播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

増位山に大歳神社から登る

警告
この記事で紹介しているルートには、一部道が分かりにくいところがあります。
初心者の方や、山歩きの経験者であっても、整備された山しか歩かない方の挑戦は避けてください。

姫路市街地の北部にある広峰(ひろみね)山塊。

その東端には、姫路出身とされる力士(後に歌手に転向した)増位山太志郎さんの名前の由来となった「増位山(ますいやま)」があります。

1/25000の地形図でその増位山を探し、山頂から南へ延びる破線道をたどると、そのまま尾根の南端に延びる破線道と、山頂と尾根の南端の中間付近から南東へ分岐する破線道(山陽自動車道の増位山トンネル東端付近の大歳神社に下りる)に分かれます。

これらの破線道に興味が沸いて、尾根の南端へ延びる道は2007年に歩いたことがありますが、完全な廃道でした。
今は、尾根の途中から西へ下るルート(地形図に記載なし)がハイキングコースとして設定されています。

もう一方の大歳神社に続く破線道のことはずいぶん長い間忘れていたのですが、なぜかこの道が突然気になり、増位山に出かけてきました。

麓には車を置けるところがないので、山の上にある随願寺駐車場に車を止め、昔の参道を通っていったん下山。

そこから県道518号線を歩いて大歳神社へ向かい、神社から地形図の破線道を登って増位山山頂を目指し、山上の駐車場へ戻るというルートです。

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▲対応する地形図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「姫路北部」(途中で道を探すために山中をさまよい歩いています。さまよった区間は、緑色のGPS軌跡で示しています。)

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▲カシミール3Dで作成したルートの断面図

09:20
姫路市街の自宅を車で出発。

県道518号線(野里街道)を北上し、「白国」交差点を右折。

およそ700m東に進んだところにある「随願寺入口(ずいがんじいりぐち)」交差点を左折します。

240mほど北西に進むと「増位山随願寺→1.8km」と書かれた標識のある交差点に出会うので、標識に従って右折。ここから曲がりくねった坂道を登ります。

山の上に続く道路というと、1車線幅で見通しの悪い道路をイメージしますが、ここの道路は中央線があって太く、見通しのよい道路です。
昔、この山の上に播磨空港を建設する計画があったので、幻に終わった播磨空港へのアクセス用として整備されたのかも。

標識に書かれていたとおり、1.8kmほど坂道を登ったところで随願寺の駐車場に到達します。

09:40
随願寺の駐車場に到着(地図中「P」)。
清潔とは言えませんが、一応トイレがあります。

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▲随願寺の駐車場


https://goo.gl/maps/BDVvPFNRLPNPc5jx5
▲随願寺の駐車場の位置

09:50
準備が整ったので出発。

駐車場東端のトイレ横の階段を上り、随願寺へ続く未舗装の道を進みます。

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▲駐車場東端のトイレ脇の階段から未舗装の道へ入る

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▲未舗装の道を進む

随願寺の境内に入って最初に出会うのは、開山堂(地図中「開山堂」)。

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▲開山堂

開山堂 附厨子一基
国指定重要文化財・平成21年6月30日指定

 開山堂は、正面三間、側面三間、背面半間通り下屋付の方三間のお堂である。平面では仏壇の前を広げるために四天柱の位置を側柱通りより後方へちょうど間半分をずらしている。
 平成9年度から行なわれた解体修理の際に、承応3年(1654)の墨書と「寛永18年(1641)2月吉日」の墨書が発見された。随願寺に現存する建造物の中でも最古の建築である。

平成21年7月 姫路市教育委員会

(出典:現地の看板)

開山堂に続いて、鮮やかな唐門のある墓所が目に飛び込んできます。
そこは榊原忠次の墓所(地図中「榊原忠次の墓所」)。

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▲榊原忠次の墓所

榊原忠次墓所唐門
 国指定重要文化財・平成21年6月30日指定
 形状 正面1間、側面1間、向唐門、本瓦葺き

 榊原家は、徳川家の譜代大名の中の名門で四天王の一つに数えられた。なかでも忠次(1605~1665)は、文武両道に優れた人格者で、姫路城主としての17年間にも随願寺の再建をはじめ数々の治績をあげて名君とされた。
 唐門は本堂の西側にある市指定史跡・榊原忠次墓所の正門であり、瓦銘から享保16年(1731)の建立である。
 おおらかな構の建築であるが、細部も丁寧に造られ、唐破風を正面に向けたいわゆる向唐門である。垂木鼻、拳鼻、桟唐戸、柱等随所に錺金具の痕跡が残っており、きらびやかな建物であったことが想像できる。
 碑文は朱子学者の林怒(鷲峰)の撰によるもので、長文で名高い。
 榊原家の系譜をたどり忠次の生い立ちから館林(群馬県)・白河(福島県)の藩主を経て慶安2年(1649)、姫路城主となるまでの経緯、存命中の業績など彼の一代記が約3000の字に刻まれている。
 この碑文を一字の誤りもなく読むと、碑石の「カメ」が動くという伝説がある。

平成21年7月 姫路市教育委員会

(出典:現地の看板)

その先にあるのが、随願寺の本堂です。

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▲随願寺の本堂

増位山 随願寺
 播磨天台六山の一つ。史料では増井寺とも記される。寺伝によると高麗僧慧便が開基し、天平年間(729~749)に行基が中興したという。もとは法相宗であったが、天長10年(833)に仁明天皇の勅命で天台宗に転じた。平安時代には諸堂が整備され、山上には36坊もある大寺であったという。天正元年(1573)、別所長治に攻められ全山を焼失。同13年に羽柴秀吉が再興した。江戸時代、姫路藩主榊原忠次が当寺を菩提寺とし、再建・整備に尽力した。

増位中学校区夢プラン実行委員会

(出典:本堂前の看板)

本堂に手を合わせてから、本堂の南にある鐘楼脇の石段を下りました。
鐘楼の西から始まる石段は、少し下ってから左へ折れ曲がり、南北方向の長い石段に合流するようになっています。

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▲鐘楼(矢印の方向に石段がある)

石段を下りたところにあるのは、放生池(地図中「放生池」)。

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▲南から見た放生池(ほうしょういけ)

放生池の南端から昔の参道(地形図の破線道)が南へ延びているので、それを下ります。

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▲放生池の南から始まる旧参道

古い参道は、下り始めだけぬかるんだりガレたりしていました。

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▲ガレている場所の様子

10:03
小さなお社の前を通過(地図中「一品大明神」)。

10:06
もうすぐ車道を横切るというところで、「姫路城石垣の石切丁場跡」と題した看板に出会いました(地図中「石切場跡」)。
こんなところで石を切り出しても、姫路城まで運ぶのは大変だったろうなぁ。

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▲石切場跡の看板が立つ場所の様子

姫路城石垣の石切丁場跡(随願寺参道)
 姫路城が本格的な石垣の城として築かれたのは、天正八年(1580)に播磨を平定した羽柴秀吉の時代。石垣は、自然石を用いる「野面(のづら)積み」であった。その後、関ヶ原の戦い後に入封した池田輝政が慶長6年(1601)から大改修し、さらに元和三年(1617)に入封した本多忠政が西の丸の改修などを行った。池田氏以降の石垣は、「打ち込みハギ」と呼ばれ、粗割りされた加工石を用い、石材には、楔を打ち込む長方形の「矢穴」の痕跡を残す場合も多い。
 増位山の尾根筋、谷筋、沢筋には、矢穴痕が多く残されており、中には姫路城内とよく似た円形の刻印が残されたものもある。
 近年の研究により、姫路城石垣の石材は、市内七箇所から供給されたことがわかってきた。この一帯は、石垣石材を切り出した石切丁場跡の一つであると考えられる。

平成三十一年(2019)三月 姫路市教育委員会

(出典:現地の看板)

車道のヘアピンカーブの頂点で道路を渡ったところに徒歩道の続きがあるのですが、旧参道かと思いきや、どう見ても新しい遊歩道です。

車道の建設工事で旧参道が破壊された区間は、新しく遊歩道を付けたのかな。

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▲車道を渡ってからは新しい遊歩道

車道の高架下をくぐってしばらくの間は、古そうな石段が残されていました。

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▲古そうな石段が残っていた

やがて道はアスファルト舗装になり、東尾根コースの登山口前を通り過ぎると、住宅街と山の間を歩くようになります。

10:25
「随願寺念仏堂」と書かれた看板を見つけました(地図中「念仏堂」)。
せっかくなので、石段を上がって念仏堂でも手を合わせました。

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▲随願寺念仏堂

随願寺念仏堂

随願寺念仏堂は常行三昧道として建てられたものと思われる。応徳二年(1085)白河天皇の中宮賢子の菩提のため常行堂を二階五間の堂に改め造くられたと増位山集記に記載されている。
 現在の建物は棟札により江戸時代文化六年(1809)大工棟梁池内忠兵衛により完成したものである。本尊は弥陀三尊である。周りには姫路藩士の墓や榊原藩士の墓がある。太子谷には風羅堂跡があり、芭蕉につながる誹諧の地である。姫路城主酒井忠恭の千山を思い、 はせを葉や 風にやれても 名は幾世と詠じた歌碑ある。

増位中学校区夢プラン実行委員会

(出典:現地の看板 原文まま)

10:27
城北支線5番鉄塔下を通過(地図中「城北支線5番鉄塔」)。
さらに道を下っていきます。

途中で享保12年(1727年)建立の増位地蔵にも手を合わせ、「随願寺入口」交差点へ向かいました。

交差点の少し手前に城北支線の鉄塔を見るためと思われる送電線巡視路(地図中「城北支線巡視路」)の入口があるのですが、そこから男性ハイカーが出てこられました。
「ここから増位山に行けますか?」と尋ねると、「昔は道があったみたいだけど、今は荒れている」とのお答え。

以前に私が歩いたときと状況は変わっていなさそうですが、せっかくなので少しだけ巡視路に入って様子を見てみました。やっぱりただの巡視路で、破線道につながっている様子はなさそうです。

道路に戻って「随願寺入口」交差点を左に曲がり、県道518号線沿いに東へ。

10:45
破線道が始まる大歳神社の鳥居前に到着。
暑くなってきたので、ここで上着を脱ぐことにしました。

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▲県道518号線沿いの大歳神社入口


https://goo.gl/maps/FZcnA5QKpqrp8mJv7
▲大歳神社入口の位置

10:49
石段を上がり、まずは大歳神社の拝殿で手を合わせます(地図中「大歳神社」)。

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▲大歳神社

問題はどこから破線道が始まっているかということです。
どこにもそれらしい道標はありませんし、巡視路標識も見当たりません。

大歳神社の社殿の西に小さなお堂があるのでそちらへ向かうと、お堂の前で巡視路標識を発見。

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▲お堂の前にあった巡視路標識(これに騙されて藪こぎをするハメになった)

しかし、山の斜面は写真では右端。左は谷です。

このお堂の裏に巡視路らしき道は見当たらず、下に道があったのでそれが巡視路かなと思って進みましたが、行き止まり。谷には砂防堰堤がいくつかあるので、その工事用の道の跡かも知れません。

仕方がないのでお堂の前に戻り、巡視路標識の向かい側の斜面から尾根に取り付きました。
が、薄い雑木藪で道らしきものは見当たりません。

「適当に登っていれば破線道に出会うかな」と期待しながら雑木藪を進むと、期待通り山道に出ました。
この山道(破線道)の入口を確かめるべく、下ってみることに。

下っていくと道の形ははっきりしなくなり、中国自動車道増位山トンネルの入口*1の真上に行ってしまいましたが、方角を確認して神社の方へ進むと、大歳神社の拝殿の右側に出てきました。

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▲大歳神社の拝殿に向かって右から登山道は始まっている

道探しで30分も無駄にしてしまいましたが、正しい入口が分からず、モヤモヤした気分のまま山を歩くよりはマシです。

地図内のGPS軌跡の内、緑色の部分が彷徨っていた区間です。

大歳神社から入山してしばらくは、道の形が曖昧です。
しかし、最小限のマーキングテープが付いているので、それを頼りに進めば登山道に入れます。

このマーキングテープは目立たず控えめで、数も最小限。
山歩きの上級者が付けてくれたマーキングかな。

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▲頼りになるマーキングテープ

この道は落ち葉が多く、斜度がきついので登るのが大変です。
入口を調べるために下ったときも、滑って苦労しました。

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▲道の様子(落ち葉が多く滑りやすい急斜面)

11:33
姫路支線21番鉄塔の下に到着(地図中「姫路支線21番鉄塔」)。

送電線からか、あるいは周囲を飛び回っているクマバチか分かりませんが、「ブーン」という音を聞きながら鉄塔下を通過。

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▲姫路支線21番鉄塔の下を進む

鉄塔周辺は開けていますが、道の続きはまた林の中。
その林の入口がトンネルのようで、別世界へ入っていくような感覚になります。

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▲道の続きへの入口

自然林の中の道はあまり歩く人がいないようですが、はっきりしています。
当初は尾根の中心を通っていた道は、やがて左(南)へずれていきました。

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▲道は主尾根が近づくと尾根の中心から左へずれる

11:46
東尾根ハイキングコースに合流しました(地図中「縦走路合流」)。
道標はありません。

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▲東尾根コースに合流した

「お腹が空いた~。増位山山頂まで我慢できな~い。とりあえず、景色の良い場所に出会ったらそこで食事にしよう!」と考えて歩き出すと、すぐに「展望の良い場所」に出会いました。

11:47
ベンチがあり、南向きの展望が良い場所に到着(地図中「展望所(昼食)」)。
ここで食事にします。

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▲展望所の様子

本日の昼食は、パックご飯と塩鯖、卵焼き、インスタントのみそ汁。
塩鯖と卵焼きは、自宅で真空パックしたものをパックご飯と一緒に湯煎で温めたものです。

普段はヘリノックスのイスに座り、小型のテーブルに食べ物を置いて食事を楽しみますが、今回は和食なのでクッションを地面に敷いてあぐらをかき、SOTOのミニマルワークトップをお膳代わりにしました。

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▲本日の昼食

私が食事をしている間、犬を連れた家族連れが通過していきました。

12:49
ハエが鬱陶しくなってきたので、食事用の道具を片付けて出発。
増位山山頂を目指し、東尾根ハイキングコースを北へ進みます。

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▲展望所から増位山山頂への道の様子

12:53
反射板の背後を通過(地図中「反射板」)。

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▲反射板

13:00
増位山山頂の少し南で、二股の分岐に出会いました。
右は増位山山頂、左は巻き道(山頂には行けない)です。

増位山山頂を目指し、この分岐は右へ。

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▲増位山山頂の南にある分岐

13:01
増位山の山頂に到着。
昼食中に出会った家族連れが山頂で休憩中でした。

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▲増位山山頂の様子


▲兵庫県姫路市の増位山山頂で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2019年6月1日、撮影機材:RICOH THETA Z1)

せっかくの家族の時間を怪しげなおっさんが邪魔しても申し訳ないので、休憩はせずに通過。

13:06
昔は展望が良かったのであろう「古墳展望台」(地図中「古墳」)で、道標に従って左へ向きを変えます。

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▲随願寺方面へ進む

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▲古墳展望台から先の道の様子

数分歩いたところでまた道標に出会いますが、それも随願寺方面に進みます。

13:11
榊原政邦と夫人の墓所に出会いました(地図中「榊原政邦と夫人の墓所」)。

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▲榊原政邦と夫人の墓所

姫路城主 榊原政邦と夫婦の墓所
榊原家は江戸時代初期と中期の二度姫路城主となっている。榊原政邦は、宝永元年(1704)越後国村上城から移封され、二度目の榊原家姫路城主となった。政邦のあとは、政祐・政岑・政永と続く。
政邦は享保11年(1726)、52歳で亡くなるまでの22年間にわたり、特に民政に心を傾け善政を続けたといわれている。遺言によりここ増位山に葬られ、墓碑には故式部大輔、従四位下源朝臣と刻まれている。
政邦の夫人は享保14年(1729)江戸で亡くなったが、同じく遺言により政邦と並んで葬られている。

姫路市教育委員会
姫路市文化財保護協会
増位中学校区夢プラン実行委員会

(出典:現地の看板)

墓所の前の石段を下ると石灯篭のある削平地があって、そこから擬木階段を下れば梅園に出ます。

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▲梅園の様子

梅園の中にも随願寺への方向を示す道標があるので、それに従って西へ進み、また擬木階段を下ります。

一段下の梅園に出るので、そこも西へ進んで階段を下ると、放生池の東側に出てきました。

後は、随願寺の本堂前を通って駐車場に戻るだけ。

13:21
駐車場に到着。

13:45
自宅に到着。

 


交通アクセス

路線バスの場合は、姫路駅の神姫バスターミナル7番のりばから81または84系統の路線バスに乗り、「横手」バス停で下車して下さい(運賃は2021年4月時点で¥220)。

横手バス停から東へおよそ230m進んだ所に、大歳神社があります。

随願寺の旧参道で下山後、「随願寺入口」交差点から西へおよそ240mの「白国」バス停から姫路駅へ戻れます。

JRも利用できます。
JRの野里駅から大歳神社までの距離は、約850mです。
旧参道で下山後、「随願寺入口」交差点から野里駅までは、およそ450mです。

*1:中国自動車道の起点が大阪なので、大阪寄りが入口とされます。