播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

船場本徳寺(兵庫県姫路市)の修復事業

修復事業の概要

2019年7月27日付の神戸新聞に主題「船場本徳寺 修復中です」、副題「西二階町商店街に横断幕」という記事が載っているのを見つけました。

新聞記事によると、船場本徳寺は2032年3月までかけて本堂や表門、大玄関の3棟を修復するとのこと。その修復事業を紹介する横断幕が、姫路駅前の大通りから船場本徳寺へ向かって伸びる西二階町商店街に掲げられたという内容。

というわけで、その横断幕を見て、船場本徳寺の現在の様子を全天球パノラマで撮影してきました。

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▲修復事業のため覆われている船場本徳寺の大玄関(撮影日:2019年7月27日)

船場本徳寺は私の家に近く、子どもの頃は境内でラジコンカーを走らせたり、大きなケージで飼われていたクジャクを見たり、放置されていた廃バスの周辺で遊んだり、私にとっては思い出深い場所。

最近は境内の幼稚園の位置が変わったり、新しい建物ができたり、どんどん綺麗になっています。しかし、本堂や大玄関は歴史を感じさせる傷み具合のままでした。

そこで、ついに2018年12月から本格的な修復事業が始まったというわけです。

本徳寺の寺務所で頂いたパンフレット「姫路市指定重要有形文化財・姫路船場別院本徳寺御修復事業 ご紹介・懇志金のお願いについて」によると、修復事業の詳細は以下の通りです。

>御修復
事業概要
大玄関 全解体修復 総費用:1億6700万円
表門 半解体修復及び築地塀全解体修復 総費用:1億2400万円
本堂 半解体修復、瓦の葺き替え、内陣工事、仏具新調・修復 総費用:14億3800万円
工期 2018年8月~2032年3月

修復事業を紹介する横断幕の設置場所

西二階町商店街の西端近く、城南公民館前に横断幕が掲げられています。

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▲西二階町商店街の西端(撮影日:2019年7月28日)

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▲横断幕の内容(西向き)(撮影日:2019年7月28日)

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▲横断幕の内容(東向き)(撮影日:2019年7月28日) 

https://goo.gl/maps/DtWWwRPfF2yg1Uqa7

▲横断幕の設置場所

ちなみに、西二階町という地名の由来は以下の通りです。

西二階町
「西二階町」は慶長5年(1601)の町割で誕生した町人町で、ここから東へ「中二階町」「東二階町」「古二階町」があった。
名前の由来は古二階町付近に高尾大格子という場所があり、はじめて二階屋が建てられたことに由来するという。昭和59年の区画整理で俵町や堅町の一部を吸収し、新たな町となった。
(出典:西二階町商店街東側に設置されている看板)

船場本徳寺について

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▲船場本徳寺本堂(撮影日:2019年7月27日)

船場本徳寺(地内町)真宗大谷派姫路船場別院本徳寺。本徳寺は、明応年間(1492~1501)に本願寺中興の祖である蓮如上人が英賀に道場を開いたことを開基とする。その後、播磨の浄土真宗布教の拠点となり、永正9年(1512)に本願寺留守職(門首)実如(蓮如の孫)の子実円が入寺し本格的な伽藍を建立した。天正10年(1582)、羽柴秀吉の命で亀山(現在の亀山本徳寺の地)に移築された。その後、本願寺の東西分派、本願寺派(西本願寺)への転派などの変遷を経て、元和3年(1617)、播磨における大谷派(東本願寺)の再興のため、姫路城主本多忠政より百間四方の土地(船場)と旧池田家菩提寺国清寺の建物を与えられ、翌年ここ地内町に船場本徳寺が建立された。
 寛文3年(1663)に東本願寺より「船場御坊」の称号を付与され、享保3年(1718)に現存する本堂が落成したと伝わる。
 境内には明治18年(1885)に明治天皇が山陽道巡幸中に休憩された「行在所」や第一次世界大戦時にドイツ人捕虜が故郷を偲んで造ったと伝わる城の彫刻がある。
平成26年9月 姫路市教育委員会
(出典:船場本徳寺 手水舎横の看板)

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▲表門(石灯籠は元禄9年のもの)(撮影日:2019年7月27日)

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▲行在所(撮影日:2019年7月27日)

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▲親鸞聖人像(撮影日:2019年7月27日)

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▲同朋会館(寺務所)(撮影日:2019年7月27日)

さて、手水舎横の看板に書かれている「第一次世界大戦時にドイツ人捕虜が故郷を偲んで造ったと伝わる城の彫刻がある。」という文章を読んで「?」となる方が多いと思います。

実は、第一次世界大戦中、日本軍は日英同盟に基づいて中国の青島にあったドイツ軍の要塞を攻略しました。その際に出た約4,600名のドイツ軍捕虜は、日本各地に12箇所つくられた収容所に送られたのですが、その内の一つが船場本徳寺だったのです。

収容されていた人数は、当時の公文書によると以下の通りです。

本徳寺
 収容人員: 准士官以下 160名
 使用畳数: 356
 借家料月額: 100円
 (出典:陸軍省受領 欧受第1965号 大正3年12月10日 十経管甲第85号)

ちなみに、本徳寺の約450m北にある景福寺も収容所になっていました(収容されていたのは150名)。

「城の彫刻」が気になる方もおられるかも知れませんが、それを見に行くための、本堂の北から本堂の裏へ続く通路は、工事用のフェンスでふさがれていました。

寺務所の方に伺ったところ、2019年8月現在、隣接する船場御坊幼稚園の園庭の工事を行っており、工事期間中は「城の彫刻」のある場所に行けないそうです。

船場本徳寺の位置

船場本徳寺に車で行く場合は、国道2号線(東行き一方通行)の「小姓町(こしょうまち)」交差点の30mほど東、道路の南側にある看板に従って駐車場へ入ることが出来ます。

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▲播州信用金庫の看板の手前に船場本徳寺への看板がある(撮影日:2019年7月27日)

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▲上の画像内にある、船場本徳寺へ案内する看板を大きく写した画像(撮影日:2019年7月27日) 

https://goo.gl/maps/htiMqCK1N9JCA4gU8

▲上の看板がある位置

船場本徳寺の全天球パノラマ

「表門前」「表門~本堂間」「本堂前」「鐘楼前」「駐車場」の5ヶ所でパノラマを撮影してみました。
画面左上のコンボボックスから、ご覧になりたいパノラマを選択して下さい。

それぞれのパノラマの内容は、以下の通りです。

  • 表門前
     表門のすぐ外で撮影したパノラマです。表門と本堂はまっすぐ揃っていないことが分かります。そのため、参道は門から本堂まで斜めに伸びています。
  • 表門~本堂間
     表門と本堂の間、参道の中間地点で撮影したパノラマです。南には親鸞上人像が立っています。
  • 本堂前
     本堂の近くで撮影したパノラマです。北を見ると、大玄関を修復するための仮設の建物が見えます。
  • 鐘楼前
     鐘楼と本堂の南面が見える場所で撮影したパノラマです。本堂の奥行きの広さをご覧下さい。
  • 駐車場
     修復中の大玄関の脇にある舗装された駐車場で撮影したパノラマです。

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/senba_gobou/virtualtour.html

▲船場本徳寺で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2019年7月27日)