播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県加西市の善防山城跡

昨日は遅くまで飲んでべろんべろんになる予定があったので、その翌日(本日)日曜日は軽めの山歩きにしようと予め決めていました。
 
選んだのは、加西市の善防山。
9年前に笠松山と善防山の両方を歩いたのですが、その時は山城がどういうものか分かっておらず、主郭跡で記念撮影をしただけでした。
 
それ以来善防山は訪れていませんでしたし、最近は山城の跡を歩くことが多くなったので、9年前よりは楽しめるかなと考えたわけです。
 
ちなみに、善防山にあった善防山城については、以下の通りです。
 
善防山城
 善防山城は、善防山(標高251m)の山頂にある。この山は、凝灰岩の岩質であるが、一の郭は、いわば城の主郭にあたる所で、腰郭が渦巻状に周囲を二重・三重に取り巻いている。そして、その郭の下に三カ所ほど石垣の一部が残っており、井戸らしい所も一か所残っている。また二の郭と一の郭との間には、削平地が二か所と、小堀切が残っており、三の郭も削平地だけが残っている。この三の郭は一の郭への連絡場所ではなかったかと思われる。さらに四の郭は小さく三段ぐらいに分かれているようにみうけられるが、低い所に石垣が一か所と虎口らしきもの一か所のほか、土塁も残っている。この四の郭は街道の押さえではなかったかと思われる。
 室町時代の応永年間(1394~1428)に築城されたらしいが、史料不足のため、はっきりしたことがわからない。城主は赤松刑部(左馬介)則繁という。赤松義則の八男で、満祐の弟である。則繁は若い時から乱暴者で、応永31年3月、京都の細川持之の邸内で安藤某を殺害するという事件を起こし、将軍足利義持は激怒して則繁に切腹を命じたが、逐電し、義持の死後、ようやく許されて出仕したという前科がある。嘉吉の乱(嘉吉元、1441)で将軍足利義教の暗殺に成功すると、兄義雅も則繁も京都の邸を自焼して満祐に従って播磨に帰った。則繁は満祐からもっとも信頼されていた弟で、兄の命を受けて備中井原庄善福寺に足利直冬の孫が僧となって世を忍んでいたのを迎えに行き、書写東坂本の定願寺を仮御所とした「井原御所」義尊の擁立に成功した。則繁は追討軍に備えて美作口を守るはずであったが、実際に美作口を固めていたかどうかよくわからない。満祐と共に城ノ山城で全体の指揮をとっていたらしいふしもある。善防山城の城主が則繁だとしても、嘉吉の乱以前は京都にいることが多かったし、乱中は城ノ山城にいて、城にはわずかの留守部隊しか残っていなかった。城主のいない善防山城は山名軍に簡単に破られ、落城した。落城した時、則繁は室津に落ち延び、さらに倭寇となって朝鮮に渡り、清水将軍と名のって沿岸を荒らしたが、やがて九州に帰って少弐教頼と共に大内政弘を攻めたが、敗れ、播磨に帰った。が、すでに山名領国となっていてどうすることもできず、河内の畠山氏を頼った。これを知った幕府は、細川持常を派遣して則繁を討たせた。文安5年(1448)8月8日、則繁はその隠れ家の当麻寺を囲まれて無念のうちに自殺し、その首は京都で梟された。嘉吉の乱後、7年もたっている。
 善防山城は山名氏が代わって城主を入れたのか、または落城後、廃城となったのか、それもわからない。
 
出典:日本城郭大系 第12巻 昭和56年3月15日初版第1刷発行 pp.404-405 
   発行所:株式会社 新人物往来社 編集所:株式会社 創史社
 
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「笠原」
※地図中の「一の郭」~「四の郭」の表記は、日本城郭大系 第12巻の図に基づいています。
 
9:20
姫路市街の自宅を出発。
 
国道372号線を北東へ進み、「善防」(ぜんぼう)交差点を左折します。
ここからは県道43号線。
続いて「王子町」交差点(三差路)を左へ入ってしばらく走ると、右側に善防中学校が見えてきます。

この中学校の前を通りながら道の左側を注意して見ていると、「古法華自然公園・古法華石仏 1km」と書かれた看板のある三差路があるので、それを左へ入ります。
一直線の道路を進むと道は急な上り坂になりますが、その手前左側に駐車場があります。
 
ルートラボで姫路市街から駐車場までのルートを作成してみました。
 
10:00
駐車場に到着(地図中「P」)。
トイレや飲み物の自販機はありません。
 
 
▲古法華自然公園駐車場の様子
 
Googleマップで駐車場の位置を確認する場合は、以下のURLをクリックしてください。(アルファベット付きのピンが立っている場合は、無視して下さい。文字のないピンの位置が駐車場です)
https://www.google.co.jp/maps/place/34%C2%B052'51.8%22N+134%C2%B049'35.8%22E/@34.881064,134.826613,15z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x0:0x0?hl=ja
 
10:10
準備を整えて出発。

ここで、予め調べておいた善防山城の縄張り図(「日本城郭大系 第12巻」に掲載されているもの)を家に忘れてきたことに気づきました。
一の郭から四の郭まであって、所々に石垣跡があったことは覚えているのですが、詳細が思い出せません。参った。
 
忘れてきたものはしかたがないので、とりあえず車で通ってきた道を引き返し、善防山登山口を目指します。
 
王子町交差点から南へ300mほど進んだところに神姫バスの「下里農協前」バス停があり、善防山登山口はこのバス停のすぐ南側にあります。
 
 
▲善防山登山口
 
10:33
善防山登山口に到着。

登山道は軽四なら通れる幅の道で、実際轍もあります。
 
 
▲登山口から続く広い道の様子
 
曇っているためかこの道は少し薄暗く、なんだか不気味な雰囲気。ただでさえ不気味なのに、突然道の脇から鳥が飛び出してびっくりさせられたり、妙な鳴き声も聞こえて落ち着きません。
 
軽四が通れるような幅の平坦な道は、転回用スペースのある場所で終わり。
そこからは普通の登山道になります。
 
10:40
まもなく、南の小学校方面からの道が左から合流しました。
ここから登山道の路面は、雨で土や砂が洗い流されたむき出しの岩になります。
 
 
▲岩があらわになった登山道
 
やがて露岩の斜面が出てきますが、そうなると尾根の肩はもうすぐ。
 
 
▲露岩の斜面
 
10:50
尾根の肩に到着。

1.5m四方ほどの、コンクリートで縁取りをされた穴が開いていたり、鉄製のふたがかぶさった、中が空洞のコンクリート製の箱がある(中にはゴミが入っていた)不思議な場所です。
 
ここに立つと、これから登る稜線を一望出来ます。
 
 
▲尾根の肩から、これから歩くルートを見る(尖ったピークは善防山山頂ではない)
 
写真の通り、ここからしばらく続くなだらかな区間は、ほぼ岩尾根。
展望はいいし、歩きやすいし、気持ちいい。
というわけで、パノラマを撮ってみましたが、結果的に、今回歩いたルートの中で最も展望の良い場所でした。
 
善防山の東側の岩尾根で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2014年3月2日)
 
パノラマにも写っていますが、ここにはケルン(?)のようなものが作られていました(地図中「ケルン」)。
文字が刻まれているようですが、なんだかよく分かりません。
 
 
▲岩尾根に作られたケルン(?)
 
11:15
パノラマ撮影もかねた小休止を終え、行動再開。
 
なだらかな岩尾根が終わり、等高線の間隔が狭まってくると、最初の内は鹿島神社の百間岩のような登りやすい岩の斜面になりますが、その後は両手を使わないと登れないような段差や岩の斜面がしばらく続きます。
 
 
▲この岩場から先、しばらく険しい岩場が続く
 
11:27
南からの登山道との合流地点に出会いました(地図中「四の郭」のすぐ東)。
 
 
▲合流地点の様子
 
このすぐ上に郭跡があるのですが、その中央にはブラウン管テレビのような形をした大岩(およそ1m四方)が転がっていました。
 
 
▲郭跡の中央に鎮座する大岩
 
善防山にはかつて、地形図の251m標高点のあるピークとその南西の小ピーク、南東の2つの小ピークの計4つの小ピークにまたがる善防山城がありました。
 
大岩がある上の写真の場所は、東端の小ピーク(日本城郭大系では「四の郭」と表記)の一段下にある郭跡で、ここから帯郭か犬走りのような地形が北へ延びているように見えました。
藪っぽくなっていますが、それを北へ進んでみると、何段もの郭があることが分かります。
 
 
▲四の郭の北側にある郭跡の一つ
 
四の郭の東側には、石積みなのか自然のままなのか、大岩で切岸が作られています。
 
 
▲四の郭の東側(この上が四の郭)
 
上がってみると「第二頂上到着」と書かれたプレートがありました(地図中「四の郭」)。

ここが日本城郭大系で四の郭とされている曲輪跡のようですが、2枚上に掲載した写真と大差ない写真しかないので、第二頂上の写真は省略します。
 
四の郭から西へ進んで一段下に下りると、四の郭の西側に石垣が残っているのに出会いました。
 
 
▲四の郭西側の石垣
 
四の郭と三の郭の間はちょっとした鞍部ですが、堀切はありません。
日本城郭大系の図では、どこかに堀切りがあったはずなんですが、思い出せない...
 
 
▲四の郭と三の郭の間の鞍部の様子
 
三の郭の手前には、まるで門のような大岩があります。
この大岩の脇は人一人が通れる幅しかありませんし、岩の上には人が立てる平坦なスペースがあるので、城の防御施設の一つだったのでしょう。
 
11:42
三の郭を通過(地図中「三の郭」)。特に何も無い削平地です。
 
三の郭の次は、一の郭です。(日本城郭大系では、二の郭は一の郭の南西にあるので、東から見ていくと、二の郭が最後になるのです。)
 
 
▲一の郭の東側の切岸を見る
 
11:47
一の郭(地図中「一の郭」)に到着。
郭の真ん中に巨岩があり、その周囲にも大岩がゴロゴロしています。
 
 
▲一の郭
 
一の郭の北側を見ると、何段か郭があるのが見えました。
しかし、写真に撮っても遠近感が分からないため、藪の写真にしか見えません(写真は省略)。
 
注)郭跡やその周辺には、一部イバラがありました。登山道には無いので問題ありませんが、郭跡を探索したいという方は、服装に注意してください。普通の服だと、イバラの棘で傷んでしまいます。
 
一の郭で食事をしようと思っていましたが、予想以上に展望がない(私の山歩きの目的は、展望と食事を楽しむこと)ので、もっと先へ進むことにします。
※帰宅後に縄張り図を見ると、一の郭の北側に石垣が残っていると書かれていました。残念。
 
一の郭から南西へ下ると、土橋がありました。
左右は浅いながらも堀切りになっていますし、今までの鞍部をつなぐ道とは幅が全く違います。これが日本城郭大系にある小堀切。
 
 
▲一の郭と二の郭をつなぐ土橋
 
11:58
二の郭に到着(地図中「二の郭」)。
ここには、9年前に見た覚えのある巨岩がありました。
 
 
▲二の郭(巨岩がある)
 
この岩の後ろに回ると、笠松山方面の展望が開けた場所があったので、そこで昼食を頂きました。
本日のメニューは、エスプレッソパスタのスパゲッティ・チーズ&ブロッコリ。
 
 
▲本日の昼食
 
12:30
昼食を終えて下山開始。

駐車場近くへ下りられそうな破線道が地形図に描かれているので、それを下ることにします。
二の郭から西へ下りますが、最初はなかなか急な斜面。
 
 
▲二の郭から下った道を振り返る
 
急斜面が終わると、土橋のような道になりますが、両側は堀切りではなく、切れ落ちた斜面。
こんな道を人工的に作るのは不可能です。やせ尾根のため自然に出来た土橋でしょうか。
 
12:42
地形図で北東へ延びる破線道が分岐する地点に来ました(地図中「下山コース分岐」)。
道標があり、西を指して「吊り橋 古法華石仏」、東を指して「善防山 善防山城跡」、北東を指して「下山コース」となっています。
 
 
▲道標
 
今回は「下山コース」を選択。
下山コースは、丸太階段の残骸のある急斜面から始まります。
 
2~3分下ると、大岩が道ばたに現れました。
この辺りの尾根はどういうわけか大岩だらけ。
 
 
▲下山尾根の大岩
 
大岩のある場所を抜けると、前方の視界が開けて、岩の表面に砂がかぶさった道になります。
 
 
▲ある程度下ると、前方の視界が開ける
 
明るい道は、いったん両側の植物の密度が高くなって終わってしまいますが、そこを抜けると再び砂の浮いた道になります。そうなると車道はすぐそこ。
 
12:58
駐車場の少し東側に下りてきました。
 
 
▲ここに下りてきた
 
13:03
駐車場に戻りました。
 
13:45
自宅に到着。