播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

姫路市埋蔵文化財センターの発掘調査速報展2016

せっかくの天気が良い日曜ですが、気温が高いし虫や植物が元気になる時期なので、山歩きは遠慮して本日は姫路市埋蔵文化財センターの「発掘調査速報展2016」の展示解説を見に行ってきました。


▲姫路市埋蔵文化財センター

施設名称: 姫路市埋蔵文化財センター
所在地: 姫路市四郷町坂元414番地1(住所をクリックすると、Googleマップで地図が開きます)
開館時間: 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日: 月曜(祝日の場合除く)、祝日の翌日(土曜・日曜の場合除く)、12/28~1/4
入館料: 無料
駐車場: あり(無料)
写真撮影: 今回の展示品(※)は撮影可(三脚や一脚の使用については未確認)
※「発掘調査速報展2016」の展示品。展示期間は2016年4月24日~2016年7月18日。

本日2016年6月26日(日)は、午前10時30分から展示解説、午後1時30分からは発掘調査成果報告会が開かれます。

午後の報告会は90分あり、私の場合昼食後だと寝てしまうおそれがある(仕事の打ち合わせでも寝そうになる)ため、実際に展示室で出土品を見ながら説明を聞ける「展示解説」を楽しむことにしました。

9:40
天気が良いので、姫路市街の自宅を自転車で出発。

10:10
のんびりとサイクリングを楽しんで姫路市埋蔵文化財センターに到着。
入口でパンフレットを受け取り、展示室を一通り見て予習をしておきます。


▲展示室の様子

10:30
定刻に展示解説が始まりました。
本日解説を担当されていたのは、女性の職員さん。特に江戸時代に詳しい方だそうです。

職員さんと一緒に展示室内を回り、展示品の前で立ち止まって解説を聞くという一般的なものでした。
今回展示されていたのは、以下の遺跡からの出土品。

・辻井遺跡(姫路市辻井一町目他)
・畑田遺跡(姫路市飯田三丁目)
・池ノ下遺跡(姫路市苫編)
・豆田遺跡(姫路市町坪、井ノ口)
・市之郷遺跡(姫路市市之郷他)
・姫路城城下町跡(姫路市平野町、綿町他)
・播磨国分寺跡(姫路市御国野町)

解説して頂いた内容の内、わたしが覚えている範囲について簡単に紹介します。

辻井遺跡(つじいいせき)
 姫路城の北西約2.2kmに位置しています。縄文人骨が出土するなど、その名は戦前から広く知られていました。 今回の調査では、竪穴住居6棟をはじめとして、多くの遺構がみつかりました。弥生時代中期の遺構が多くを占めており、中期前葉の土坑(どこう)と中期中葉の溝からは土器が大量に出土しました。中には銅鐸の文様に似た珍しい文様のある壺もあります。
 この時期の土器は、播磨ではあまりみつかっておらず、この地域の弥生時代を考える上で貴重な資料を得ることができました。
(出典:展示パネル)

今回、辻井遺跡から出土した土器の内、流水紋がついた土器が珍しいとのことでした。


▲流水紋の付いた台付直口壺


▲文様部分の拡大画像

流水紋は主に銅鐸に使われる文様で、土器に使われている例はごくわずかとのこと。

姫路市の名古山霊園の遺跡からは銅鐸の鋳型が見つかっているそうで、名古山の麓と言っても良いくらいの辻井遺跡から、銅鐸に関連する文様がついた土器が出てきたという興味深い発見だそうです。

学校では装飾が少ないのが弥生土器の特徴だと習いますが、解説担当の職員さんは、そうとは限らないとおっしゃっていました。


▲辻井遺跡から出土した文様のある弥生土器

畑田遺跡(はたけだいせき)
 手柄山(てがらやま)の南に広がる遺跡で、区画整理事業などに伴って調査を実施してきました。特に今回の調査地点の南側では、2基の円形周溝墓(しゅうこうぼ)がみつかったことが知られています。
 今回確認した溝からは、弥生時代後期の土器が出土しました。この溝の大きさや特徴をみると、南側でみつかった周溝に似ています。溝が周溝の一部だとすれば、周溝墓の形は不整形な方形ということになります。播磨は、東の方形周溝墓分布圏、西の円形周溝墓分布圏に挟まれた地域で、当遺跡でもこの2種類の周溝墓が混在している可能性が出てきました。
(出典:展示パネル)

周溝墓の遺構が発見されたとのことですが、周溝に囲まれた部分に墓の遺構はなく、後世に盛り土が削り取られてしまったのではないだろうかとのことでした。

高杯は、当時個人用の食器として使われていたことが魏志倭人伝に記録されているらしいですが、今回出土した高杯は周溝から見つかったので、お墓のお供え用として使われた物ではないかとのことでした。


▲畑田遺跡から出土した高杯

池ノ下遺跡(いけのしたいせき)
 英賀保(あがほ)駅周辺土地区画整理事業に伴って発掘調査を実施しています。これまでに旧石器時代から中世にかけての遺構・遺物が数多くみつかっています。
 今回は、蛇行する自然河道や多数の柱穴を確認しました。大昔は、今と違って小さな河川が網の目状に平野を流れており、ムラは高台に営まれていました。今回も、近隣のムラで使われていた土器が河道から大量に出土しました。これらのうち量が多かったのが、弥生時代後期から古墳時代初頭の土器です。讃岐や吉備などから運び込まれた土器も含まれていました。
(出典:展示パネル)

この遺跡の出土品の興味深い点は、出土した大量の土器の中に、播磨以外の地方の土器が混じっていたことだそうです。

大半が細かく割れていて復元不可能だそうですが、使われている粘土を見ただけで、播磨地方のものではないと分かるらしいです。

面白いのは、播磨地方の粘土で作られているのに、形状は讃岐地方の特徴をもっているような土器があり、徒歩と船しか移動手段がなかった(馬が使われるのはもっと後の時代)時代でも、国内の人々の行き来がある程度盛んに行われていたことが分かるそうです。


▲池ノ下遺跡から出土した播磨地方の土器の特徴を有する土器


▲川の跡から出土した大量の土器片(全て播磨地方の土器)


▲池ノ下遺跡から出土した讃岐地方の土器片(雲母のようなものが多く含まれているため、きらきら輝いて見えた)

豆田遺跡(まめだいせき)
 怪談『播州皿屋敷』でお菊を手にかける町坪弾四郎ゆかりの地と『播磨鑑(はりまかがみ)』に記される町坪(ちょうのつぼ)などに所在する遺跡です。英賀保駅周辺土地区画整理事業などに伴って調査を実施し、弥生時代から中世の遺構がみつかっています。
 今回は、弥生時代から古墳時代の自然河道や土坑、多数の柱穴がみつかりました。土坑からは、壺と甕が出土しました。壺は四国地方の特徴を持つもので、甕は「庄内形甕」と呼ばれる近畿地方の土器です。このように他地域の土器が出土したことは、当時の地域間の交流を考える上で貴重な発見といえるでしょう。(出典:展示パネル)

播磨地方の遺跡なのに、四国の土器の形状をもつ壺が出土したそうです。
上の池ノ下遺跡で出土した壺と、下の豆田遺跡から出土した壺を見比べて下さい。

壺の口周辺の形状が全く異なっていることが分かります。


▲豆田遺跡から出土した、四国地方の土器の特徴をもつ壺

市之郷遺跡(いちのごういせき)
 弥生時代から中世にかけての集落跡です。市内を代表する遺跡のひとつで、韓式系(かんしきけい)土器が出土した竪穴住居の存在から、渡来人のムラとしても注目を集めています。
 今回は、この竪穴住居がみつかった東姫路駅付近の3地点で調査をおこない、古墳時代の竪穴住居7棟などを確認しました。その中には火事にあったのか、焼けた木材がみつかったものもありました。また渡来人の存在を示す初期須恵器(すえき)や韓式系土器が出土したことから、この住居は5世紀前半から6世紀初め頃の渡来人かその子孫の住まいの可能性があります。
(出典:展示パネル)

市之郷遺跡の出土品は、他の遺跡からの出土品と全く異なっているのが素人目にも分かりました。

今まで見てきたのは素焼きの土器ばかりでしたが、ここに展示されているのは現代の陶器と遜色ない雰囲気をもってます。

高杯は脚がなく、壺は首から上だけが住居跡に埋まっていたそうで、解説の職員さんによると、不安定な土器を載せるための台として使っていたのではないかとのことでした。


▲市之郷遺跡から出土した高杯と壺の首(人為的に下部が取り除かれ、当初からこの姿で埋まっていたらしい)

朝鮮半島では、土器を整形する道具に模様を刻んでおき、それを利用して土器に文様を着ける文化があったそうですが、日本にはそういった技法は当時存在せず、これも渡来人の存在をうかがわせる資料になるそうです。


▲整形段階で模様が着けられた土器片

姫路城城下町跡下層
 城下町の下には、より古い時期の遺跡が眠っていることが知られています。特に播磨国総社周辺は、播磨国府の想定地とされてきました。
 総社の近く、平野町・綿町では古代の遺構・遺物を確認しました。特に平野町では、一辺1.4mもある巨大な柱穴や古代の瓦が大量に捨てられた溝がみつかりました。これは古代の遺構から瓦がまとまって出土した初の事例で、瓦には完形品もあることから、播磨国府の一画をなす瓦葺建物が、調査地近くに存在した可能性が高まりました。永らく謎に包まれていた播磨国府解明の手掛かりとなることが期待されます。
(出典:展示パネル)

昔の人たちが造成をする際、地中から古い瓦片等が出てきた場合は他の場所に穴を掘って埋め直していたそうです。
そのため、何度も場所を移動させられた古い瓦片は細かく割れて角がなくなったりするそうですが、姫路城城下町下層から出土した瓦片は文様などがくっきり残り、非常に大きな破片も多くあることから、瓦葺の建物があった場所を示していると考えられるとのこと。


▲播磨国府系瓦の破片

播磨国分寺跡
 天平十三年(741年)に出された聖武天皇の命により、各国に建立された国分寺のひとつです。現在では、約200m四方が国指定史跡として保存が図られています。
 今回は伽藍(がらん)の外、北側と東側の2地点で調査をおこないました。北側の地点では柱穴や溝がみつかり、性格不明の大型の遺構からは多くの土器や瓦が出土しました。この成果から国分寺に関連する遺構が、伽藍の北側にも広がっている可能性が出てきました。東側でも瓦が出土するなど、これまであまり知られていなかった国分寺跡周辺の状況が明らかになりつつあります。
(出典:展示パネル)

展示パネルに書かれている「北側」とは、現在は姫路第一病院がある辺りを指しているそうです。
その付近には、僧坊があったのではないかとのことでした。


▲僧坊跡と推測される場所から出土した土器

ここに展示されている軒丸瓦は、割れて中の構造が見えるようになっていました。

解説の職員さんによると、軒瓦は(焼く前の乾燥段階で)普通の板状の瓦に部品を付け足して作るため、二重に瓦が重なったような構造になっているとのことです。


▲国分寺跡から出土した軒丸瓦(文様のある部分が後から付け足されていることがよく分かる)

姫路城城下町跡/平野町
 外曲輪の南東部、西国街道に面した町屋の跡です。建物の礎石やカマド、井戸、溝、土坑などが多数みつかりました。これらからは、貝殻や獣骨などの食べカスの他、陶磁器の破片などが大量に出土しています。
 それらの中で特に目を引くのは、石囲いと巨大な礎石です。石囲いは6m×7mの長方形で、石を積み重ねて造られていました。その中央に据えられた礎石は1m近い大きさがあります。これは蔵や倉庫といった建物だったのかもしれません。城下町跡では初発見の遺構で、今後土地の来歴も含めて検討する必要があります。
(出典:展示パネル)

解説の職員さんによると、江戸時代はゴミの回収システムが今のように発展していなかったため、食べかすは庭に穴を掘って埋めていたそうです。

その穴から色んなものが出てきたわけですが、興味深かったのは犬と思われる獣骨が出てきたこと。
飼い犬ではなく、骨には食肉として食べた痕跡があるそうです。


▲平野町の遺跡から出土した品々の展示(ガラスケース内右端が犬の骨)

姫路城城下町跡/綿町
 総社門から外曲輪に出て、すぐ西側に位置する町屋の跡です。綿町は東西に走る西国街道のうち、延長約240m分の両側に建ち並んだ町屋を町の範囲としています。18世紀半ば頃の絵図によれば、調査地の住人は東から「岩之助」「やゑ」「惣兵衛」「甚右衛門」であったことがわかりました。
 調査では礎石、井戸、土坑などが多数みつかりましたが、特筆すべきは塼列(せんれつ)建物の発見です。蔵と考えられ、外曲輪での発見例は平野町とここの2例しかありません。いずれも西国街道に面した町屋跡での発見という共通点があります。
(出典:展示パネル)


▲綿町の遺跡(18世紀の絵図を基に地割りが描かれている)

絵図にはやゑさんの家が何軒も描かれているそうで、職員さんによると「貸家をしていたのではないだろうか」とのことでした。

展示パネルの写真には家の境界線が描かれていますが、現地には塀の跡などはなく、「おそらくここが切れ目だろう」という推測で線を引いたとのこと。

上の写真にある「やゑ」さんの家跡からは、カマドの跡やろうそくに文字を刻印するための鏡文字が掘られた石板が見つかったそうです。

瓦質の羽釜も展示されていましたが、これは精緻な装飾があるため実用品ではなく、茶の湯につかう趣味の一品だろうとのことでした。


▲羽釜型の瓦質土器

11:40
展示解説が終了しました。
やはり、専門の方の話を聞きながら見た方が面白いですね。

この後は自転車で見野(みの)古墳群に行き、見つけやすい3号墳から14号墳までを順に見てから帰路に就きました。

こちらをクリックすると見野古墳群の位置がGoogleマップで表示されます。

埋蔵文化財センターを東へ出たら、県道517号線を南下し、四郷中学校前の二股の分岐を左へ進んで南下し、川の直前にある三差路の見野古墳群への案内を見落とさないようにして西へ入れば、すぐに見野古墳群に到達します。

姫路市埋蔵文化財センターへ行かれるなら、ぜひ見野古墳群も見て帰って下さい。
見野古墳群に駐車場はありませんが、併設されている公園前に1、2台程度なら止められます。


▲見野古墳群に併設されている公園(トイレもある)

公園入口に1号墳から15号墳までの位置を示した地図があるので、それを頼りに周辺を探し歩いてみて下さい。
見所は、6号墳と10号墳です。


▲公園入口の地図

1号墳と2号墳はみつけられませんでした。
15号墳は山の中に入らないといけないように見えたので、見に行っていません。


▲石室が2つ並んだ6号墳


▲「姫路の石舞台」の異名を持つ10号墳