大河ドラマ「麒麟がくる(2020年)」で名前だけが登場した八上城(やかみじょう)。
当時気になって調べると、登山道がしっかり整備されていて山頂からの展望もよさそうだとわかり「いずれ登ってみよう」と考えていたのですが、その後すっかり八上城のことを忘れていました。
昨日Googleマップを見ていてたまたま八上城跡を見つけ、「登りたい欲」がよみがえったので本日出かけてきました。
▲ドローンで撮影した八上城跡(石柱が立つのが本丸で、その左は岡田丸。本丸の右下は二の丸。)
国史跡八上城跡 指定年月日 平成十七年三月二日
八上城跡は、戦国時代に多紀郡(現篠山市)を支配した波多野氏の五代にわたる居城である。初代清秀は、応仁の乱(一四六七~七七)の戦功によって、室町幕府菅領細川政元から多紀郡を与えられ八上へ入る。
その後、波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、大永七(一五二七)年に菅領細川高国を放逐、天文七(一五三八)年に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間(一五五八~六九)には三好長慶や松永久秀と戦いを繰り広げる。
波多野氏は、まず奥谷城(蕪丸)を、続いて本城の八上城、さらに殿町にあった城下町を守るため支城の法光寺城を築き、一帯を一大要塞化し、大規模な戦乱に対応した城造りを進める。
天下布武を目指す織田信長が上洛すると、五代の秀治はそれに従わず、信長が派遣した明智光秀の攻勢を受ける。光秀は八上城の周囲に付城を巡らし、八上城を徹底包囲する。天正七(一五七九)年六月、一年にわたる籠城戦の末八上城は落城し、秀治ら兄弟三人は安土城下に移され落命する。
落城後の八上城は、前田茂勝ら豊臣氏に縁する大名の城として使われる。しかし、関ヶ原の戦い(一六〇〇)によって、徳川家康が天下を押さえると、豊臣秀頼の拠る大阪城を包囲するため、慶長十三(一六〇八)年に、江戸幕府から篠山城築城の命令が出され、八上城は百年余りにわたる歴史を終える。篠山市教育委員会(出典:本丸跡の看板)
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「篠山」「福住」
▲カシミール3Dで作成したルートの断面図
09:05
姫路市街の自宅を車で出発。
国道372号線を北上し、砥堀ICから播但道に乗ります。
福崎ICから中国道(大阪方面)に入り、吉川(よかわ)JCTで舞鶴若狭道(三田西・舞鶴方面)へ。
丹南篠山ICで舞鶴若狭道を下りたら、突き当たりの「丹南篠山口IC前」交差点を左折。
道なりに5kmほど東へ走って「糯ケ坪(もちがつぼ)」交差点に突き当たったら、これを右折。
1.5kmほど道なりに走り、奥谷川を渡ってすぐの小さな交差点(バス停の標柱が立っている)を右折します。
バス停のあった角を右折しておよそ200mのところ(道の左側)に高城山前駐車場*1があるので、そこに車を止めました。
https://goo.gl/maps/sbZVwvFQLQMh15kH7
▲高城山前駐車場の位置
10:45
駐車場に到着(地図中「P」)。
20台以上が駐車できる大きさがあります。
▲高城山前駐車場の様子
10:51
準備が整ったので出発。
駐車場の向かい側に登山コースの案内図が立っているので、写真に撮っておくことをお勧めします。
今回は山歩きの最中、この案内図の写真に助けられることになりました。
▲高城山登山コース案内図
何枚も立っている看板とレトロな古美術店「国宝堂」の間の道を南へ入ると、高城市松稲荷神社の鳥居が見えます。
今回登りに利用する登山道の起点は、この神社です。
▲国宝堂(このお店の東側(画像では手前)の道を南(画像では左)へ入る)
▲高城市松稲荷神社の鳥居(右奥はお手洗い。水洗式の男性用小便器と男女共用の和式便器があります。)
10:54~10:59
鳥居をくぐると参道は左へ直角に曲がります。
曲がると社殿が正面に見え、社殿の手前で右に分岐する道があります。
右へ分かれる道が登山道ですが、まずは神社にお参り(地図中「高城市松稲荷神社」)。
▲高城市松稲荷神社は土塀も拝殿も歴史を感じられる雰囲気
▲高城市松稲荷神社の本殿(?)
お参りを済ませたら、鳥居をくぐった後に出合った右へ分岐する道(登山道)へ入ります。
道標によると、山頂までは1kmで所要時間は約45分。
▲登山道入口
11:00
登山道に入ってすぐ出会うのは、広い削平地です。
看板によると「主膳屋敷跡」とのこと(地図中「主膳屋敷跡」)。
かつてはここに立派な館が建っていたのかな。
▲主膳屋敷跡
落城後、時の支配勢力の城主が交代していくが、その政治の中心となる館跡。
(出典:現地の看板)
看板に突き当たって右へ進むと「前田主膳正供養塔」に出会い、そのすぐ先で擬木階段の道が始まりました。
道の斜度は緩いのですが、擬木階段があるせいで自分の歩幅で歩けず疲れます。
▲擬木の階段道が始まる
ここからは基本的にず~~っと擬木の階段道。
山頂までの距離は短いし、同じような写真ばかりになるので、これ以降道の様子を写した写真は省略します。
11:08
「伝 鴻の巣」と書かれた看板の立つ小さな削平地がありました(地図中「伝鴻の巣」)。
▲伝 鴻の巣
西からの敵に備えた番所
頂上まで約750m 約30分
(出典:現地の看板)
11:12
「伝 下の茶屋丸」の看板が立つ削平地に出合いました(地図中「伝下の茶屋丸」)。
展望が少ない登山道の中では、丹波篠山市街を眺められる貴重な展望所です。
先ほどの「伝 鴻の巣」もこの「伝 下の茶屋丸」も、尾根の傾斜が緩む場所(尾根の肩)に作られています。このような場所は、急斜面を登って来る攻め手を平坦地から見下ろしながら攻撃できるため、防御陣地を作るのに適しているのでしょうね。
▲伝 下の茶屋丸
西からの敵に備えた陣地
頂上まで約700m 約28分
(出典:現地の看板)
11:15
「伝 中の壇」と書かれた場所に来ました(地図中「伝中の壇」)。
この辺りは「壇」と名が付く通り平らになっているため、歩きづらい擬木階段がなくて快適。
▲伝 中の壇
伝 中の壇の先でまた擬木階段が出てくるのですが、擬木2本分の高さに擬木1本分の高さの土の土台があって、1段で擬木3段分の高さがある場所もあります。
当初はもっと段差が低かったけれど、雨で土が流されてこうなったのかも知れませんが、登るときは疲れるし、下りでは膝を痛めそう。
▲段差が高すぎる擬木階段
11:20
また尾根の肩に削平地がありました(地図中「伝上の茶屋丸」)。
看板によると「頂上まで約650m 約26分」だそうです。
斜面に付けられた擬木階段は段差が大きかったりして歩きづらいのですが、平坦な路面に埋め込まれた擬木は躓いたり滑ったりして厄介ですね。
そもそも、なぜ平らな路面に擬木があるのか意味が分かりません。
▲平らな道に埋め込まれた擬木
11:32
登山道に入ってからおよそ30分、ほぼ全区間が擬木階段になっているおかげですっかりヘロヘロになった頃、石垣が視界に飛び込んできました。一気に興奮し、疲れが吹き飛びます(地図中「右衛門丸跡」)。
この場所は「右衛門丸跡」。
看板に書かれている「蕪丸」は、ここから見て南西の尾根先端付近にある蕪丸城跡(別名:奥山城跡)のことかな。
▲右衛門丸跡の看板と石垣
▲右衛門丸跡
城主の屋敷跡。西方を防備し、蕪丸にも通じ、全山の連絡や指揮にあたる所。
(出典:現地の看板)
右衛門丸跡の看板の背後にあった石垣の上は三の丸跡です。
▲三の丸跡(草藪になっている)
石垣を持つ広場に建物があり、南方谷間に対する重要防備陣地かと思われる。
(出典:現地の看板)
三の丸跡の上は、二の丸跡。
▲二の丸跡
門の礎石と屋敷の瓦の断片等より、最も重要な任務を担当した場所と思われる。
(出典:現地の看板)
二の丸跡には西向きの展望図が置かれていて、当時周辺にどのような城や砦があったのか分かるようになっていました。
▲二の丸跡に設置されている展望図
二の丸の東、大きな石碑が建つ場所が本丸跡です。
▲二の丸跡から見た本丸跡
本丸の周囲を囲むように削平地があるので、本丸跡に上がる前にそれを見ることにしました。
本丸の北側にある削平地は、岡田丸跡。
▲岡田丸跡(左奥は三嶽。「岡田丸跡」の看板の左上に見えるのは小金ケ嶽。)
重心岡田某の館跡。眺望よく、東・北方に対する防備に当たった所と伝えられる。
(出典:現地の看板)
岡田丸跡からは、本丸跡を支える石垣を見ることができました。
▲岡田丸跡から見た本丸の石垣
11:40
本丸跡に到着。
大きな石柱や石碑が立ち、ベンチが置かれています。
▲ドローンで撮影した本丸跡全景
本丸跡
望楼と軍兵の集合する場所からなり、四囲の城、砦を指揮号令する所と思われる。
(出典:現地の看板)
ひときわ目立つ石柱は、丹波新聞のWebサイトに2019年12月12日付で掲載されている記事によると、住民の寄付で昭和6年に完成したという「贈従三位波多野秀治公表忠碑」。
当時の人々は、4トンもあるこの石碑を人力で1週間かけて引きずり上げたそうです。
▲贈従三位波多野秀治公表忠碑
城跡からは西と北の眺めがよく、西北西およそ3.5kmにある篠山城の石垣も肉眼で見えます。
▲城跡から見た篠山城(中央)
八上城跡の全景と、城跡の立地が分かるようにドローンで全天球パノラマを空撮してみました。
本丸の右下の二の丸跡に私が立っており、そこから階段道で一段下ったところにある切り株と丸太が転がる場所が三の丸。さらにその一段下が右衛門丸跡です。
https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/yakamijo20230311/index.html
▲八上城跡上空で撮影した全天球パノラマ(ドローンで撮影)
この好展望の場所でいただく本日の昼食は、アメリカ軍の戦闘糧食「MRE」のメニュー番号23「Pizaa Slice, Pepperoni」です。
戦闘糧食にもピザがあるなんて、さすがアメリカ軍。
▲MRE(メニュー番号23)のパッケージ
長期保存がきく材料、製法で効率的に大量生産できないといけないため、チーズは溶けていませんし(焦げ目があるので焼いてあることは分かる)四角くて変な形ですが、ピザらしい食感と味はしっかり再現されています。
味がすごく濃いので、これはビールが欲しい(車で来ているので、ビールがあっても飲めませんが)。
▲戦闘糧食「MRE」のピザ
MREに入っていたピザとクラッカー、ブルーベリーを食べたらおなか一杯です。
私が食事をしている間だけでも、何組ものハイカーさんが入れ替わり立ち代わり来られていました。手軽に登れるためか軽装の方が多く、山頂の滞在時間も皆さん短め。
そうそう、八上城跡のある高城山には三角点はありませんが、篠山市(設置当時)が設置した図根点(3級基準点)なら本丸跡に埋設されています。
三角点は単なる測量の基準点(山頂を示す標石だと誤解している人がいらっしゃいますが、そうではありません)ですから、測量に都合がよい場所に、最低限の数だけ設置されます。
高城山は、三角点を設置するのに不適だったか、そもそも設置する必要がなかったのでしょう。
▲本丸跡の図根点
13:05
のんびりと幸せなひと時を過ごしていましたが、日差しと暑さがつらくなってきた(気温24℃)ので下山開始。
当初は駐車場の600m東に下りてくる「藤木坂コース」で下山するつもりでしたが、藤木坂コースに大雨の影響で危険個所ができている旨の掲示が本丸跡にあったため、藤木坂コースを歩くのは中止。
あまり長い距離を歩きたくない私にとっての選択肢は、「もと来た道を下る」「弓月神社へ通じる蔵屋敷コースで下る」という2つだけです。
もと来た道を引き返すのは面白くありませんし、段差の大きな擬木階段を下ると膝を痛めそう。
というわけで、藤木坂コースよりも少し東の弓月神社へ降りる「蔵屋敷コース」を歩くことにしました。
なぜ下山地点やコース名が分かるのかというと、登山口で登山コースの案内図をデジカメで撮影し、それを拡大表示しながらスマホの地図と照らし合わせて下山ルートを考えたからです。
なお、登りに使用したコースは案内図によると「右衛門コース」とのこと。
「蔵屋敷コース」で下るには、山頂東側に立つ「朝路池・野々垣市の谷コース」の道標に従います。
▲「朝路池・野々垣市の谷コース」の道標に従って下山
13:08
下りはじめこそ擬木階段でしたが、すぐに終わってなだらかな道になりました。
そこは道の左側(北側)に土塁の跡のような盛り上がりがあります。
▲左に土塁跡のようなものがある平坦な道
間もなく右側に看板が現れましたが、それによるとこの付近は「伝 蔵屋敷」のようです。
その後「伝 池東番所(水場を守るための陣地)*2」を過ぎて擬木階段を下ると、「藤ノ木坂コース*3」と「野々垣コース」の分岐に出合いました。
この分岐は、登山口にあった登山コース案内図で「池東上番所」と書かれた場所にある分岐と思われます。
藤ノ木坂コース方面へ進むと、登山道は途中で藤木坂コースと蔵屋敷コース(弓月神社方面)に分かれます。
▲藤ノ木坂(藤木坂)コースと野々垣コースの分岐に立つ道標(貼られているのは、藤木坂コースに危険個所がある旨の掲示物。)
駐車場を出たところや本丸跡にあった縄張り図では「伝 蔵屋敷」のすぐ先に「大竪堀」があることになっており、それを見たかったので野々垣コースに入って少し下ってみました。
13:11
大竪堀は、分岐のすぐ下にありました(地図中「大竪堀」)。
稜線上では堀切ですが、左右に伸びた部分が竪堀になるのかな*4。
▲大竪堀
藤ノ木坂(藤木坂)コースと野々垣コースの分岐に戻り、道標で「藤ノ木坂コース」と書かれている方の道に入りました。
こちらの道はなだらかで歩きやすい。
擬木階段もありますが、一段一段が低くて快適です。
▲分岐から藤木コースに入ってすぐの道の様子
13:17
「はりつけ松跡」と書かれた看板の立つ場所に出合いました(地図中「はりつけ松跡」)。
▲はりつけ松跡
落城の際、光秀の母、付人腰元等人質の処刑に使った松の跡と伝えられる。
(出典:現地の看板)
Wikipediaの八上城の記事によると、はりつけは史実ではないことが明らかだそうです。
ここから388m標高点までは、上のはりつけ松跡の画像に写っているような平坦な道が続きます。
それもそのはずで、この辺りは現地の看板によると「伝 馬駈場」。
13:24
388m標高点に到着(地図中「芥丸跡」)。
ここには「芥丸跡」の看板が立っており、表面が磨滅して全く詳細が分からない小さな石仏が置かれていました。
▲芥丸跡の石仏(右の石造物の左側にちょこんと置かれている)
芥川某の砦跡。眺望よく、東・東北方面・山麓の街道等の防備に当たった所。
(出典:現地の看板)
13:26
388m標高点から下るとすぐ、十字路がありました(地図中「藤木坂・弓月神社分岐」)。
道標によると、左は藤木坂で右が弓月神社(今回の目的地)。
正面の道の行き先は不明です(登山コース案内図にあった「西蔵丸」への道かな)。
▲藤木坂と弓月神社への道の分岐(藤木坂は危険個所があるため、今回は弓月神社を目指して右へ進んだ)
弓月神社への道は擬木階段がなく、気持ちよく歩けます。
往路で擬木階段だらけの道を歩いたおかげで、こういった普通の山道がどれだけ気持ち良い道なのか、改めて思い知ることができました。
▲弓月神社へ続く道の様子
気分よく歩いていると、丁字路に突き当たりました。
道標は立っていませんが、駐車場前で撮影した登山コースの案内図から判断すると弓月神社は左で、右に行くと金剛寺に下ります。
▲弓月神社と金剛寺の分岐(左へ下った)
それまで尾根の中心付近を通っていた道は、標高240m付近で突然左へ折れ曲がりました。こうなると、弓月神社はもうすぐです。
▲弓月神社が見えた
13:43
弓月神社の境内へ入るには、防獣ゲートを開けないといけません。
掛け金の一つがトタンの陰になっているので、網目から手を突っ込んで掛け金を操作してください。
▲神社側から見た掛け金(トタンが張られているため、登山道側からは操作しづらい)
登山口がある高城市松稲荷神社もそうでしたが、弓月神社もいい雰囲気です。
無事に下山できたことのお礼をかねてお参りし、駐車場へ。
▲弓月神社
▲風情のある八上の集落内を歩いて駐車場へ戻った
▲道沿いにある一里塚(地図中「一里塚」)
14:03
古い家が多く立ち並ぶ風景を見ながら道路を西へ歩き、駐車場へ戻ってきました。
15:35
自宅に到着。
交通アクセス
自家用車で来るのが一般的です。
鉄道利用の場合はJRの篠山口駅が最寄りで、駅から今回紹介した登山口までの距離はおよそ7km。
駅からはタクシー、またはレンタサイクルをご利用ください。
関連情報
お手洗いは、今回の登山口である「高城市松稲荷神社」の鳥居をくぐってすぐの場所にあります。
飲料の自動販売機は駐車場近くにはありません。
丹南篠山口ICから登山口の間にコンビニエンスストアが何件かあるので、それらを利用してください。
神社のお手洗いは和式です。
洋式の方がよい場合は、コンビニで買い物をするついでにお手洗いを借りるとよいかも知れません。