概要
7年ほど前から愛用していた私のiPhone XSは2025年の秋、ついにiOSのアップグレード対象から外れてしまいました。
仕方ないのでiPhoneを買い替えることにしたのですが、iPhoneは12以降のProシリーズにLiDAR*1と呼ばれるレーザースキャナーが搭載されています。LiDARを使えば、物や地形、建物などを3Dスキャンできるのです。
というわけで、買い替えたiPhoneは2025年12月時点で最新のProシリーズであるiPhone 17 Pro。
何を3Dスキャンしようかと考えた結果、山歩きの際にいつも「写真だと分かりづらいので省略」している山城跡の複雑な地形を読み取ることを思いつきました。
3Dスキャンの練習対象として選んだのは、姫路市北部(姫路市と福崎町の境界付近)の恒屋(つねや)城跡。
標高は240m弱と低い山ですが、城の主郭(本丸)があった頂上部分は木々が伐採されているため展望が良く、畝状竪堀群や虎口跡など、3Dスキャンにピッタリな素材もあります。
恒屋城跡に登るのは、2020年9月20日以来およそ5年ぶり。

▲「北恒屋」交差点付近から見た恒屋城跡

▲恒屋城の縄張り(画像出典:登山口の看板)
恒屋城跡
城山山頂に位置し、南側の前城と北側の後城からなる中世の山城である。多数の郭群が築かれ、南西斜面の畝状空堀群、後城にある折のある横堀、土塁などの遺構が良好に残っている。十五世紀中頃に赤松氏の幕下恒屋氏が築き、天正年間に羽柴秀吉により落城したと伝えられるが、確たる資料に乏しい。恒屋川対岸の山麓一帯には、平地居館と目される遺構も見られる。
昭和五十二年姫路市(旧香寺町)指定史跡令和元年(二〇一九年)五月 姫路市教育委員会
(出典:登山口の看板)
上記説明文中の「恒屋川対岸の山麓一帯には、平地居館と目される遺構も見られる。」が示す遺構は、下図の中村構居跡と恒屋城関連遺跡のこと。

▲恒屋城跡およびその周辺の地形(50cmメッシュ)(出典:この図は、次の著作物を利用しています。 [兵庫県CS立体図]、[兵庫県])赤文字は当ブログ管理人が書き加えたもの)
兵庫県立考古博物館の遺跡地名表によると、「中村構居跡」は別称「ひめやしき」、「恒屋城関連遺跡」は別称「おやしき」だそうです。
ちなみに現在「中村構居跡」は耕作地、「恒屋城関連遺跡」は休養センター 香寺荘になっています。
本日の行程は、次の通りです。
- 恒屋城跡南端の登山者用駐車場に車を置く
- 一般登山道で主郭(山頂)へ
- 主郭跡(山頂)で昼食
- 往路を引き返して下山

▲対応する地形図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「前之庄」

▲カシミール3Dで作成したルートの断面図
姫路市街から駐車場へ
10:20
姫路市街の自宅を車で出発。
国道312号線を北上し、右折すると播但道の砥堀インターチェンジへ入る「砥堀北」交差点を直進します。
「砥堀北」交差点から北上することおよそ6.5km、「溝口」交差点を左折。
「溝口」交差点から西へ約3.4km、北恒屋公民館を通り過ぎたところにある小さな三叉路(「恒屋城→」の標識がある)を右折したら50mほどで丁字路に突き当たるので、それを左折して15m先の分岐(「恒屋城→」の標識がある)を右へ入ります。
1車線幅の細い道路を50~60mほど進んだところに、恒屋城の登山者用駐車場があります。
この日は帰省の車なのか姫路ナンバー以外の車が多く走っており、道路は渋滞気味で到着まで時間がかかってしまいました。
11:15
砂利の駐車場に到着(地図中「P」)。
車を止めるべき場所はロープで示されており、10台ほど止められます。
https://goo.gl/maps/MJNk5xN67dCrXt4M6
▲恒屋城跡登山口と駐車場の位置

▲恒屋城駐車場(簡易トイレもあります)
登山口から山頂へ
11:20
靴を履き替えたり、GPS受信機の衛星捕捉を待つといった準備が完了したので、出発。
駐車場の北にある防獣ゲートを開閉して登山道へ入ります。

▲登山口(防獣ゲートは掛け金2本と、扉下端にある棒を地面に差し込んで固定する方式)
大きな段差の擬木階段を登っていくと、すぐに自然林の中へ入りました。
所々に差し込む日の光のおかげで、自然林の中は神秘的な雰囲気。

▲擬木階段を登って自然林の中へ入る
間もなく路面は岩になりますが、階段状にステップが刻まれていて歩きやすくなっています。ただ、雨が降ると滑りやすそう。

▲岩に階段が刻まれた斜面を登る
今日は気温が低めなうえに(福崎町のアメダスで11時は6.7℃)木陰で涼しく、汗もかかず快適に歩けました。
11:28
二股の分岐に出会いました(地図中「前城・二郭分岐」)。
直進と右折に道が分かれていますが、直進の道は途中で山岳寺院跡のような平坦な場所を通って二の郭へ続いており、昔は地元の方々もよく歩いたそうですが、今は歩く人がおらず、落ち葉に埋もれています。

▲二股の分岐は右折する(直進はマニア向け)
道標は右を指しているので、それに従って右へ進路を変えました。
11:33
自然林の中から伐採地のような場所に出てきました(地図中「お堂」)。
前城(まえじろ)と呼ばれる場所で、恒屋伊賀守光氏を祀るお堂が建っています。

▲お堂が建つ三の郭
前城
恒屋城跡は、標高200mの前城と標高236mの後城からなり、前城は周囲に畝状竪堀群をめぐらせて守りを固めています。
姫路市教育委員会
(出典:三の郭に設置された看板)
このお堂の由来については、地元の橋本賢二氏によるお話として、次の文章が恒屋城の歴史をまとめた小冊子に掲載されています。
お堂の由来
お堂が建立されたのは、今年から数えて丁度60年前の終戦後間もない昭和23年のことです。建立のきっかけの理由となったのは「恒屋谷の幸せと繁栄を祈念して、この城山に恒屋の先祖とお不動さんをお祀りするように、との神のお告げがあり」と建立当時の書類に理由が書いてありました。そしてそのお告げにしたがって、中村、北恒屋、南恒屋と三村の住民の方がた170余名の寄進によって建立されたものです。
お堂には拝殿、内陣があり、内陣の中にもうひとつ小さなお社を作っている。そのお社には鏡があり、その鏡の裏に伊賀守と書いてある。内陣の前にお不動さんの掛け軸も掛けている。お社では真言宗のお経を上げている。そこは真言宗の信者で作る大師講が中心になってお祀りしている。
お堂のある所は、竪堀が2・3本あり、赤はげで、赤土がむき出しになっている。登る時などズルズル滑って、這わないと行けないほどであった。そこを開墾し立派な瓦葺のお堂を作ったが、山頂の風雨の激しいところでは瓦が吹き飛んでしまい、雨が吹き込み荒れ放題であったから、平成12年、3・4人の有志が金を出し合い、床や天井の野地板を張替え、屋根は瓦ではまた飛んでしまうのでトタンの方が目方が軽いし、入り口を付けられるし安上がりでもあるということで、今の状態に変わった。少しみずぼらしいが、それ以来ひっくり返りもせず持ち堪えている。
(出典:北恒屋自治会(恒屋城保存顕彰会)編「恒屋城 歴史をつなぐよもやまつづり」, 中寺校区地域夢プラン実行委員会, 2011.12)
山城跡としては三の郭(三の丸)の南端にあたる場所で、畝状竪堀(うねじょうたてぼり)が何本か南斜面に見られます。

▲お堂の前にある畝状竪堀群
写真では畝状竪堀群の形が分かりづらいため、iPhone 17 Proに搭載されているLiDARセンサーを使って3Dスキャンをしてみました。
注:スマホの小さな画面では、下の枠内での操作や閲覧が困難です。下のURLをタップし、3Dデータのページへ移動してから閲覧することをお勧めします。
<スマホでの操作方法>
上下左右のスワイプで視線を移動。
2本指でスワイプすると表示範囲を変更。
<パソコンでの操作方法>
左ドラッグで視線を移動。
右ドラッグで表示範囲を変更。
https://scaniverse.com/scan/3ms77kuypewwddzt
お堂の裏には三の郭(三の丸)の切岸(きりぎし。急斜面。)がそびえており、お堂と切岸の間には空堀もはっきりと残っています。
山城好きの方にはたまらないんじゃないでしょうか。

▲お堂の後ろに聳える三の郭の切岸
この切岸に付けられた道を伝って三の郭へ上がります。
道の途中には、城跡周辺や麓の畑や田んぼで見つかった五輪塔などの石像物が並べられています。

▲道沿いに並べられた石像遺品
道がどのように付けられているのかは、下の画像を参考にしてください。
今回私は往路と書かれた赤い矢印のルートで登り、下山時には復路と書かれた道を通りました。

▲前城全景(2020年9月20日ドローンで撮影)
三の郭の南端には当時の雰囲気を出すためか幟(のぼり)が並び立っていて、その付近にはうっすらと土塁の痕跡が残っています。

▲三の郭(幟が立つ南端付近には土塁の痕跡がある)
三の郭の北東から道の続きに入り、北を目指します。
11:40
三の郭の最高所を左に見ながら犬走りを北へ進むと、まっすぐで細長い道に出ます(地図中「土塁」)。
ここはかつてもっと高さのある土塁があった場所で、平時は土塁の上が通路として使われていたようです。

▲わずかに盛り上がった土塁の痕跡の上を歩く
数十メートルで土塁は終わり、道は左へ右へとクランク状に折れ曲がりますが、そのように複雑な形状になっているのは、土塁と二の郭を隔てる堀切(ほりきり)があるから。

▲土塁の道と二の郭を断ち切る堀切
木々が生えていて堀切の形状が見づらいですが、深さも幅もしっかりと残っています。
土塁から先は、後城(あとじろ)と呼ばれる区域です。
後城
恒屋城跡は、標高200mの前城と標高236mの後城からなります。後城の主郭は最高所に位置し、有事には司令塔のような役割を担ったと考えられます。
姫路市教育委員会
(出典:主郭に設置された看板)
この堀切を見てから北へ進む通路を見ると、山城好きが歓喜しそうな道になっています。
それは二の郭を右に見上げながら北へ進む区間で、通路と二の郭の間には深い横堀がしっかりと残っているのです。

▲二の郭の横を通る通路
二の郭の北端に虎口(こぐち。城内に設けられた門のこと。)があって、二の郭に入れるようになっていました。

▲広大な二の郭
二の郭の南端は単なる土塁とは思えないほど大きく盛り上がっており、往時はどんな構造をしていたのか気になるところです。
山城好きの方は、ぜひ城を攻める側の兵士の気分で通路を歩き、二の郭からは城を守る兵士の気分を味わってみて下さい。
二の郭からは、急斜面が続きます。
一カ所だけですが、トラロープが張られた斜面もありました。

▲トラロープが張られた急斜面
斜度がきつめで疲れますが、小さな曲輪群が階段状に並んでいる横を通ったり、郭に挟まれた通路を通ったり、山城が好きな方ならワクワクが止まらないような場所です。

▲階段状に並んだ削平地の横を通ったり…

▲…大きな郭を取り巻く腰曲輪を眺めながら登る
山頂
11:55
広くて見晴らしの良い主郭(本丸)跡に到着しました(地図中「主郭」)。

▲恒屋城の主郭跡(山頂)

▲恒屋城主郭跡(山頂)の全景(2020年9月20日ドローンで撮影)中央やや左に私が立っている。
https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/tsuneyajo/virtualtour.html
▲恒屋城の主郭跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2014年2月9日)
この主郭跡へ入るのに通った虎口がまたよく残っていてカッコいいんです。
こちらも3Dスキャンしてみました。
主郭跡に残る「盗掘跡」とされる窪みも再現されています。
注:スマホの小さな画面では、下の枠内での操作や閲覧が困難です。下のURLをタップし、3Dデータのページへ移動してから閲覧することをお勧めします。
<スマホでの操作方法>
上下左右のスワイプで視線を移動。
2本指でスワイプすると表示範囲を変更。
<パソコンでの操作方法>
左ドラッグで視線を移動。
右ドラッグで表示範囲を変更。
https://scaniverse.com/scan/4mkhyatnhy2kawa7
盗掘跡とされる窪みは、3Dスキャンしたデータをもとに測定すると直径約2.5m、深さ65cmほど。

▲3Dスキャンの点群データをもとに測定した盗掘跡の大きさ
この大展望の主郭跡で頂く本日の昼食は、マルタイの「長崎皿うどん」。

▲皿うどんを作るために用意した食材(左からマルタイの「長崎皿うどん」(1人前)、カット野菜、ベーコン)
ユニフレームの「ちびパン」で野菜とベーコンを炒めてあんかけを作り、WildoのCamper Plateに置いた麺の上にかければ出来上がり。
美味しいし、あんかけは寒い季節でも冷めにくいし、野菜がたっぷりとれて健康的。

▲完成した長崎皿うどん
山頂から北西には明神山、すぐ北には大倉山と七種薬師が見え、南を見ると周辺の山城跡が一望できます(春日山城、善防山城、太尾城跡)。

▲主郭から見た明神山

▲主郭から見た大倉山と七種薬師
下山
13:04
景色と食事を満喫したので、下山開始。
13:11
往路をそのまま引き返しましたが、土塁の南端で分岐を右(西)に入り、三の郭を左に見上げる犬走りを通ってお堂へ戻りました。

▲この分岐を右へ入った(往路は左から来た)
この犬走りの右下斜面にも畝状竪堀があるそうですが、植物が多すぎてよくわかりません。

▲三の郭の西を通ってお堂へ続く犬走り
13:15
お堂の前に戻ってきました。
ここで畝状竪堀群をLiDARでスキャンしました(3Dデータは「11:33」の項で掲載済み)。
13:28
地形のスキャンが終わったので下山を再開。
13:37
駐車場に到着。
交通アクセス
- 自家用車での来訪が一般的です。大きめの車をご利用で、登山者用駐車場への道が狭すぎて通れない場合は、北恒屋公民館の駐車場に車を置くという方法が考えられます。
- 公共交通機関を使われる場合は、JRの「溝口」駅が最寄り駅になります。
溝口駅から登山口までは、およそ3.1km。 - 路線バスは通っておらず、コミュニティバス(溝口お買い物便)が走っています。当ブログ記事投稿時点で、火曜と金曜(年末年始を除く)に1往復2便だけ運行しており、10:10にJR溝口駅前を発車する便が10:20に北恒屋公民館バス停に着くため、登山に使えると思います。それが最終便ですので、帰りは溝口駅まで歩かなければいけません。運賃は、大人一人¥200です。(コミュニティバスは廃止されることがあるため、利用を予定されている場合は必ず最新の情報をご自身でご確認ください。)
参考情報
- お手洗いは、恒屋城駐車場に設置された簡易トイレ(洋式・男女兼用)が利用できます。
- コンビニは、国道312号線の溝口交差点にセブンイレブン、その400m南にファミリーマート、さらにその400m南にローソンがあります。「溝口南」交差点から西へ入ると、マックスバリュがあります。
- 蕎麦好きな方は、登山後に登山口近くの「大寿庵」で蕎麦を楽しんでも良いかも知れません。十割蕎麦を頂けます。ただ、人によっては太い十割蕎麦が口に合わないかも知れません。行かれる場合は、予約しておく方が良いと思います。営業時間は11:00~14:30と短く、火曜・水曜・年末年始は休みです。
- 11:28に通過した二股の分岐を直進する古い道は、2018年2月に歩いたことがあります。どこからどのようにつながっているかについては、次のリンク先の記事をご覧ください。
- 恒屋城の詳しい情報については、兵庫県教育委員会 編「兵庫県の中世城館・荘園遺跡 : 兵庫県中世城館・荘園遺跡緊急調査報告」に次の通り記載されています。
恒屋城
【城史】恒屋城の築城について『播磨鑑』は「恒屋肥後守(伊賀守)光氏が長禄2戊寅年(1458)之を築く」とある。光氏は、北垣聡一郎氏の引用した『恒屋の里』『播磨古城記』によると城主恒屋刑部少輔光稿の長子となっており、光稿がすでに城主と書かれているところからその築城年代はさらにさかのぼることが考えられる。『日本城郭大系』には『赤松秘士録』を引用して光(満)氏が嘉吉の変に赤松満祐に呼応して書写坂本城に参集したことをあげている。嘉吉の変は1441年であるから、それ以前にすでに城主として存在していたことが推測される。恒屋氏の名が文献にあらわれるのは永享元年(1429)とされているが、この頃すでに恒屋城主として居城していたのではなかろうか。しかし、『日本城郭大系』の筆者は光氏の没年が慶長5年(1603)とあるところから坂本城に参集したのは光氏では年代は一致しないとして、父光稿の間違いであろうとしている。
恒屋氏家系によると、恒屋伊賀守光氏は大坪対馬守義勝の実子(2男)となっている。義勝の2男光氏が恒屋光稿の養子となったとするのは北垣氏の説である。 光氏のあとは光成、光誉と続いたが、永正18年(1521)浦上村宗がここに本営を構えて同族赤松氏や山名氏と争うという事が起り、大永(1521~27)の頃に至って恒屋の家臣中にも赤松に属するもの、浦上に味方するものができて混乱を来し恒屋氏の勢力も不振の状態にあった。 天正2年(1574)5月5日光成ら恒屋一族は置塩城に赤松義祐(『播磨鑑』には則房)を攻めたが、白国構主白国治大夫宗把に阻まれて討死した。しかしその後も恒屋の一族は恒屋城を居城としていたらしく、天正年間の羽柴秀吉の播磨攻略の際恒屋氏はこの城に籠って戦ったが遂に落城したといわれている。(出典:兵庫県教育委員会 編『兵庫県の中世城館・荘園遺跡 : 兵庫県中世城館・荘園遺跡緊急調査報告』,兵庫県教育委員会,1982.3)
*1:「Light Detection And Ranging」の頭文字をとったもので、「ライダー」と読みます。レーダー(RADAR)が電波(Radio)を使って測距をするのに対し、レーザー光(光線=Light)を使って測距をする装置。