2020年9月27日に歩いた有年山城跡。
その時に実現できなかった「山頂の北東尾根にある山城遺構の見学」「ドローンによる空撮」の2つを実現するため、本日また有年山城跡に出かけてきました。
9月27日の様子は、以下のリンクからご覧ください。
▲ドローンで北から撮影した有年山城主郭跡と千種川(最奥にうっすらと家島諸島)
大鷹山城(八幡山城・有年山城)【東有年・有年楢原】
東有年・有年楢原地区に位置する標高201mの大鷹山(八幡山とも)の山頂にある市内最大の山城。地元では古くから古城跡と伝えられており、「城山」や「八幡山の城」と呼ばれ、山頂部分は「城台(しろんだい)」と呼ばれている。
『赤松家播備作城記』『播磨鑑』などの江戸時代の文献によれば、初代の城主は赤松範資(のりすけ)の子、本郷掃部介直頼(かもんのすけなおより)であったとされ、暦応年間(1338~1342年)に居城していたという。その後、赤松氏の家臣であった富田右京(戸田右京とも)が再び山城を築いたが、天文年間(1532~1555)頃に浦上宗景(むねかげ)に攻め滅ぼされたとされる。また赤松氏の家臣であった小田弾正(だんじょう)(太田弾正とも)が城を再び築き、元亀年間(1570~1573年)に居城したともされており、たびたびその城主が変わっている。
ただし、これらは後世の伝承であるうえ、周辺の他の山城の記録や伝承が混在しており、詳しいことはよくわかっていない。確実な史料をみると、天正3(1575)年に宇喜多家が赤穂郡に侵攻した後には、宇喜多方の城となったことがわかっている。天正5~7(1577~1579)年には、織田信長の命を受けて中国地方へ侵攻する羽柴秀吉の軍勢と、毛利・宇喜多家の軍勢の間の戦闘があり、史料には「八幡山」の城として登場する。
天正7(1579)年には宇喜多直家が織田家へ帰順するが、それ以降の史料には現れないことから、そのまま廃城されたものと考えられている。
(出典:文化財をたずねて No.27 赤穂の中世城館を攻める!(1) 発行 赤穂市教育委員会 編集 生涯学習課文化財係 2020年3月31日)
▲対応する地形図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「備前三石」「相生」
▲カシミール3Dで作成したルートの断面図
10:00
姫路市街の自宅を車で出発。
国道2号線を西進し、千種川を渡っておよそ1kmの「東有年(ひがしうね)」交差点を左折。
100m進んだ所にある三叉路を左へ入ってすぐの「宮前待合所」の空き地に車を駐めました。
ここはデマンドタクシーの待合所ですが、有年山城跡に行く登山者用の駐車場にもなっています。
逆に、登山者はここ以外の場所(有年八幡神社周辺)に車を駐めてはいけません。
10:40
宮前待合所に到着(地図中「P」)。
▲宮前待合所
https://goo.gl/maps/JcmQSsbXV8gAbQVU7
▲宮前待合所の位置
10:46
準備が整ったので出発。
国道2号線を北へ渡り、有年八幡神社の鳥居(地図中「鳥居」)前を通過し、集落の中の道を北西へ進みます。
▲有年八幡神社の鳥居前を通過
鳥居をすぎて約120m進んだ所で右へ延びる細い道があるので、そこへ入ります。
▲駐車場(登山者用ではない私有地)の直前を右へ入る
そこにあるのは、簡易舗装の登り坂。
坂道の入口に配布用のルート図が置かれていたので、1枚頂きました。
▲登山口のプレートがある簡易舗装の坂道を登る
10:53
簡易舗装の坂を上りきった所には、有年八幡神社の薬師堂があります(地図中「薬師堂」)。
▲薬師堂
ちょっと坂を上っただけなのに、ずいぶんと体が熱くなってきたので、ここで上着を脱いで半袖Tシャツ1枚になりました。
薬師堂に向かって右に防獣ゲートがあり、それをくぐってすぐ左に曲がると登山道です。
ゲートをくぐって直進すると、2020年9月27日に私が有年山城に登った時のルートである有年八幡神社(地図中「有年八幡神社」)へ行けます。
▲ゲートをくぐってすぐに左へ曲がった
薬師堂の裏はどこでも歩ける緩斜面なので、道がはっきりしません。
とりあえず道標が示す方向へ進んでいくと、やがて道ははっきりとしてきます。
▲薬師堂の裏は道標だらけの緩斜面
11:01
古くからありそうなつづら折れの道を上っていくと、炭焼窯跡に出会いました(地図中「炭焼窯跡」)。
▲炭焼窯跡
炭焼窯跡を通り過ぎた数分後、右下へ下る道との分岐に出会いました。
これを右へ入る道は、有年八幡神社につながっています。
今回は山頂を目指すために右下への分岐は無視。
またその数分後、道の左側に石垣があるのに出会いました(地図中「石垣」)。
今歩いている道が、有年山城があった頃から使われていた道であることがよく分かります。
▲登山道沿いの石垣
石垣の先で、丁字路に突き当たりました。
道標は右を指して「登山ルート」となっており、左は手書きで「展望台(休憩)」となっています。
前回この展望台と書かれた方面に進みましたが、特にこれといったものはなかったので、素直に「登山ルート」の方へ進みました。
2つめの石垣を左手に見ながら登山道を上ると、また丁字路に出会います。
道標は、左を指して「南西城郭(じょうかく)」、右を指して「南城郭」となっています。
「南城郭」は、山頂からまっすぐ南へ延びる尾根上に展開する郭*1群のことを表しており、「南西城郭」はその1本西の尾根上に展開する郭群を表しています。
南城郭は前回(2020年9月27日)に歩いたので、今回は「南西城郭」を目指しました。
▲「南西城郭」方面へ向かった
丁字路から間もなく、右上に巨岩が現れます。
11:13
道はその巨岩を回り込んで上に上がるように付けられているのですが、その上には、巨岩を利用した食い違い虎口のようなものがありました(地図中「食い違い虎口(?)」)。
▲食い違い虎口跡のような場所の様子
食い違い虎口のようなものの先にあるのは、現地のプレートで「南西城郭」とされている場所の南端。
巨石で縁取りされたような郭跡(現地のプレートでは「南西6」)があります。
▲「南西6」と書かれたプレートのある郭跡
ここから1段上がった郭跡は「南西5」、その上は「南西4」と順に数字が小さくなっていき、「南西2」で終わり。
「南西2」の郭跡は背後の斜面(切岸*2)が岩壁になっており、とても登れそうな状態ではありません。
しかし、道標に従って岩壁の前を左へ進むと、細い道を通ってその上に上がれるようになっています。
▲「南西2」の北側は岩壁(道標に従って左へ進む)
11:22
大きな凹みや帯郭*3のような削平地を見ながら細い道を上ると、広い郭跡に出ました。
現地のプレートでは「西城郭1」とされている広大な郭跡です。
▲「西城郭1」から山頂方面を見る
この郭跡は、北側の縁に沿って4つの凹みがあり、東端のもの(上の画像に写っている凹み)が最大です。
何のための凹みなのか、さっぱり分かりません。
11:28
階段状に並ぶ小さな郭跡を東へ登り、有年山城の主郭*4の最高部である山頂に到着。
▲山頂の様子
https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/uneyamajo20200927-2/virtualtour.html
▲有年山城主郭跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2020年9月27日 撮影機材:RICOH THETA Z1)
前回ここへ来たとき、山城跡の整備をされている方々にお会いしましたが、その時のお一人と、前回はいらっしゃらなかった3名の合計4名が休憩中でした。
前回は赤穂市内全域での飛行の届出をしている先約があったので飛ばせなかったドローン。
今回は近隣で先約がなく、すんなりと飛行情報共有機能(国交省航空局のWebサイト)に事前登録ができたので、山城跡の整備をされている方々の承諾も得て、食事前にドローン飛行を満喫。
「有年山城に物見櫓があったとしたら、どんな景色が見えたんだろう」という興味があったため、山頂のすぐ上空で全天球パノラマを撮影してみました。
https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/uneyamajo20201018/virtualtour.html
▲有年山城主郭跡の上空で撮影した全天球パノラマ(撮影機材:DJI Mavic2 Pro)
先客は先に下山され、山頂は私が独り占め。
白旗城跡が見えているであろう北方面の景色(どれが白旗城跡か分からなかった)を眺めながら、イトメンのチャンポンめんを頂きました。
▲本日の昼食環境
12:36
贅沢な時間を充分に満喫し、下山開始。
時間がたっぷりあるので、前回見られなかった北東の郭群を見て、さらにその先にある放亀山(ほうきやま)1号墳と呼ばれる、赤穂市内唯一の前方後円墳を見て下山することにしました。
山頂の大きな看板の背後から北東へ下ります。
北東へ延びる尾根にも何段か郭跡があるのですが、これらの高低差は大きく、急な斜面(切岸)を下る際には注意が必要です。
12:40
土塁のような、あるいは土橋のような不思議な道に出会いました(地図中「土橋」)。
▲土塁のような土橋のような不思議な道
この先の尾根上は、人工的なのか自然にそうなったのか分かりませんが、尾根と同じ方向に伸びる複数の溝が平行に走っているような、不思議な地形がしばらく続きます。
何かが動く気配を感じてそちらを見ると左前方に鹿が1頭いて、私に驚いて東へ逃げていきました。
「私と同じ方向に進むなよ~」と思いながら歩いていたら、やっぱりまたその鹿と出会い、鹿は大きな警戒音を上げて東へ逃げていきました。その後、もう一回その鹿は私に驚いて逃げていきましたが、なんて鈍くさいやつなんだ。
「放亀山1号墳」方面への公設の道標を過ぎた辺りから、苔むした巨岩が尾根上に見られるようになりました。
▲公設の道標
▲放亀山1号墳の直前に出会う別の道標
12:54
上の画像の道標前を通り過ぎて間もなく、「いかにも前方後円墳」という地形に出会いました。
▲前方部から後円部を見る
古墳自体には標柱や看板があるわけではありませんし、上の画像を見ても「どこが古墳なんだ?」と思われるかも知れません。
しかし、現地に立ってみてください。
一目で前方後円墳だと分かります。
放亀山1号墳の直前に出会った道標まで戻り、道標に向かって立ったとき真後ろに見える道を下りました(地図中「山城・古墳・下山三叉路」)。
▲道標前から南へ下る道の様子
歩く人は少なそうですが、道ははっきりしており、斜度も緩やかで歩きやすい。
13:30
巨大なサイコロのような岩に出会うと、進路は右へ折れ曲がります。
そこから少し下ったところで、コンクリート製の背の低い建物に出会いました(地図中「コンクリート製構造物」)。
全く正体は分かりませんが、雰囲気的には水道関連の設備かな。
▲下山途中に出会った謎のコンクリート製構造物
この構造物を右に見ながら、幅の広いなだらかな道を下っていくことになります。
おそらくこの道は、コンクリート製の構造物が現役だった頃に使われていた道でしょう。
▲コンクリート製構造物から先は広くてなだらかな道
少し下ると、構造物の下部が石積みになっているのが見えてきました。
道をはずれて石積みに近づこうとしたら、石積みの背後、左側から黒っぽい物体が突然姿を現しました。
イノシシです。結構大きい。
▲イノシシと遭遇(手ぶれをしていることから、私が動揺していることがおわかり頂けると思います)
なぜか右ばかり見ながら、私の前を右奥から左手前に斜めに横切ろうとしていましたが、ふと私と目が合いました。
その瞬間、「フゴッ」と大きな鼻息を立ててイノシシはUターン。軽快な足取りでコンクリート製構造物の陰に消えていきました。
「よかった。これで石積みに近づいて詳しく調べられる」と思って石積みの写真を撮っていると、何やら気配が。
▲コンクリート製構造物の下にあった石積み
見ると、コンクリート製構造物の右から先ほどのイノシシが顔だけ出してこちらを覗いています。
「頭が良いなぁ。逃げたと思わせて、逆方向から様子をうかがっていたのか。さっきのアホな鹿とは全然違う。」と感心しながらイノシシを見ていたら、イノシシは堂々としたそぶりで私の方へ歩いてくるではありませんか。
こんな時に限って、いつもは持っている熊よけスプレーを持っていません。
足元を見ると鹿の角ほどの大きさの木の枝と、こぶしより少し大きい石があったので、左手で枝を、右手で石を拾い上げ、自分を大きく見せるためにバンザイのポーズをしたところ、イノシシはまた「ブヒッ」と声を上げて斜面をトラバースするように右へ逃げていきました。
「念のため、枝と石は持っておこう。」と考えて広い道をスタスタと下っていると、自分の足音以外の足音が聞こえます。
「?」と思って振り返ると、10mほど後ろをさっきのイノシシが私のあとをつけていたのです。
「達磨さんが転んだ」のように、私と目が合うとイノシシはピタッと停止。
枝と石を持ったままで良かった。
今度は枝を持った左手と石を持った右手を振り回し「何しとんねん!やるんか!」と大声を出すと、イノシシは斜面を登って逃げていきました*5。
またいつ“ヤツ”が来るか分からないので、枝と石は持ったまま下山を続行。
もうすぐ下山完了と思ったら、防獣柵が張りめぐらされていて山から外へ出られません。
西の方に墓地や果樹園のようなものが見えたのでそちらへ進みましたが、無理して柵を越えると民家の敷地に入ってしまいそうなややこしい場所(地図中「×」)だったので、今度は東へ。
イノシシとの対決(大げさ)で妙な興奮状態になっていたのか、登山口で入手した地図を見るところに頭が回らず、山中をさまようハメに。
柵に沿って東へ進んでいくと、一カ所だけ柵が倒れている場所がありました。
▲1カ所だけ柵が倒れていた
「鹿やイノシシがいるのに、柵が倒れていて良いのかな。」と思いながらそこを通り抜けると、すぐ外にまた防獣柵がありました。
「二重になっているので、問題ないのか。いや、せっかく出られたと思ったのに、また柵があったら結局出られへんやんか!」と一人で関西弁で怒りながら柵に触ると、いとも簡単に外側へ開きました。
押すと開き、手を離すと元通りに閉まります。
▲倒れた柵から外へ出てすぐ出会うこの柵は、内側から押すと簡単に開く
あとは集落の中の道を西へ進み、駐車場へ戻るだけ…と思っていたら、有年八幡神社の下に出る直前で、奇妙な岩に出会いました。
13:28
登山口で入手した地図によると「重ね荒神」だそうです(地図中「重ね荒神」)。
▲重ね荒神
②重ね荒神【東有年】
東有年八幡神社の鳥居がある山裾を少し東に行くと、道路の山側に巨石を二つ重ねた祠があり、これを重ね荒神と呼び、塞の神、稲荷社などを祀っているという。塞の神は、道祖神として外部から疫神や悪霊が集落に進入するのを防ぎ追い払う神とされ、村境・峠・辻などに祀られた。あるいは往来する旅人の安全を守る神とも言われる。東有年は街道沿いの村であり、江戸時代には宿が置かれた。重ね荒神もこうした街道沿いであった東有年の歴史を物語っている。
(出典:文化財をたずねて No.22 赤穂の塩業遺産をたずねて 発行 赤穂市教育委員会 編集 生涯学習課文化財係 2014年3月31日)
13:35
駐車場に戻りました。
14:50
自宅に到着。
有年山城跡は歩く人が多いため安全だと思いますが、古墳側の山を歩く際は、野生動物にご注意ください。
私は単独だったので、自分の安全だけ考えれば良い分、ある意味気軽といえます。
複数人の場合、リーダーは全員の身の安全を確保しないといけませんから、責任が重大です。
交通アクセス
公共交通機関を利用される場合、最寄り駅はJRの「有年(うね)」駅になります。
有年駅から今回の登山口である薬師堂までは、およそ2.5km。
有年山城跡の麓を走るコミュニティバスもありますが、運行される曜日が限定されており、朝早い時間の運行がないため、山歩きには不便です。