播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

第二次世界大戦中の姫路空襲(Part 3 of 4)

Part 2「B-29はどのような航空機だったのか」から続く

引き続き、2回目の姫路空襲についてのTMRの概要を載せておきます。
 
記載されている時刻は世界協定時なので、日本時間に直すには9時間を足してください。
 
2回目の姫路空襲については、作戦番号(Mission No.)247~250について書かれたTMRに詳細が述べられています。
 
1945年7月3日、2回目の姫路空襲についてのTMRの概要は、次のようなものです。

作戦番号は249、標的は姫路市街地、第313航空団が担当。
この時は作戦番号247で高松、同248で高知、同250で徳島も空襲の標的になっています。
 
TMRによると、姫路市は東西約3.2km(2マイル)、南北約2.4km(1.5マイル)のエリアに人口10万4千人(1940年当時)が密集しており、山陽本線のターミナル駅として重要な役割を果たしていたとのことです。
 
姫路を爆撃した第313航空団は3つのグループに分かれて攻撃を行いましたが、そのうちの1つのグループはM47A2焼夷爆弾を、残り2つのグループはE46(M69焼夷弾をまとめた集束弾)を搭載。集束弾は上空約1,500m(5,000フィート)で分離、散開して地上を襲います。
 
2回目の姫路空襲の攻撃目標(mean point of impact)は姫路城の南東で、爆撃誤差として考えられる半径約1,200m(4,000フィート)以内に、操車場や市街地の大半が含まれていました。
 
(注:米軍が姫路城を意図的に残したという話がまことしやかに伝えられていますが、姫路城の南東の角付近を爆撃目標にして(下の画像参照)、爆撃誤差を半径1,200mと見積もっていることや、前述の通り集束焼夷弾が上空1,500mで散開することから考えても、米軍が姫路城を残そうとしたとは全く思えません。姫路城が空襲を生き延びたのは、本当に偶然でしょう。)

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▲作戦番号249の爆撃目標(Mean Point of Impact)は、赤丸の位置(姫路城南側の中堀付近)。本来は白い丸が描かれていますが、見づらいため赤い線で白い丸をトレースしました。

 
計画では、作戦番号249の攻撃軸(方位角)は38度、爆撃行程は約67km(41.5マイル)、爆撃行程にかかる時間は9分。爆弾投下の高度は約3,000m(10,000フィート)。
 
爆撃行程の始点(initial point)は、レーダーで容易に識別できる四国の北東(北緯34度21分、東経134度15分)。そこから方位38度へ飛行することで姫路へたどり着きます。

これは、1回目の空襲とほぼ同様のルート。
 
 
▲マリアナ諸島から日本への飛行ルート
 
 
▲当日の気象状況
 
 
▲飛行ルートについて書かれたページのレーダー画像(夜間でも海と陸地の区別が明確に出来る)
 
姫路を爆撃した部隊が搭載した焼夷弾の重量は、1機当たり約6.8トン(15,000ポンド)。
 
作戦実施前の米軍側の予測では、20~25機の迎撃機と遭遇する可能性ありとされていますが、航空燃料が不足し、夜間戦闘機の装備も当時の米軍の水準を下回っていたため、日本軍は米軍機に対し無力(ineffective)であると分析されています。
 
米軍の情報では、姫路を守る高射砲(大口径)は23門、中口径砲が24門、サーチライト(探照灯)が5台。
米軍側にとっては取るに足らない防御態勢とのことです。
 
ここからが実際の作戦実施状況です。
 
テニアン基地の第313航空団所属B-29の一番機の離陸が1945年7月3日07:23、最後の機体が飛び立ったのが同08:49。(この段落の時刻は世界協定時)
 
途中、桜花(ロケット式の特攻機)を搭載した一式陸攻からの攻撃に遭遇したと記録されています。

(注:桜花を空対空兵器として使うことはあり得ないので、当時の日本軍が使っていた二七号爆弾(ロケット弾)を桜花と誤認したのかも知れません。)
 
姫路を爆撃した第313航空団に対しては、家島からわずかで不正確、中口径~大口径の高射砲による攻撃(meager, inaccurate, medium and heavy flak)、目標周辺では主に中口径の高射砲による攻撃がありました。

ある搭乗員の報告によると、地上で緑色の明かり(おそらく発炎筒)が見えている間は高射砲による攻撃があり、攻撃がやんだときはその明かりが消えていたとのこと。
 
爆撃は14:50から16:29(いずれも世界協定時。日本時間は23:50~01:29)にかけて、高度約3,100m(10,100フィート)~約3,500m(11,500フィート)で、予定通りの攻撃軸(方位38度)で実施。
 
爆撃はレーダー同期爆撃(synchronous radar method)と目視照準により実施されています。爆撃を実施したB-29は106機。

爆撃機より高度が低い雲の雲量が4/10~6/10程度だったため、大半は炎や煙を頼りに標的を目視照準で爆撃。

(注:レーダーを使ったのはM47A2焼夷爆弾を搭載した先導隊で、後続機は炎や煙を頼りに標的を目視照準したということでしょう。)
 
投下されたのは、E46(集束焼夷弾)が2,733発(546.6トン)、M47A2(焼夷爆弾)が6,396発(220.5トン)。

(注:焼夷弾の数が少ないように見えますが、実際は後述の通りE46一発につき38発の焼夷弾がばらまかれるため、実際に姫路市街に降り注いだ焼夷弾の数は2,733x38で103,854発ということになります。)
 
補足:E46集束焼夷弾は、M69焼夷弾(長さ約50cm、直径約7.5cm。1発あたり2.3kg)を19発まとめた束を2つ並べてセットしたもの。つまり、E46集束焼夷弾1発=M69焼夷弾38発。M69はE46に集束された状態で投下され、空中で散開。尾部から姿勢制御用の帯を出して落下。着弾するとナパーム焼夷剤に点火され、尾部から最大で45mの高さへ点火された状態の焼夷剤を打ち上げる。打ち上げられた焼夷剤は散らばって周辺に落下し、周囲の家屋などを燃やした。M69焼夷弾と、それを束ねた収束焼夷弾は、以下の動画で実際の形状や威力を見ることが出来ます。
 
▲M69焼夷弾を紹介する動画。冒頭で兵士が持っているブヨブヨしたものが焼夷剤。六角形の筒がM69焼夷弾で、着弾すると火の付いた焼夷剤を尾部から撃ち出す。映っている航空機はB-25。)
 
空襲の様子を「火の雨」と表現する証言があったり、アニメなどでそのように焼夷弾が描かれることがあるため、焼夷弾は尾部の帯を燃やしながら落ちてくると誤解している方が多いですが、あの帯は焼夷弾の姿勢を制御するのが目的で、焼夷剤に点火するためのものではありません。焼夷弾の弾頭にある信管により点火された火薬が、焼夷剤に点火して尾部から撃ち出します。そのため、帯を燃やしながら落ちてくることは基本的にありません(そういった設計にはなっていない)。帯が燃え尽きると焼夷弾の姿勢が安定せず、効果が下がってしまいます。 

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▲M69焼夷弾の弾頭にあるM1信管*1
 

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▲M69焼夷弾に使われたM1信管の構造(「正面」図にある矢印の刻印を弾尾に向けてM69焼夷弾に取り付けると、断面図の右が弾頭、左が弾尾側を向くことになる)
出典:「UNITED STATES BOMBS AND FUZES PYROTECHNICS 1945年9月1日 U.S.N.B.D.」p.148

信管は側面にねじ込まれています。飛び出しているピンは、信管の安全装置。収束されている状態ではピンが隣接するM69焼夷弾に押されて引っ込み、ハンマーが動かないため信管は作動しません。収束弾の弾殻が割れてM69焼夷弾が散開すると、バネの力でピンが押し出され、信管の安全装置は解除されます。
 
ピンの両側に矢印が打刻されており、これらが焼夷弾のお尻の方を向くように焼夷弾本体にねじ込むと、ハンマーの向きが正しくなります。
 
着弾時にハンマーが慣性で弾頭側に高速で動き、ハンマーの撃針が雷管を叩くと雷管が導火薬に点火。導火薬は3~5秒かけて燃焼してから起爆薬を爆発させます。
 
起爆薬によって焼夷剤を撃ち出すための黒色火薬(M69焼夷弾の弾頭にセットされている)が爆発し、M69焼夷弾の尾部から火の着いた焼夷剤が打ち上げられ、焼夷剤は拡散しながら周辺に落下するわけです。
 
収束焼夷弾のケースを上空で分離させて焼夷弾をばらまくという方法が使われていましたが、ケースを分離させるのにPETNと呼ばれる爆薬が使われます。このPETNが爆発すると、その時の炎で焼夷弾尾部の帯に火が着くという話も聞きますが、収束焼夷弾に納められている焼夷弾の帯は、折りたたまれて焼夷弾の中に入っています。つまり、ケースが分離して空中に放り出された後に帯が出てくるわけです。
そのため、やはり帯に火が着いた状態で焼夷弾が落ちてくるというのは無理があると思います。
 
ただ、着弾した焼夷弾から打ち上げられた焼夷剤が、数十メートルの高さから燃えながら落ちてくる様子は「火の雨」のように見えると思います。

(補足:M47A2は、厚さ1.6mmの薄い金属板を整形し、元は化学兵器を充填する目的で作られた容器(長さは約1.1m、直径約20cm)。日本を空襲する際は、ガソリンを主体とした焼夷材を充填し、M108信管とM7炸薬(burster charge)をセットして使用する。着弾するとM7(約450gの黒色火薬)が爆発し、容器を破って火のついた焼夷剤を周囲にまき散らす。焼夷剤を充填して使用する場合の重量は、1発あたり約42kg。)

 
(注:「姫路空爆の記録-恐怖の昼と夜-」(姫路空襲を語りつぐ会編 1973)に掲載されている体験談を見ると、照明弾がまず投下されたという証言が見られますが、照明弾を搭載していたという記録は米軍側にありません。はじめからレーダー同期爆撃を行う計画だったので、照明弾は必要無いはずです。)
 
日本軍は、12機の迎撃機が合計8回、B-29に対して攻撃をしかけています。
B-29は110発の50口径弾で応戦。日本軍機の損傷は無し。
 
B-29は、1機が高射砲により、もう1機が迎撃機と高射砲により損傷。
姫路を攻撃したB-29搭乗員のうち、死傷者は無し。
 
爆撃後に帰投した最初の機体が着陸したのが1945年7月3日21:05、最後の機体が着陸したのが同23:32。(この段落の時刻は世界協定時)
 
姫路市街地は、住宅密集地の63.3%が罹災。
被害は市街地の南部から東部にかけて集中し、北部や南西にはほとんど被害がありませんでした。
この空襲により、姫路城内(中堀の内側を「城内」と見なしています)の兵舎も多大な被害を受けています。(ただし、損害評価報告の写真には記載無し。)
 
 
▲姫路市街地空襲の損害評価報告(X印は1回目の空襲による被害地域、斜線が2回目の空襲による被害地域)
 
第2回目の空襲による姫路市の損害
(出典:姫路空爆の記録-恐怖の昼と夜-、姫路空襲を語りつぐ会編、1973)
 死亡:173人
 重傷:41人
 軽傷:119人
 行方不明:4人
 全焼:10,248
 半焼:39
 全壊:
 半壊:
 罹災者数:45,182人
 罹災面積:93万坪
 
ところで、日本軍機はどのような反撃をしていたのでしょう。
対空砲火や迎撃機の有無等はTMRで分かりますが、具体的な日本軍機の攻撃方法は分かりません。
そこで、日本軍機への対処法が書かれている米軍のB-29搭乗員向けマニュアル「XX Bomber Command B-29 Combat Crew Manual」を見てみました。
 
それによると、当時の日本軍ではB-29の昼間爆撃に対する戦術が決まっておらず、通常は複数の戦闘機で共同して爆撃機を攻撃しなくてはならないのに、日本軍機は「行き当たりばったり」な対応しか出来ていなかったようです。米軍の分析では、B-29のスピードが他の爆撃機よりも速かったため、複数の戦闘機が密に連携して攻撃することが難しかったためだとされています。

また、B-29への攻撃経験を積み重ね、B-29の特性を知るようになれば、日本軍は迎撃戦術を見つけるかも知れないとも書かれています。
 
昼間に満州を爆撃した際の米軍の記録では、日本軍機はB-29の前方上空から降下しながら、B-29から300ヤードほどまで距離を詰めて攻撃を行い、そのまま下方へ抜けるという攻撃パターンがもっとも多かったそうです(前方からの攻撃が全体の約4割)。
 
夜間爆撃の際は、前方から攻撃をしてくることが多い昼間と異なり、日本軍機はあらゆる方向から攻撃を仕掛けたようです。攻撃を仕掛ける高度はB-29と同じかそれよりも低い高度からが大部分を占めています。攻撃後は急降下で離脱するのが一般的だったようです。
 
Part 4「空襲の記憶」へ続く

*1:このM69焼夷弾の画像は、2016年7月3日に姫路市平和資料館で開催された「姫路空襲体験談を聞く会」の会場で撮影したものです。