播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

第二次世界大戦中の姫路空襲(Part 4 of 4)

Part 3「2回目の姫路空襲」から続く

※この章はTMRの内容と関係ありません。

 
2回の空襲による被害は、以下の通りです。
(出典:姫路空爆の記録-恐怖の昼と夜-、姫路空襲を語りつぐ会編、1973)
 
戦災直前の状況
 戸数:24,236
 人口:107,643人
 市域面積:14,799,000坪
 
罹災状況
 戸数:11,638
 人数:55,402人
 被害面積:1,980,000坪
 
上水道被害
戦災直前
 給水戸数:9,102
 給水人口:44,144人
 給水栓数:8,166
戦災直後
 給水戸数:4,600
 給水人口:22,080人
 給水栓数:4,170

昭和24年6月復興状況
 給水戸数:9,020
 給水人口:44,198人
 給水栓数:8,118
 
私の祖父を含め、当時を知る人の多くはもうこの世にいません。しかし、空襲があったことを伝えるものは今も残っています。
 
最後に、太平洋戦争や姫路空襲を思い出させる「遺構」を紹介し、今回の記事の締めくくりとします。
 
まずは私にとって最も身近な空襲の跡、欄干に焦げ跡が残る白鷺橋(はくろばし)です。
 
 
▲白鷺橋
 
 
▲白鷺橋全景
 
白鷺橋拡幅記念碑
大正初期から、姫路市の商工振興策の一環として、公共用地を確保するため、姫路城の中濠の埋め立て作業が急ピッチで進められた。
昭和7年には、城南部の幅約20メートルの中濠が埋め立てられ、翌8年、船場川に架かるこの白鷺橋の竣工をまって、国道2号が開通した。橋名の由来は、19世紀ごろより姫路城の推称とされた白鷺城によるものである。
その後、第二次世界大戦で、当市もまた米軍の空襲を受け、特に昭和20年7月3日夜の第2次空襲で、この周辺は火の海となり焦土と化した。今もこの橋に残る黒い焦げ跡が当時の状況を物語っている。
戦後の目覚ましい経済復興と交通量の増大に対応して、昭和49年より国道線の改築事業に着手したが、地元住民の強い要望もあり、この橋は原型のまま拡幅することとし、平成3年3月竣工した。
ここに、白鷺橋の拡幅を記念して、その由緒を記すものである。
 平成3年3月記
  兵庫県
 
周辺の姫路城の石垣にも、焦げ跡があります。
 
 
▲焦げた石垣
 
空襲被害とは直接関係ありませんが、旧陸軍関連の遺構もあるので、紹介しておきます。

姫路市内の籾取山~苫編山にかけての山中には陸軍省の標石が今も残っていますが、それと同じようなものが白鷺橋近くの石垣脇にも埋まっていました。
 
 
▲石垣の下に今も残る陸軍省の標石(姫路城が軍事基地だった名残)
 
姫路市南西部、ちょうど小豆島上空から姫路へ向かってくるB-29の編隊を正面に見る京見山の南斜面には、高射砲台跡と呼ばれている場所が残っています。
ただ、通常の高射砲陣地であれば複数の高射砲が設置され、それぞれの高射砲の脇には弾薬庫があり、複数の砲に対して指揮命令を行う指揮所も必要です。
 
そんなわけで、これは戦時中の何かしらの遺構かも知れませんが、高射砲台跡と呼ぶには無理があると思います。
 
 
▲京見山山中の伝高射砲台跡(石積みで囲まれた3メートル四方の正方形の区画)
 
現在、姫路市立高丘中学校と関西電力姫路変電所になっているところは、空中写真で見るとまるで滑走路でもあったかのような長方形の区画になっています。
 
滑走路にしては幅が広いように見えるのですが、実はここは陸軍の射撃場だったのです。
祖父からここが射撃場だったことを聞かされていたので知っていましたが、どの程度の規模だったのかは最近になって過去の空中写真で知りました。
 
国土変遷アーカイブで閲覧出来る1947年10月4日米軍撮影による空中写真の一部を掲載します。
 
▲1947年10月4日に米軍が撮影した射撃場
 
同じ場所の現在の様子をGoogleマップで見ると、以下の通りです。
 
▲上のモノクロ写真の場所の現在の様子(Googleマップ)
 
高丘中学校は、射撃場のバックストップ(安土。弾丸を止めるための土手。)を削って建てられたようですが、そのバックストップも一部は残っています。
 
▲高丘中学校の西側、県道414号線沿いに今も残る射撃場のバックストップの背面(植物が繁茂している)
 
高丘中学校の北側には、ここが元々軍用地だったことを示す陸軍の標柱が今も残っています。
 
▲高丘中学校の北側に今も残る陸軍の標柱(かすかに「陸軍」と読み取れる)

京口駅のすぐ東側にあり、1回目の空襲で破壊し尽くされた川西航空機姫路製作所の跡地は、現在京口団地やゴルフの練習場になっています。
 
京口駅は高架になっていますが、基本的に当時と同じ位置に残っており、その東側のロータリーの中心には、空襲について刻まれた「空爆の碑」があります。
 
 
▲空爆の碑
 
空爆の碑
 この地は川西航空機姫路製作所跡地である。昭和20年(1945)6月22日午前10時30分頃、米国B29爆撃機9機の空爆により一瞬に焦土、死礫の山と化した。川西航空74名、周辺住民67名、等341名の死者、行方不明10名重軽傷350名、罹災者10,220名の被害を受けた。又同年7月3日深夜焼夷弾による姫路大空襲により死者173名、行方不明4名、重軽傷160名、罹災者45,182名の被害を受け市内が焦土と化した。尚当時の人口は107,643名であった。私たちは犠牲者の霊を慰めると共に人名の尊厳と平和を希求し、戦争が地球上からなくなる事を心に念じ平成8年中核都市指定を記念してこれを建立する。
 平成9年(1997)3月
城東地区連合自治会
 
京口駅から北東へ約500mの地点、アンビックの工場南側には、レンガが露出した塀が今も残っています。
これは戦時中から残っているものでしょうか。
 
1回目の姫路空襲の爆撃目標は川西航空機姫路製作所と山陽皮革でしたが、その間にあるこのアンビック(旧日本フェルト)の工場も空襲の被害を受けています。
 
 
▲アンビック(旧日本フェルト)工場南側の塀は、空襲当時のもの?
 
姫路市の手柄山山頂には、太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔が立っています。
これは、剣を逆さにして地面に深く突き刺した形を表しており、戦争放棄の象徴です。
 
前垂には日本地図が描かれ、空襲に遭った都市の位置には印が付いています。
そして、両側に無数に並ぶ柱(正確には138本)には、都市ごとの被害状況や復興に当たった市長の氏名が刻まれています。
 
▲太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔の前で撮影した全天球パノラマ(撮影:2017年8月13日)
 
参考資料
・Headquarters XXI Bomber Command「Tactical Mission Report (Mission No.215 220 Flown 22 June 1945)」
・USSBS(THE UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY) Kawanishi Aircraft Co.
 (Kawanishi Kokuki Kabushiki Kaisha) CORPORATION REPORT No. 3 (Air frames)
・Headquarters XXI Bomber Command「Tactical Mission Report (Mission No.247 250 Flown 3 July 1945)」
・「XX Bomber Command B-29 Combat Crew Manual」(1944)
・「Boeing: History -- Products - Boeing B-29 Superfortress」(http://www.boeing.com/history/boeing/b29.html
・(Youtube動画)「B-29 Flight Procedure And Combat Crew Functioning (1944)」
・(Youtube動画)「B-29 gun turret sighting system Boeing Seattle part I」
・(Youtube動画)「B-29 gun turret sighting system Boeing Seattle part II」
・(Youtube動画)「B-29 HIGH ALTITUDE BOMBING RAID OVER JAPAN TARGET INVISIBLE 25994」
・「[1.0] Dumb Bombs (1): Unitary Bombs」(http://www.vectorsite.net/twbomb_01.html
・「BOMB, CHEMICAL, 100-POUND M47 SERIES」(http://www.swf.usace.army.mil/pubdata/fuds/5points/specs/100chemical.PDF
・「Damage assessment photo intelligence reports of Far Eastern targets filed by area and contain all available information on the area: Okayama Report No. 3-a(28), USSBS Index Section 7」
・姫路空襲を語りつぐ会編「姫路空爆の記録 -恐怖の昼と夜-」(1973)