播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

佐用町の瑠璃寺(モンキーパークと奥の院)

2016年は申年。というわけで、猿に関係しそうな場所に行ってみようと考え、思いついたのが、佐用郡の瑠璃寺(るりじ)。
 
瑠璃寺はその名の通りお寺なのですが、なぜかモンキーパークが併設されているのです。
 
 
瑠璃寺
 今を去る1300年前、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開山し本堂、金堂、薬師寺をはじめ、12の坊舎を建立し以後、加持祈祷の修験道場として、武臣武将の帰依信仰厚く、現在では高野山真言宗、別格本山で西の高野山と親しまれ一般大衆の信仰の中心と、なっております。
 
モンキーパーク
 船越山とその周辺に昔から棲んでいた野生の純ニホンザルを餌付けに成功し昭和36年に開園、約二百匹が、わが天下とばかり群れ遊んでいます。ニホンザル(霊長目オナガザル科)は、本州、四国、九州屋久島の特産で世界で最も北に分するサルで、毛が長く密生し、顔と尻が赤く、頬に大きな頬袋あり山林に群生し、食物は、カキ、クリ、ミカン、木の実、草、昆虫など時には赤土もたべます。寿命は25年から30年で、1才ぐらいまでが赤ん坊、4才ぐらいまでが子供です。メスは6才ぐらいかで子を生みます。平成14年6月ボス猿『サブ』と雌『ハナ』の間に、黄金色の毛並みをした子が生まれました。全国でも例がなく、愛称『ひかり』と命名、人気の的となっています。
(出典:るり寺モンキーパーク入園券の裏面 原文まま)
 
 
 船越山瑠璃寺は寺伝によれば、神亀5年(728)2月、聖武天皇の勅願により行基が開創したと伝えている。『播磨鑑』には、行基が瑠璃寺の地へ赴く発端となった「神亀5年乾ノ方に夜々瑞光有、聖人・村老・行客・漁夫あやしみをなさすといふ事なし」という奇瑞を記している。行基はその奇瑞を求めて山中にはいるが、そのとき一人の老翁が忽然と現れ案内を受ける。その老翁は千手観音の化身であったという。また、赤顔隆鼻の快漢(天狗)の案内を受け薬師如来を拝したという。
 この因縁により、瑠璃寺の本堂は千手観音、奥の院は薬師如来がそれぞれ祀られている。奥の院の薬師如来は、板額によれば「峯の薬師如来」と称されていた。『播磨鑑』には、
 この薬師毎年二季の彼岸を功徳日として、近里遠国の貴賤袖をつらぬる事夥し
とあって、庶民の厚い信仰を受けていたことが知られる。
(出典:「兵庫県立博物館 総合調査報告書 5 船越山瑠璃寺」)
 
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「千草」。谷間なので、GPS軌跡の精度が低いです。
 
2016/01/05追記
瑠璃寺の名前の由来ですが、「兵庫県立博物館 総合調査報告書 5 船越山瑠璃寺」に「瑠璃寺縁起(典1)」の釈文が掲載されており、その中に次の文章があります。
 
・・・三十二相八十種好荘厳円満の瑠璃の光明内外映徴し、・・・
・・・渇迎合掌して南無皈命頂礼瑠璃光如来、・・・
(出典:「兵庫県立博物館 総合調査報告書 5 船越山瑠璃寺」)
 
船越山寺伝では、山中に妖しげな光があり、行基がそこを訪れて寺を建てたと書かれていますが、その際に行基を山へ案内した老人が薬師如来に変身する時の光、あるいは薬師如来の別名「薬師瑠璃光如来」にちなんだのか、瑠璃寺の名前になったようです。
 
追記ここまで
 
10:20
姫路市街の自宅を車で出発。
 
国道29号線で山崎へ向かい、中国自動車道をくぐってまもなくの「中広瀬」交差点を左折します。ここからは県道53号線。
 
県道53号線は、しばらくは中国自動車道と平行に走っていますが、中国道を離れて進路が北に変わった頃「土万三差路(ひじまさんさろ)」交差点に出会います。
 
ここは二股に道が分かれていて、どちらも同じくらいの太さですが、「るり寺←」の看板が立っているので、左が正解と分かります。
 
道なりに走って行くと、「下三河(しもみかわ)」交差点で県道72号線に突き当たるので、これを右折。
あとは道なりに6kmほど北上すると、道の左側に巨大な絵馬と「るり寺」と書かれた大きな看板があるので、そこから左へ入ってください。
 
 
▲県道72号線沿いの絵馬と看板(ここから左へ入る)
 
立派な山門脇を通り、川の左岸(東)に付けられた1車線幅の道路を進んでいくと、右岸側にある駐車場が見えてきます。
 
 
▲瑠璃寺の駐車場へ続く道の様子
 
下のURLをクリックすると、瑠璃寺の駐車場の位置がGoogleマップで表示されます。
https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B006'08.5%22N+134%C2%B025'29.3%22E/@35.1031698,134.40435,13.76z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0x0?hl=ja
 
11:44
橋で川を渡り、瑠璃寺の駐車場に到着(地図中「P」)。
 
 
▲駐車場
 
駐車場を出て北へ向かうとすぐにトイレがあり(地図中「W.C.」)、その先に「おさる茶屋」と呼ばれる建物がありますが、開いている様子はありません。
 
 
▲駐車場の北にあるトイレ
 
 
▲瑠璃寺やモンキーパークへ通じる道路と、おさる茶屋の様子
 
おさる茶屋は、反対側から見ると崩壊しかかっていました。道理で開いてないわけだ。
 
川沿いの道を歩いておさる茶屋のすぐ先で橋を渡ると、瑠璃寺の本坊です。
 
 
▲瑠璃寺(本坊)へ続く橋
 
階段を上った先の門が珍しい形をしています。
 
 
▲長屋門のような瑠璃寺(本坊)の門
 
 
▲門をくぐった先にある瑠璃寺(本坊)
 
この瑠璃寺(本坊)は、右側から裏へ回り込むことができ、裏には土蔵と護摩堂、聖天堂が建っています(地図中「護摩堂」)。
 
 
▲護摩堂(左)と聖天堂
 
瑠璃寺の正面に向かって右側(北東)の山門から川沿いの道路に戻り、モンキーパークへの案内看板に従って緩やかな坂道を上っていくと、右側の石段の上にお稲荷さんがありました(地図中「稲荷社」)。
 
お稲荷さんに手を合わせてふと横を見ると、倒壊したお堂が。
 
 
▲お稲荷さん(写真はありませんが、この右に朽ちて倒壊したお堂がありました)
 
石段を下りて川沿いの道に戻り、道標のある分岐を右に入って左側に常福院や大師像、金堂を見ながら苔むした道を上っていけば、瑠璃寺の本堂に到達します。
 
 
▲分岐の様子(左下に写っているのが本堂への道標)
 
12:05
本堂(観音堂)に到着(地図中「本堂」)。

今日は大勢のお客さんが来ていましたが、本堂方面へ来る人はほとんどおらず、しっとりした静かな空間の居心地が素晴らしい。
 
 
▲本堂(観音堂)
 
本堂に向かって右側には鐘楼があり、その右には開山堂が建っていて、それらの間には正徳地蔵尊と呼ばれるお地蔵様があります。
 
 
▲本堂と鐘楼(県指定重要文化財 鐘には応安2年(1369)の銘がある)
 
鐘楼の中に吊られている鐘には、以下の銘が刻まれているそうです。
 
銅鐘池の間陰刻銘
播州完(宍)粟郡佐用庄千種郷
 船越山瑠璃寺椎鐘
  大願主権律師覚祐
     衆徒等同心
    大工大江景光
  大檀那権律師則祐
      沙弥世貞
      菅原氏女
      源 氏女
      藤原忠宗
      沙弥法円
     比丘尼妙円
 応安2年8月 日
(注)「弥」の文字の部分は、「ゆみへん」ではなく正しくは「ほうへん」
(出典:「兵庫県立博物館 総合調査報告書 5 船越山瑠璃寺」)
 
 
▲開山堂
 
▲鐘楼と開山堂の間にある正徳地蔵尊(正徳3年(1713)建立)
 
再び川沿いの道に戻り、モンキーパークを目指します。
 
本堂への分岐の先には庫裡があり、そこまではアスファルト舗装の道。
庫裡から先は、簡易舗装の上り坂になっています。
 
12:15
モンキーパークの受付小屋に出会いましたが、無人(地図中「モンキーパーク受付」)。
駐車料金やモンキーパークの入園料はどこで払うんだろう。
 
 
▲モンキーパーク受付
 
この受付から2分ほど上った所に、廃墟と化した休憩所の建物があります。
 
川を跨ぐように建てられた立派なものですが、土砂崩れに巻き込まれたらしく、写真左側の壁面が建物内部に押し込まれるような形で破壊されていました。
 
 
▲廃墟になった休憩所
 
この休憩所のすぐ近くに、瑠璃寺奥の院への登山口があります。
案内図によると片道20分程度なので、お手軽なハイキングですが、まずは猿を見に行くことにしました。
 
 
▲奥の院への登山口
 
12:21
駐車場から約700m、ようやくモンキーパークに到着(地図中「モンキーパーク」)。
大勢の人で賑わっています。
 
 
▲モンキーパーク全景
 
「係員さんはどこだろう」と思っていたら、奥の小屋から鞄を肩にかけた係員さんが登場し、料金を徴収し始めました。
 
私も駐車料金と大人一人の入園料の合計¥1,000(乗用車1台¥400、入園料大人一人¥600)を支払いました。これで安心して楽しめます。
 
モンキーパークは思っていたより小さいですが、野生の猿が私たちの間を堂々と歩いて行く様子を眺めるのは、なかなか楽しい。
 
写真で背後に写っている山の斜面にも沢山の猿がいて、今日は猿に混じって鹿も斜面を歩き回っていました。
 
 
▲係員さんが撒いたと思われる、地面に落ちたエサを食べている猿
 
写真右上の大きな建物は「人間動物園」と名付けられていて、人間がこの建物(檻)に入って猿を眺めたり、エサを与えたり出来るようになっています。
 
 
▲人間動物園の中から外を眺める
 
 
▲人間動物園では、網の下端のすき間から猿にエサを与えられる
 
「係員以外の人間がエサをくれるのは『人間動物園』の中からだけ」と猿は理解しているようなので、見物客の荷物を奪う猿はいません。
そういったことを防ぐためにも、人間動物園の外で食べ物を猿の目に触れるところに出したり、係員から購入したエサをその辺で与えるのは厳禁。
 
黄金の猿と呼ばれる黄色っぽい毛並みをもつ猿がいるらしく、それを目当てに沢山お客さんが来ているようですが、私が滞在している間はその姿を見られませんでした。
 
NHKの取材クルーが来ていましたが、彼らもそれが目当てだったのかな。あるいは、単純に申年なのでモンキーパークの取材に来ただけなのかな。
 
 
▲お客さんとインタビュー撮影の交渉をするNHKの取材クルー
 
12:50
奥の院へ行くためモンキーパークを出発。
 
道沿いを流れる沢の中の石積みを見たり、「樅(もみ)負いの岩」と呼ばれる巨岩を見てから登山口へ向かいました。
 
 
▲樅負いの岩(左)と、その下にあった梵字の刻まれた石
 
12:56
奥の院登山口へ戻ってきました。
 
登り始めると、すぐに「七丁」の丁石があります。
奥の院に近づくにつれて、丁石の数字が小さくなっていき、一丁が奥の院。
 
この七丁の丁石の先には、梵字が刻まれた石碑が立っていました。
 
 
▲登山道の様子と梵字の刻まれた石碑
 
道は植林の中でつづら折れになっていて、斜度はたいしたことがありません。
が、場所によっては足場が不安定だったり、滑りやすい所もあります。
 
13:01
六丁の丁石を通過。
 
13:03
五丁の丁石を通過。
 
13:06
休み堂に到着(地図中「休み堂」)。暑くなってきたので、ここで上着を脱ぎました。
休み堂の横には、優しい表情の石仏が祀られています。
 
 
▲休み堂
 
13:07
四丁の丁石を通過。
 
13:10
三丁の丁石(倒れて折れていた)を通過。
 
13:13
二丁の丁石を通過。
 
13:17
稜線に出ました。
尾根の上は広い削平地で、延齢水の井戸があります。
 
 
▲稜線上の様子(中央は延齢水の井戸)
 
南を指して「天狗堂 150m」と書かれた案内があったので、奥の院を見る前にそちらを見に行くことにしました。
天狗堂への道はやせ尾根に付けられた山道です。
 
13:21
天狗堂に到着(地図中「天狗堂」)。

お堂と言うよりは小さなほこらで、倒れていました。
 
 
▲天狗堂(奥に奥の院が見える)
 
写真だけ撮って元の削平地に戻り、奥の院を目指します。

とその前に、井戸を観察。
井戸の枠に使われている石には、「天保十二辛丑年 十一月吉辰 願主 山屋五兵衛」と刻まれていました。
天保12年は、1841年です。
 
 
▲延齢水の井戸
 
井戸の向こうにある石段を登っていくと、立派な石垣があります。
ところが、石垣の中の石段にはバリケードのようなものが。
 
よく見ると、それはバリケードではなく、石垣の崩落を食い止めるためのものだったので、それらを跨いで石段を登りました。
 
 
▲石段の方へ倒れそうになっている石垣を支える鉄柱
 
13:28
瑠璃寺の奥の院(薬師堂)に到着(地図中「奥の院」)。
 
徒歩でしかたどり着けない山の上に、これほどのお堂を建てるとは。
 
 
▲奥の院(薬師堂)
 
佐用町指定文化財 瑠璃寺奥の院(薬師堂)
 種別 建造物
 指定年月日 平成5年6月23日
 所有者 瑠璃寺
 
 堂内に張られた祈祷札は明和年間から明治のものまで11枚あり、建築年代は明和2年(1765)の最古の祈祷札をそれほど遡らない、18世紀半ば頃と考えられる。
 外観は入母屋妻入りに二重虹梁(にじゅうこうりょう)を用いて意匠を凝らし内部は禅宗様式を用いている。 組物は出三斗(でみつと)の簡素なものだが整った意匠の小堂で、改造も殆どなく当初の形態をよくとどめている。
 
 佐用町
(出典:現地の看板)
 
さらに驚かされたのは、鐘楼。
大きな鐘楼で、中には「千貫鐘」と呼ばれる鐘(明治13年に船越字横坂にて再鋳造)が吊られています。
 
 
▲奥の院の鐘楼
 
明治時代に、どうやってこんな鐘をここまで持ち上げたんだろう。というより、明治時代に再鋳造ということは、もっと昔からここに鐘があったわけです。
 
奥の院の前に立っている石灯籠も、年号を見て驚きました。天保4年のものです。
 
▲天保四巳年の銘が刻まれた石灯籠
 
「天空の城」ならぬ「天空のお堂」といった雰囲気。
せっかくなので、久しぶりに一眼レフカメラでパノラマを撮影してみました。
 
 
瑠璃寺奥の院の前で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2016年1月3日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/ruriji20160103/virtualtour.html
 
13:45
下山開始。往路をそのまま引き返しました。
 
14:10
駐車場に到着。
 
「兵庫県立博物館 総合調査報告書 5 船越山瑠璃寺」に掲載されている「瑠璃寺縁起(典1)」の釈文には、以下の文章があります。
 
速やかに国司に命ぜられて、行基菩薩を開基として此の地を点し、数百の番匠数千の人夫をもって大木を伐とり、巨石を鑿闘し、伽藍造営始りぬ。先に尊善房示し給える霊地の上、舜花の雲嶺には放光の尊容をうつして、行基自ら彫刻して安置し奉り。是れを奥院と号す。九峯随一中央の半腹に本堂を建て、千手千眼観世音菩薩の尊像を安置せり。東北の方の寶塔には釈迦、普賢、文殊を安置し、金堂、講堂、鐘楼、回廊軒を並べて儼然たり。伽藍東北の隅に佛法擁護伽藍鎮護の神祠、神戸大明神、熊野代権現を祝あがめ奉る。坤の高峯に地主尊善房を崇奉る。北の清瀧に弁財天女をいはいまします。善吉谷の如来出現の跡に假殿を建て潤の堂と号す。岨を苦しむ老少の参詣易きがためのまふけなり。僧坊、浴室、中門、仁王門すべて七十二宇。天平三年の春成功終りぬ。
(出典:「兵庫県立博物館 総合調査報告書 5 船越山瑠璃寺」)
 
この文章により、天平3年の開創当初の瑠璃寺の様子や規模がよく分かりますが、気になるのは「東北の方の寶塔」。
 
天狗堂を坤(ひつじさる:南西)と表現していることから、この文章中の方角は、本堂が基準になっているようです。つまり、塔があったのは本堂の東北。
 
何かしらの跡が残っているのかな。
あるいは、本堂に向かって右側に空間がありましたが、それが宝塔跡なのかな。
 
興味のある方は、探索をしてみてはいかがでしょう。