墳展望台方面への分岐(三叉路)に出会いました(地図中「そうめん滝・古墳展望台分岐」)。
 
道標は北東を指して「そうめん滝」、南西を指して「古墳展望台」となっていて、私が歩いて来た道は「春川神社」と書かれています。
ここにも「糸の細道」の道標がありました。
 
▲そうめん滝・古墳展望台分岐の道標
 
この分岐は「古墳展望台」方面に進みます。
 
11:51
古墳展望台に到着(地図中「古墳展望台」)。
 
展望台という名前ですが、周囲の展望は全くありません。
木々の背が低かった昔は、展望台を名乗っても自然な場所だったのでしょう。
 
▲古墳展望台の様子
 
▲古墳展望台にある古墳(砥堀古墳)
 
古墳展望台からは南へ進みますが、このルートは東尾根コース。
歩く人が多いため、しっかり踏み固められた歩きやすい道です。
 
すぐに「有明山構居跡」の看板に出会いますが、構居跡に行くのはあまりお勧めできません。
 
構居跡へ行く道はなく(藪漕ぎ)、行ったところで削平地と堀の跡がうっすらと分かる程度です。
 
有明山構居跡
 「地蔵院」とも称し、黒田職隆の弟(高友)が「安芸法印休無」(休夢)と名乗って、ここを姫路城の北の守りとしていた。天正元年(1573)8月12日、三木の別所長治800騎が増位山を襲い、寺を破却、随願寺僧侶ら200余人が嵐山(現在の景福寺山)へ避難した。和歌や茶にも秀でた休夢は後にお伽衆として豊富秀吉に仕えている。有明山構居跡はこの上で、東西30m、南北18mの削平地、東、南、西の三方に堀、西に土塁が残る。
 平成26年3月
  姫路市教育委員会・姫路市文化財保護協会
(出典:現地の看板)
有明山構居があったとされるピークを右手に見ながら南へ歩いて行くと、下の分岐に出会います。
左が増位山山頂への道で、右は山頂を迂回して南へ進む巻き道。
 
▲増位山山頂への道(左)と巻き道(右)の分岐
 
11:56
増位山の山頂に到着。
ベンチと三等三角点標石(点名:増位山)があります。
 
霞んでいて展望はほとんどありませんでした。
 
▲増位山山頂の様子
増位山山頂で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2012年1月8日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/masuiyama20120108/virtualtour.html
霞んでいなければ大展望なのですが、しかたありません。
わずかな展望を楽しみながら昼食をとることにしました。
 
本日のメニューは、アメリカ軍の戦闘糧食「MREレーション」。
 
メニューは全部で24種類ありますが、本日のメニューは37世代目のMREレーションのメニュー番号1番「Chili with Beans」です。
 
▲アメリカ軍のMREレーション(大きさの比較のために500mlサイズのペットボトルを並べています)
 
私が山頂にいる間、単独の男性ハイカーが2名通り過ぎていっただけで、他は誰も来ませんでした。
 
12:54
静かな時間を過ごし、充分に休憩できたので下山開始。
といっても、下山ルートは考えていませんでした。
 
・ちょうど梅の季節だし、随願寺の梅林を見てみよう。
・レーションでお腹がいっぱいなので、腹ごなしをしたいけれど、広峯神社に行くのはしんどそう。
 
以上の2つの考えがよぎったので、随願寺を経由し、西尾根ハイキングコースで下山することにしました。
 
そういうわけで、とりあえず古墳展望台へ戻り、そこから随願寺方面へ。
 
▲古墳展望台から随願寺方面への道は植林の中
 
道は「増位山梅林 0.1km・随願寺 0.3km」の道標のある場所で左へ折れ曲がります。
 
急な斜面に付けられたジグザグの道で、かつて寺の施設があったのかも知れない削平地に下りると、土塁の向こうに燈籠がたくさん並んでいるのが見えます。
 
土塁の右端から回り込むと、そこにあるのは榊原政邦と夫人の墓所。
 
13:03
榊原政邦と夫人の墓所に出会いました(地図中「榊原政邦と夫人の墓所」)。
 
▲榊原政邦と夫人の墓所
 
▲榊原政邦の墓
 
姫路城主 榊原政邦と夫婦の墓所
榊原家は江戸時代初期と中期の二度姫路城主となっている。榊原政邦は、宝永元年(1704)越後国村上城から移封され、二度目の榊原家姫路城主となった。政邦のあとは、政祐・政岑・政永と続く。
政邦は享保11年(1726)、52歳で亡くなるまでの22年間にわたり、特に民政に心を傾け善政を続けたといわれている。遺言によりここ増位山に葬られ、墓碑には故式部大輔、従四位下源朝臣と刻まれている。
政邦の夫人は享保14年(1729)江戸で亡くなったが、同じく遺言により政邦と並んで葬られている。
 姫路市教育委員会
 姫路市文化財保護協会
 増位中学校区夢プラン実行委員会
(出典:現地の看板)
墓所の前にある石段を下り、さらに擬木階段を下ると梅林があります(地図中「梅林」)。
小さな梅林ですが、思いの外きれい。
 
▲増位山梅林
 
梅林の中を西へ進んでいくと、地形図にも描かれている小さな池(放生池)の脇に下りてきます。
 
▲放生池
 
地形図の通り、放生池の北には石段があります。
それを登って行くと随願寺。
 
石段は途中で直進と左に分かれますが、どちらに進んでも問題ありません。
 
▲放生池の北にある石段の登り口
 
13:15
随願寺に到着。
 
▲随願寺(正面)
 
▲随願寺(斜め前から)
随願寺本堂前で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2012年1月8日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/zuiganji20120108/virtualtour.html
増位山 随願寺
 播磨天台六山の一つ。史料では増井寺とも記される。寺伝によると高麗僧慧便が開基し、天平年間(729~749)に行基が中興したという。もとは法相宗であったが、天長10年(833)に仁明天皇の勅命で天台宗に転じた。平安時代には諸堂が整備され、山上には36坊もある大寺であったという。天正元年(1573)、別所長治に攻められ全山を焼失。同13年に羽柴秀吉が再興した。江戸時代、姫路藩主榊原忠次が当寺を菩提寺とし、再建・整備に尽力した。
 増位中学校区夢プラン実行委員会
(出典:本堂前の看板)
随願寺の本堂に向かって左(西)を見ると、派手な唐門が目に入ります。
それは榊原忠次の墓所。
 
▲榊原忠次の墓所
 
榊原忠次墓所唐門
 国指定重要文化財・平成21年6月30日指定
 形状 正面1間、側面1間、向唐門、本瓦葺き

 榊原家は、徳川家の譜代大名の中の名門で四天王の一つに数えられた。なかでも忠次(1605~1665)は、文武両道に優れた人格者で、姫路城主としての17年間にも随願寺の再建をはじめ数々の治績をあげて名君とされた。
 唐門は本堂の西側にある市指定史跡・榊原忠次墓所の正門であり、瓦銘から享保16年(1731)の建立である。
 おおらかな構の建築であるが、細部も丁寧に造られ、唐破風を正面に向けたいわゆる向唐門である。垂木鼻、拳鼻、桟唐戸、柱等随所に錺金具の痕跡が残っており、きらびやかな建物であったことが想像できる。
 碑文は朱子学者の林怒(鷲峰)の撰によるもので、長文で名高い。
 榊原家の系譜をたどり忠次の生い立ちから館林(群馬県)・白河(福島県)の藩主を経て慶安2年(1649)、姫路城主となるまでの経緯、存命中の業績など彼の一代記が約3000の字に刻まれている。
 この碑文を一字の誤りもなく読むと、碑石の「カメ」が動くという伝説がある。
 平成21年7月 姫路市教育委員会
(出典:現地の看板)
榊原忠次の墓所のさらに西には、随願寺境内に残る建物の中では最古の開山堂があります。
 
▲開山堂
 
その開山堂の真南から南に向けて山道が始まっています。
その山道の入口にあるのは「池田三左衛門輝政公五輪塔」と書かれた道標。
 
地蔵院跡
 現在地南側西谷山の削平地が地蔵院跡という。西谷山東側山腹と地蔵院跡南西の削平地に近世姫路城を築城した池田輝政の供養塔とみられる五輪塔がある。地蔵院跡南斜面の墓地には地蔵院初代院主とみられる随願寺第十七代長吏道𨗉(どうすい)や小寺休夢斎(善慶)ら地蔵院主の供養塔がある。
(中略)
 戦国争乱の時代に増位山は東の峰に有明山城、西谷山に地蔵院城があって「播磨鑑」はともに休夢を城主とするが、両城とも永禄十二年(1569)に織田信長軍に侵攻され落城、随願寺僧は佐土に退避した。
(後略)
平成二十七年三月 姫路市教育委員会
姫路市文化財保護協会
(出典:現地の看板)
 
▲山道の入口
 
山道を登ると、すぐにいくつかの卵塔に出会いますが、さらにその奥に進むと、五輪塔がありました。
 
ずいぶんと小ぶりな五輪塔です。
これが看板に書かれていた池田輝政公のもの?
 
▲五輪塔
 
開山堂へ戻る途中、卵塔を過ぎたところで左前方に道の跡のようなものを見つけました。
 
上を見ると、木々の間に電柱のようなものが立っているのが見えたので、その道の跡をたどって頭上の小ピークへ。
 
小ピークの北側にあった電柱のようなものは、NTTドコモの基地局でした。
 
しかし、ここで気になるものを見つけました。
それは基地局の南側にあった切岸。山城跡のような雰囲気です。
2mほどの切岸には踏み跡が付いています。
 
切岸の上に上がると、そこは広大な削平地。
開山堂の南にあった「地蔵院跡」の看板に書かれていた「地蔵院城」の郭跡でしょう。
 
今は単なる植林帯になっています。
 
▲NTTドコモの基地局南側の切岸
 
開山堂前に戻り、1車線幅の未舗装の道を南西へ。
この未舗装道路を歩きながら左上を見上げると、地蔵院城の郭跡がかなりの規模を持っていたことがよく分かります。
 
この周辺の地形データを見ると、随願寺とその西の広峯神社は完全に山城。
 
▲カシミール3Dの「スーパー地形」データで見た広峯神社(左)と随願寺
 
広大な随願寺の駐車場の西を通る車道に出て、その車道の北端から公園へ入ります。
 
公園に入ってすぐ西を見ると、下の写真のような景色に出会うはず。
この写真に写っている看板の左側から、西尾根ハイキングコースに入れます。
 
▲西尾根ハイキングコースへの入口(奥の看板の左にある)
 
西尾根に乗ったら、南へ進んで下さい。
 
13:38
秋の広場を通過(地図中「秋の広場」)。
広場という名前ですが、尾根上のちょっとした平坦地に椅子を置いただけの空間です。
 
▲秋の広場
 
西尾根ハイキングコースは、下の写真の通りよく整備された山道で快適。
 
▲西尾根ハイキングコースの様子
 
13:42
夏の広場を通過(地図中「夏の広場」)。
ここで道は左へ向きを変えます。
 
13:45
春の広場を通過(地図中「春の広場」)。
 
尾根の肩に展望の良い場所がありますが、そこから先は道が岩がちになります。
イワイワした場所が好きな私にとっては楽しい区間。
 
▲尾根の肩の様子(写っている鉄塔は姫路支線23番鉄塔)
 
13:52
姫路支線23番鉄塔横を通過(地図中「姫路支線23番鉄塔」)。
岩がちな区間は姫路支線23番鉄塔で終わり。
 
姫路支線23番鉄塔を過ぎて姫路南支線21番鉄塔までの間には、尾根に石積みが見られます。
 
最初は昔の送電線鉄塔跡地かなと思ったのですが、正体は不明。
 
▲姫路支線23番鉄塔~姫路南支線21番鉄塔間にある石垣(分かりづらいですが、手前、中央、奥の3列の石垣が写っている)
 
14:00
姫路南支線21番鉄塔を通過(地図中「姫路南支線21番鉄塔」)。
 
14:01
城北支線4番鉄塔を通過(地図中「城北支線4番鉄塔」)。
 
城北支線4番鉄塔の下でも、登山道に対して垂直方向に伸びる低い石積みがあります。
 
14:06
落ち葉が分厚く積もって歩きづらい道を下っていると、石垣と石段に出会いました。
地形図で神社記号が描かれている場所です。
 
ただ、この場所に神社は無く、尾根の先端に移されています。
 
▲大年神社跡
 
バックパックは蜘蛛の巣や木くずで汚れているし、頭や顔にも蜘蛛の巣がついていたため、ここで公共交通機関に乗るために身だしなみを整えました。
 
14:09
尾根の先端にある大年神社脇に下山しました(地図中「大年神社」)。
 
▲大年神社横に下山
 
神社からは東へ進み、随願寺へ続く車道に突き当たったら右へ曲がります。
間もなく出会う十字路を直進し、集落内の細い道を南へ進んで下さい。
 
県道518号線に出たら横断歩道で県道を渡り、すぐ左にある「白国」バス停へ。
 
14:17
「白国」バス停に到着。
あらかじめバスの時間を調べてペース配分を考慮しながら歩いていたので、14:23のバスに乗るのにちょうどいい時間に着くことが出来ました。
 
ここのバスは30分に1本しか来ないので、時間配分を間違えると、最大で30分ほどバスを待たないといけないのです。
 
14:26頃
定刻より3分ほど遅れて姫路駅行きの路線バスが来たので、それに乗車。
 
14:50過ぎ
姫路城周辺の渋滞のため、定刻より10分弱遅れて終点の姫路駅に到着。
 
運賃は¥210ですが、私は神姫バスの通勤定期を持っているため、休日は1回の乗降が¥100になる「エコ定期券制度」が利用できます。
 
2020年4月追記
 エコ定期券制度は、2020年3月末をもって終了しました。
追記ここまで
 
そのため私はバスを利用したのですが、白国バス停からさらに南東へ歩き、JRの野里駅から列車に乗っても良いと思います。ただ、JRも1時間に2本なので、バスもJRもあらかじめ時刻を調べておくことをお勧めします。