播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。原則として更新は週に1回です。

旧日本軍 姫路射撃場跡@兵庫県姫路市

概要

本日は終戦の日。
ということで、(このブログでは恒例になっていますが)今年も第二次世界大戦にまつわる記事を掲載します。

今回紹介するのは、私が住む姫路市にかつて存在していた陸軍の姫路射撃場(別名:高岡小銃射撃場)。

現在は姫路市立高丘中学校や関西電力の姫路変電所住宅地になっています。


▲蛤山(はまぐりやま)(別名:振袖山)の中腹から見た姫路射撃場跡地(手前から高丘中学校、姫路変電所、住宅地)左上に姫路城、右上に名古山霊苑の仏舎利塔*1が写っている(2024年7月撮影)

所在地

姫路射撃場跡地は、姫路市営の巨大な公園墓地、名古山(なごやま)霊苑(昭和28年開苑)の北端から西北西に1kmほど伸びています。

現在でも、道路の形状等から当時の細長い区画がなんとなく分かりますね。


https://maps.app.goo.gl/n5C2fKHXgagUVcjL6
▲陸軍射撃場跡地の位置(細長い区画が今も残る)

姫路射撃場はいつ作られた?

射撃場の歴史を調べてみると、明治30年(1897年)に用地買収が行われたことが分かりました。

明治30年5月5日付で「臨建より姫路射撃場其他敷地買収の件」*2と題した文書が臨建部長から陸軍大臣宛てに提出されており、それには次の通り記載があります。

姫路射撃場其他敷地買収之義ニ付伺
兵庫県飾磨郡高岡村大字北今宿村字井ノ田三百四十四番ノ一外八十一筆
一民有地反別十町五反十五歩
 此買収代価金一万七千一円六十五銭五厘
同郡同村内
一官有道路敷反別一反四畝十二歩七合
一々 水路敷反別九畝二十歩六合
 以上射撃場敷地
同郡同村同字三百四十四番ノ二外百二十三筆
一民有地反別六反八畝二歩
 此買収代価金八百八十八円三十銭一厘
 以上射撃場敷地内転換道路溝渠敷地

(出典:「臨建より姫路射撃場其他敷地買収の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07041390500、参大日記 明治30年5月(防衛省防衛研究所)当ブログ管理人が旧字体を新字体に書き換えた)

参考のため、射撃場が作られた場所付近の大字図を紹介します。


▲姫路市町大字名図(出典:橋本政次 編著. 播磨考・姫路市町名字考, 臨川書店, 1987.3, (兵庫県郷土誌叢刊). 4-653-01535-X, 10.11501/9576245. *3  https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I9576245

1町=10反=100畝=3,000歩(1歩は1坪のこと)=30,000合という基準で計算すると、この時に買収された土地の面積の合計は11町4反1畝50歩3合(約113,305平方メートル)になり、東京ドーム換算で「東京ドーム約2.4個分の広さ」になります*4

民有地の買収にかかった費用は、およそ17,890円

お金の価値は時代によって、また基準とする物によっても大きく変わりますから、お金の専門家である銀行のWebサイトで調べてみました。

1901年(明治34年)の企業物価指数は0.469、2019年(令和元年)は698.8です。つまりおよそ1,490倍の差があることがわかります。そのため1円は1,490円の価値があるといえます。

しかし、違うものさしで考えてみると1円の価値は変わってきます。当時の給料をもとにして考えてみましょう。明治時代は小学校の教員の初任給が1ヶ月で8~9円だったといわれています。現在の初任給はおよそ20万円程度であることを考えると、1円は2万円もの価値があったとも考えられます。

(出典:三菱UFJ信託銀行Webサイト「昔の「1円」は今のいくら?明治・大正・昭和・現在、貨幣価値(お金の価値)の推移」2023年3月4日)

さて、射撃場の建設工事にかかわる資料はないのかと探してみたら、第十師団監督部長から陸軍大臣宛て「10督より新築物配置の件」(明治33年5月30日付)*5という、姫路高岡小銃射撃場に井戸と標的庫を新設するための伺いを見つけましたが、それ以外の詳細は分かりません。

姫路射撃場がいつ完成したのかについては、第十師団経理部長から陸軍大臣に宛てた「姫路城内射撃場を練兵場に改称使用の件」の文書から確認できました。

この文書にある「姫路城内射撃場」は現在姫路城の北に広がっているシロトピア記念公園で、北側には弾薬庫がありました。

  姫路城内射撃場を練兵場に改称使用の件
  大正五年十一月二十二日
 陸軍大臣大島健一殿
姫路城内射撃場ハ危険ノ為明治三十四年高岡小銃射撃場新設以来未使用廃止二依リ(以下略)

(出典:「姫路城内射撃場を練兵場に改称使用の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02031902800、永存書類乙輯第2類第1冊 大正5年(防衛省防衛研究所)当ブログ管理人が旧字体を新字体に書き換えた)

姫路射撃場(高岡小銃射撃場)は、明治34年(1901年)に使用を開始したことが分かります。

姫路射撃場の姿

姫路射撃場がどのような場所だったのか、当時の写真をいろいろと探してみたところ、歩兵第39連隊*6が射撃訓練をしている様子の写真が1枚見つかりました。

右上に「昭和6年大阪地方特別大演習」という表題が付いていますがこれは誤りで、正誤表によって削除されています(昭和6年の特別大演習は熊本地方で実施)。したがって、撮影された時期は不明。


▲姫路射撃場の様子(奥に蛤山(振袖山)が写っている)(出典:歩兵第三十九聯隊史編集委員会 編. 歩兵第三十九聯隊史 : 白鷺健児五十余年の歩み, 歩兵第三十九聯隊史軍旗奉賛会, 1983.3, 10.11501/12229768. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I12229768

写真を見ると、奥で立っている兵士の足元で伏射(伏せ撃ち)している兵士が4名等間隔に並んでいて、左端で伏せている兵士には隣の教官(?)がしゃがみ込んで話しかけているように見えます。手前で横一列に並んでいるのは、次に撃つ順番を待つ兵士かな。

射撃訓練なのにリュック(背嚢)を背負っていますが、これは明治44年(1911年)2月発行の「歩兵射撃教範」に服装の規定が書かれているからでしょう。

第七十一 基本射撃ニ於ケル執銃本分ノ射手ノ服装ハ軍装ニシテ毛布、携帯天幕及背嚢入組品ヲ除ク但予習射撃ニ在リテハ単ニ背嚢ノミヲ負フモノトス

(出典:歩兵射撃教範, 小林又七, 明44.2, 10.11501/1266137. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I1266137 p48 当ブログ管理人が旧字体を新字体に書き換えた。)

戦闘射撃(訓練)の際は、実戦と同じ重量の荷物を背負って行うことになっています。

第百十三 戦闘射撃ニ於ケル指揮官以下ノ服装ハ軍装ニシテ下士以下ハ毛布及携帯天幕ヲ除キ其負重量ハ概ネ戦時ニ等シカラシムヘシ

(出典:歩兵射撃教範, 小林又七, 明44.2, 10.11501/1266137. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I1266137 p84 当ブログ管理人が旧字体を新字体に書き換えた。)

これら服装に関する規定は、昭和11年(1936年)発行の「小銃、軽機関銃、拳銃射撃教範」*7でもあまり変わっていません。

左下の見出しは「高岡射場」となっていますが、これは姫路射撃場の別名の一つです。背景の山の形状が蛤山(振袖山)と一致していることからも、撮影場所は姫路射撃場だと考えて差支えないでしょう。

【背景の山の形状が蛤山と一致しているとした根拠】

登山者向けの地図アプリ「カシミール3D」には、地形データをもとに任意の地点からの山の見え方をシミュレーションする機能があります(アプリ内では「カシバード」と呼ばれている)。

その機能を使用し、姫路射撃場の中間地点(西端のバックストップから東へ500m付近)から蛤山(振袖山)がどのように見えるのかをシミュレーションしてみました。

上の画像で背景に写っている山並みと形状が一致していることがお分かりいただけると思います。

シミュレーションするにあたり、カメラのレンズの位置は地上高2m、レンズの焦点距離は85mm、風景の設定は「花崗岩の山」にしています。


▲姫路射撃場中間地点から蛤山(振袖山)方面を85mmレンズで撮影した場合の山の見え方(カシミール3Dを使用して作成)

射撃場全体の様子は、戦後に米軍が撮影した航空写真と大正時代の2万5千分の1地形図から分かります。

地形図で射撃場とされている場所は、全長およそ1000m


▲終戦後間もなく撮影された射撃場付近の航空写真(米軍が撮影した2枚の航空写真を結合した上で一部を切り出し、当ブログ管理人が射撃場の位置を示す赤枠を描いた)(出典:国土地理院の空中写真 撮影年月日 1947/10/04(昭22) 整理番号 USA コース番号 R515-5 写真番号 3および4 撮影高度 2438m 撮影計画機関 米軍)


▲大正12年側図、大正15年7月30日発行の地形図に記載された射撃場(「今昔マップ on the web」から射撃場付近の地図を切り出し、当ブログ管理人が射撃場の位置を示す赤枠を描いた)(この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。)

広大な敷地ではありますが、実際に射撃場らしさがあるのは西側の半分だけに見えます。


▲前述の航空写真から射撃場の西半分を拡大した画像

射撃訓練の距離はどのくらい?

射撃場跡地は全長がおよそ1000mにもなりますが、実際にそんな距離で射撃をしたのでしょうか。

前掲の「歩兵射撃教範」の48ページから始まる「第四章 基本射撃」という項目では、兵士の射撃技術(等級)に応じた距離が表で示されており、標的までの距離は最短が200mで、最長は600mです。

姫路射撃場が完成した当時最新の小銃は、三十年式歩兵銃でした。

明治44年(1911年)2月に出版された「初級之歩兵射撃」によると、三十年式歩兵銃の最大射程は約4000mで、危険界は次の通りとされています。

第五章 三十年式歩兵銃性能

問 三十年式歩兵銃ノ最大射距離ヲ問フ
 答 約四千米

問 水平地上ニ於ケル歩兵及騎兵ニ対シ三十式銃ニ於テハ何百米マテハ危険界ナリヤ
 答 伏姿歩兵(〇米五〇) 三〇〇米
   膝姿歩兵(一米)   四〇〇米
   立姿歩兵(一米六五) 五〇〇米
   騎兵(二米三〇)   六〇〇米

(出典:「兵事界」編纂部 編. 初級之歩兵射撃, 兵林館, 明44.2, 10.11501/844335. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I844335 pp.22-23 当ブログ管理人が旧字体を新字体に書き換えた。)

当ブログ管理人による注釈:文中の「米」は「メートル」のこと。カッコ内は標的の高さ、右の百メートル単位の数字が距離を表しています。(例:立姿歩兵の「一米六五」は、立った状態の敵兵の身長が「1メートル65センチ」を想定していることを表し、それに対する危険界(有効射程)が「500メートル」という意味。)

銃器に詳しくない方にとっては、最大射程に対して危険界(有効射程)が短いと感じられるかも知れません(注:当ブログ管理人は「危険界」を有効射程の意味だと解釈しました。)。

銃弾は狙ったところに当たらなければ意味がなく、標的までの距離が遠くなるほど命中率は下がりますから、有効射程は短くなってしまうのです。

ちなみに「有効射程」の定義ですが、米軍の場合「maximum effective range」が日本語の有効射程にあたると考えると、陸軍省発行のマニュアル「FM 3-22.9 RIFLE MARKSMANSHIP M16-/M4-SERIES WEAPONS」において「The greatest distance at which a soldier may be expected to deliver a target hit.(兵士が命中弾を得られると期待できる最大距離。:当ブログ管理人による訳)」とされています*8

前述の「歩兵射撃教範」によると、「基本射撃」の訓練で撃てる弾の数は少なく、55ページには「第七十四 一習会ノ弾数ハ二等射手ノ第一習会ハ三発其他ニ在リテハ五発ヲ定規トス」と書かれており、57ページには「第七十六 同一射手ヲシテ一日ニ二習会ヨリ多ク射撃セシムヘカラス」とあります。

1習会が5発(三十年式歩兵銃の装弾数が5発だから、それに合わせてあるのかな。)ですから、一日の基本射撃で一人の兵士が撃てる弾は最大で10発だったということになります。

「基本射撃」を終えると、「応用射撃」、「戦闘射撃」へと訓練が高度化していったようです。

「歩兵射撃教範」の128ページには、一人の兵士に対して訓練用として一年間に支給される弾薬の数が表で掲載されており、現役の士官准士官実包(実弾)が150発下士、二年兵実包が150発空包が120発狭窄実包(きょうさくじっぽう。実弾より射程距離が短い弾で、射距離15mほどで撃った。)が60発となっています。

応用射撃、戦闘射撃用の実包の配当数も決まっており、「歩兵射撃教範」の130ページによると応用射撃用の実包は一人15発、戦闘射撃用の実包は一人50発で、それぞれ配当された目的以外での利用が禁止されています。

以上は、射撃場が完成した当初(明治時代)のルール。

昭和11年発行の「小銃、軽機関銃、拳銃射撃教範」では、1習会が5発~7発になっていますし、「第七十七 同一射手ヲシテ一日ニ二習会ヨリ多ク射撃セシメサルヲ可トス」と書かれており、明治時代よりも一日の訓練で撃てる弾の数は増えています。

基本射撃の訓練における小銃の射距離は、習会が進むにつれ200mから300m、400mと延びていきます。軽機関銃の基本射撃では200mか300m、散兵的*9を使うときは50mとされています。

初年兵の「戦闘射撃」の訓練では射距離が200~300mの場合、使用する弾薬は一人8発。射距離が300~400mの場合は12発となっています。小銃の装弾数は5発ですから、弾数が中途半端ですね。

これらを見ると、航空写真で見る姫路射撃場の全長が1000mあるのに、射撃場らしさがあるのが西側の500mほどだけというのも納得です。

射撃場はどの程度使われていた?

姫路射撃場は陸軍だけではなく地元の生徒も学校行事(教練)で使用していたようです。

例えば姫路商業の歴史をまとめた書籍には、毎年決まった時期に5年生(最終学年。現在の高校2年生に相当する。)の生徒が実弾射撃を行ったことが書かれています。

大正十三年(一九二四)
一〇月二七日 第五学年、高岡射撃場において実弾射撃
(中略)
昭和二年(一九二七)
一一月七日 第五学年、高岡射撃場において実弾射撃
(中略)
昭和三年(一九二八)
一〇月一一日 第五学年、高岡射撃場において実弾射撃

当ブログ管理人による注釈:その後も毎年10月か11月に第5学年が実弾射撃を行った記録があります。また、同書によると第5学年は実弾射撃に加えて薬師山(現在琴陵中学校がある山)で狭窄射撃*10も行ったようです。

(出典:姫商七十年史編集委員会 編. 姫商七十年史, 兵庫県立姫路商業高等学校創立七十周年記念事業委員会, 1981.11, 10.11501/12115699. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I12115699

他に「此のころに射撃部が設置された。部員の数は少ないが、一致協同して練習に励み、高岡の射撃場にも通った。」という文章も「姫商七十年史」の 459ページに見られます。

旧制姫路高等学校について書かれた書籍には次の文章があり、射撃場の利用頻度が極めて高かったことが分かります。

昭和十三年度
(前略)…軍隊の射撃場は動員令下でいよいよ猛烈を極め、毎日毎日、標的を眼前に見て無為の焦燥にかられつつ三、四時間も待って、僅かな練習を得る有様であった。

(出典:財界評論新社 [編]. 旧制高等学校物語 [第15], 財界評論新社, 1968, 10.11501/9545990. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I9545990 p381)

本文中では射撃場の名称がありませんが、上記の文章の前に「練習は概ね週一回、校内射撃場に狭窄射撃を行ない、ときには高岡陸軍射撃場へ進出して実弾射撃を行った。」とあることから、姫路射撃場の様子を書いたものと考えられます。

射撃場のその後

射撃場が終戦後どうなったのかについては、「姫路市地域夢プラン大全集 ~夢つづく 未来への路ガイド~」(2013年3月発行)に次の記載があります。

終戦とともに廃止され、昭和 22 年に高丘中学校、同 24 年に関西電力姫路変電所などができた。
(出典:姫路市. 姫路市地域夢プラン大全集 : 夢つづく未来への路ガイド, 姫路市, 2013-03. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I12396543 p207)

中学校や変電所に転換された土地以外は民間に払い下げられたわけですが、その詳細が「兵庫県農地改革史」*11「旧軍用地管理換実績表」に書かれています。

それによると、軍用地であった「高岡小銃射撃場」は昭和23年(1948年)10月2日付で、30.327反が開拓財産に転換されました*12

射撃場設置のために買収された土地は114反ありましたから、軍用地から開拓財産に変わったのは全体の約27%ということになります。

同書の「開拓財産土地売渡実績表」によると、昭和24年(1949年)2月1日付で26.507反が「農地となるべき土地」として¥5,523.02で入植者4戸、増反分として19戸の合計23戸に払い下げられました。
これは、射撃場跡地の東側4分の1が住宅地に変わっている現在の状況と一致します。

射撃場跡地の東側は農地として払い下げられて当初は田んぼになりましたが、やがて住宅地へと変わっていったことが分かります。

さて、終戦とともに廃止されたこの射撃場は、姫路市周辺の住民によく知られた場所だったようです。

実際、この場所の航空写真を見た時に細長い区画が見えたので「飛行場でもあったのかな」と疑問に思い祖父に尋ねたところ、「あそこは射撃場や」と当たり前のように答えが返ってきたほど。

姫路の郷土史研究家 高橋秀吉氏(1899~1979)*13が昭和の後半に出版した書籍には次の通り記載されています。

二一七、高岡の陸軍射的場
 蛤岩の上からすぐ東の下を見下すとこの射的場があった。戦前までは次々と軍隊はもとより在郷軍人や青年団、時には婦人会も出てきて盛んに訓練や仕合も行われたのであった。
 一見飛行場のように見えるが明治時代に造られてから単に射的場というだけで市の内外の住人達にはよく知られていた地であった。
 この写真は今になっては、余りにも若々しい土地の姿が一目で見渡されて、各自にいろんな想い出の種となるであろう。長さは1キロに近く、その腕前によって一番遠くからでも手前の堤に射ち合しあったのであろう。向うの端に名古山の北端が出ており、その向うに姫路城が夢のように浮んで見えているのは今も変りはないが、今の住宅化した状景では、この写しのようには感じられぬだろう。
 今はこの射的場も中学校や関電の変電所となり、左の八丈岩山の裾から辻井にかけてもこのころには山も緑、集落も静かな農家の並びで、道も弓なりの昔風のカーブも何だか昔が偲ばれてなつかしかった。そして中央ずっと遠くの姫路東方の山なみの中ほどにピラミッド型の桶据山が昔変らずに望まれているのはせめてもである。

(出典:高橋秀吉 著. 大正の姫路, 駟路の会事務所, 1974 原文まま 注:文中にある「写真」は、画質が悪くて何が写っているのか分からないため、ここには掲載しない。)

上の文章の内容が分かるように、蛤山からの景色を撮影してみました。


▲現在の蛤山(振袖山)山頂からの眺め(2024年7月撮影)(注:上記文章の冒頭では「蛤岩の上から」とありますが、蛤岩は高岳神社の御神体で現在は上に登れません。そのため、蛤山(振袖山)山頂から撮影した写真を代わりに掲載しています。)


▲「大正の姫路」の本文中にある高岳神社の「蛤岩」(2024年7月撮影)(現在は玉垣で囲まれて登ることはできない)

射撃場の痕跡

射撃場は学校や変電所、住宅地になって射撃場の輪郭がなんとなく分かる程度になってしまいましたが、私が気づいた範囲で2つの痕跡が残っています。

一つはバックストップ

射撃場ですから、弾丸が場外に飛び出さないように受け止める壁が必要で、その壁がバックストップ(日本語では安土(あづち))と呼ばれます。

高丘中学校の敷地の西側(県道414号線沿い)には、そのバックストップの一部が今も残っています。

県道から見えるのはバックストップの裏側で、校舎がある側が実際に弾丸を受け止めていた壁です。


▲県道414号線沿いに残る土手(バックストップ)の裏側

立派な土手ですが、当時最新だった三十年式歩兵銃の威力は大きく、距離400mからの積土に対する侵徹量(貫通力)は1mもありましたから、厚みのある土手が必要だったのです。

問 三十年式歩兵銃弾丸ヲ以テ尋常積土ニ対スル最大侵徹量ヲ問フ
 答 二〇〇米ニ於テ  一米二〇
   四〇〇米ニ於テ  一米〇〇
   六〇〇米ニ於テ  〇米八五

(出典:「兵事界」編纂部 編. 初級之歩兵射撃, 兵林館, 明44.2, 10.11501/844335. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I844335 pp.23-24)

当ブログ管理人による注釈:文中の「米」は「メートル」のこと。(例:「一米二〇」は「1メートル20センチ」)

もう一つの痕跡は、陸軍の土地であったことを示す境界標石

高丘中学校の北側、プールの近くで道が折れ曲がっている部分に立つ金属製のポールの根元に、陸軍省の標石が今も残っています。


▲ポールの根元に残る標石(矢印が示しているもの)

風化が進んで写真では文字があるように見えませんが、現地に行くと「陸軍」の文字が読み取れます。


▲近くから見た軍用地の境界標石


https://maps.app.goo.gl/8SNpVm8tm6hFeFbp8
▲陸軍省の標石の位置

交通アクセス

路線バスの場合

公共交通機関でこの場所に来るには、路線バス(神姫バス)の「バイパス辻井」バス停、または「辻井西」バス停が便利です。

どちらのバス停からも、陸軍省の境界標石までの距離は500m弱です。

境界標石からバックストップまでは、およそ350m。

JR姫路駅の北側に神姫バスの乗り場がたくさんありますが、上記のバス停に向かうバスは北2番のりばを出発するバスです。

姫路駅からの運賃は、「バイパス辻井」まではおとなひとり¥230、「辻井西」までは¥270です(2024年8月時点)。

バスの運転間隔は30分~1時間ですから、事前に時刻をしっかり確認してください。

JRの場合

JRの播磨高岡駅からも徒歩圏内(境界標石まで約1.5km)です。

レンタサイクルの場合

JR姫路駅の北には、レンタサイクルがあります。

気候の良い時期であれば、駐車場所を気にせず自由に動き回れる自転車が便利かも知れません。

最後に

姫路射撃場跡地は現在でも敷地の形が分かりますし、バックストップや軍用地を示す標石が残るなど貴重な場所です。

こういうものに興味のある方は少ないと思いますが、地元の方であれば郷土の歴史を知る機会として、遠方の方でこういったものがお好きな方は、姫路観光の際に見学してみてはいかがでしょう。

関連情報

姫路射撃場跡地周辺

姫路射撃場跡を一望できる蛤山(振袖山)が近くにあります。

登山口となる高岳神社(たかおかじんじゃ)には高橋秀吉氏の「大正の姫路」に記載がある「蛤岩」がありますし、体力に自信のある方なら、山の上から射撃場跡地の全景を眺められますよ(冒頭の画像は蛤山の中腹から見た射撃場跡地です)。


▲高岳神社の参道(2024年7月撮影)


▲高岳神社の社殿(2024年7月撮影)

式内 旧県社 高岳神社由緒碑

祭神 応神天皇 仲哀天皇 崇道天皇 事代主命 猿田彦神 住吉大神 伊予親王 藤原夫人 宇賀魂命 市杵島姫命 水分神

由緒
当社は延喜式内の社にして国内神名帳大神二十四社の内八所明神の一なる当国第五の宮にして旧安室郷の総氏神なり(中略)境内には巨大なる岩石多く殊に社殿の背後にそびゆるもの最も怪奇なり 昔土地の人此岩上にて蛤を拾い福徳長寿の幸を得しかば名付けて蛤岩と称す 当社の宝物に蛤の化石今に伝われり 明治七年二月郷社に列し昭和七年九月県社に昇格す

(出典:高岳神社東麓の参道入口に立つ石碑)

射撃場の東にある名古山は昔から国有墓地として使用されていましたが、明治29年に墓地の拡張や兵営、作業場設置のため土地を追加で購入するための伺いが立てられました。

その関係か、現在でも名古山の北東部に軍用地の境界標石が残っています。
名古山全体が軍用地だったのかな。

ちなみに、前掲の大正時代の地形図を見ると、射撃場の東、名古山北端の尾根を挟んだ反対側(陸軍省の境界標石が現存する付近)には、ある程度大きな建物が描かれています。それが陸軍の施設だったのかも。


▲「陸軍省所轄地」の標石(反対側に「明治三十三年三月」と刻まれている)

https://maps.app.goo.gl/GoP2KuTNWGD4u43i7
▲「陸軍省所轄地」の標石が残る場所(移設されたもの?)

なお、この時に買収された土地は、射撃場の面積のおよそ四分の三程度の広さ。

買収された範囲や広さは、次の文書から分かります。

陸軍省受領 第七九八号 臨建工地第二五七号
 兵庫県下姫路付近ニ於ケル兵営敷地等買収ノ義ニ付伺
(中略)
仝郡高岳村大字山畑新田三百七拾番外百四十七筆
一 民有地反別五町九反二畝二十五歩 埋葬地及作業場用地
 此買収価額金千五百二拾九円四拾壱銭五厘
仝村仝字
一 民有地反別壱反九畝歩 墓地交換ノ為買収地
 此買収価額金三百六拾円八銭四厘
仝村ノ内山畑新田
一 里道百七拾八坪 埋葬地及作業場内現存ノ道路
仝村字田ノ上山及栗林山
一 官林反別三町二反三畝拾歩 仝上敷地内 農商務省用地
右本年度ニ於テ要スル兵営敷地並埋葬地作業場用地トシテ官有地ハ所轄官省ヨリ譲受度又民有地ハ土地買収致度候間至急御許可相成度別紙書類相添此段相伺候也
 明治二十九年九月四日
  臨時陸軍建築部長代理
   臨時陸軍建築部副部長男爵野田豁通

(出典:「姫路監獄墓地譲受の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07041388400、参大日記 明治30年5月(防衛省防衛研究所)当ブログ管理人が旧字体を新字体に書き換えた。この前の文章に「飾磨郡」の記載があるため「仝郡」は「飾磨郡」を指す。)

当ブログ管理人による注釈:この文書にある「山畑新田(やまはたしんでん)」という大字(おおあざ)は当時、現在の薬師山(琴陵中学校のある山)から名古山にかけての山全体、およびその周辺を含む地名でした。今は「名古山」と一括りにされている山塊は、当時小ピークごとに異なる名前で呼ばれており、御前山、栗林山、丸山という名前があったようです。

上の画像の標石からおよそ30mほど南へ坂を上った道路沿いにも、「陸軍」の文字がかろうじて読み取れる標石があります。


▲先端部分だけが露出している陸軍省の標石

姫路市内のその他の射撃場

明治時代には、姫路射撃場(高岡)の他に短期間だけ姫路市南東部の阿保にも陸軍の射撃場があったようです。

 そこに大きくカーブして長い間に積み重なる土砂のために広大な河原ができた。これが阿保の河原で、小学生の遠足地ともなって、よく子供に喜ばれているところ。私も子供時代はここで遊んだことがある。
 明治のころはここに一時、陸軍の射的場も設けられて、弾丸をとめる高い堤もあったが危いので取り払われたことも覚えている。

(出典:柳沢忠 著. 船場川の流れ, 柳沢忠, 1982.8, 10.11501/9575149. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I9575149 pp.22-23 )

当ブログ管理人による注釈:文中の「私」は、高橋秀吉氏。

さて、日本軍の射撃場は姫路市内にありましたが、現在の陸上自衛隊も姫路市内に射撃場をもっています。

それは、姫路市飾東町唐端新にある志吹射場。安全のため谷間に設置されており、どんな場所かうかがい知るのは困難な場所。

この射撃場に興味があったので、実は2007年に山の上から志吹射場を見たことがあります。その際の記事は下のリンクからどうぞ。

山の上から見て分かった状況やGoogleマップの航空写真から判断すると、志吹射場の射座(射手が銃を撃つ場所。銃口の方向を制限するための筒がある。)から標的までの距離は200mです。

なお、射座が設置された土手の後方100mにも別の土手があるため、射距離300mでの射撃もできるようになっているかも知れません。

重要:当時と今では山の様子が変わっている可能性があります。また、射撃訓練の実施中に周辺に近づくことは非常に危険です。

*1:昭和29年にインドのネール首相(当時)から贈られた仏舎利(ぶっしゃり。釈迦の遺骨やそれを代替する物)をお祀りするため、昭和35年(1960年)に完成した仏塔です。

*2:「臨建」は「臨時陸軍建築部」の省略名です。

*3:スラッシュを挟むこれら二つの数字は、デジタルオブジェクト識別子(Digital Object Identifier 略称DOI)と呼ばれる文字列です。

*4:1町を9917平米、1反を992平米、1畝を99平米、1歩を3平米、1合を0.3平米として計算しました。

*5:「10督より新築物配置の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07050977100、明治33年 「伍大日記 6月」(防衛省防衛研究所)

*6:歩兵第39連隊は姫路城南西部、現在は県立姫路聴覚特別支援学校や市立白鷺小中学校、神姫バス姫路営業所、大手門駐車場、好古園となっている辺り一帯を駐屯地としていました。

*7:[陸軍省 編]. 小銃、軽機関銃、拳銃射撃教範 : 軍令陸第三号, 武揚堂書店, 昭和11, 10.11501/1457886. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I1457886

*8:自衛隊の射撃用語を調べてみましたが、「有効射程」の自衛隊における定義を見つけることはできませんでした。

*9:縦82cm×横2mの的に25cm四方の四角形を等間隔で横一列に5つ描いたものを上下に2段並べた標的。

*10:射程が短い弾を使った射撃練習のこと。

*11:兵庫県農地改革史編纂委員会 編. 兵庫県農地改革史, 兵庫県農地林務部農地開拓課, 1953, 10.11501/2466109. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I2466109

*12:旧軍用地管理換実績表を見ると、対価が¥93,556.28となっていますが、誰が誰に対して払うものかよくわかりません。

*13:たかはし ひできち。郷土史研究家として数々の著書を発行し、膨大な数の貴重な資料を収集、整理し残した人物で、昭和53年8月15日に姫路市から「姫路市民博士」の称号を与えられました。