2020年9月23日付の神戸新聞で、「有年山城跡に表示板」と題する記事がカラー写真付きで掲載されていました。
その記事によると、登山道は整備されており山頂からの展望も良いとのこと。
山の高さは201mしかないので、暑さで山歩きをサボっていた私でも楽に歩けそうです。
というわけで、本日は有年山城跡に出かけてきました。
▲県道90号線から見た大鷹山(有年山城跡はこの山の山頂にある)
大鷹山城(八幡山城・有年山城)【東有年・有年楢原】
東有年・有年楢原地区に位置する標高201mの大鷹山(八幡山とも)の山頂にある市内最大の山城。地元では古くから古城跡と伝えられており、「城山」や「八幡山の城」と呼ばれ、山頂部分は「城台(しろんだい)」と呼ばれている。
『赤松家播備作城記』『播磨鑑』などの江戸時代の文献によれば、初代の城主は赤松範資(のりすけ)の子、本郷掃部介直頼(かもんのすけなおより)であったとされ、暦応年間(1338~1342年)に居城していたという。その後、赤松氏の家臣であった富田右京(戸田右京とも)が再び山城を築いたが、天文年間(1532~1555)頃に浦上宗景(むねかげ)に攻め滅ぼされたとされる。また赤松氏の家臣であった小田弾正(だんじょう)(太田弾正とも)が城を再び築き、元亀年間(1570~1573年)に居城したともされており、たびたびその城主が変わっている。
ただし、これらは後世の伝承であるうえ、周辺の他の山城の記録や伝承が混在しており、詳しいことはよくわかっていない。確実な史料をみると、天正3(1575)年に宇喜多家が赤穂郡に侵攻した後には、宇喜多方の城となったことがわかっている。天正5~7(1577~1579)年には、織田信長の命を受けて中国地方へ侵攻する羽柴秀吉の軍勢と、毛利・宇喜多家の軍勢の間の戦闘があり、史料には「八幡山」の城として登場する。
天正7(1579)年には宇喜多直家が織田家へ帰順するが、それ以降の史料には現れないことから、そのまま廃城されたものと考えられている。
(出典:文化財をたずねて No.27 赤穂の中世城館を攻める!(1) 発行 赤穂市教育委員会 編集 生涯学習課文化財係 2020年3月31日)
▲対応する地形図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「備前三石」「相生」
▲カシミール3Dで作成したルートの断面図
09:50
姫路市街の自宅を車で出発。
国道2号線をひたすら西へ進み、千種川(ちくさがわ)を越えてまもなくの「東有年(ひがしうね)」交差点を左折。
100mほど南へ進んだところで左へ入ると、すぐ「宮前待合所」と書かれたプレハブ小屋のある空き地に出会います。
この空き地が有年山城跡を歩くハイカー向けの駐車スペースです*1。
10:40
宮前待合所の空き地に到着(地図中「P」)。
ここには有年交番用の駐車スペースがあり、看板が立っているので、そこには車を置かないでください。
▲宮前待合所(デマンドタクシーの待合所)のある空き地に駐車した
https://goo.gl/maps/RGzYHsP4ayLGwi729
▲宮前待合所の位置
10:46
準備が整ったので出発。
10:49
国道2号線を北に渡ってすぐの有年八幡神社(うねはちまんじんじゃ)の鳥居をくぐりました(地図中「鳥居」)。
▲有年八幡神社の鳥居(周辺に空き地がありますが、ハイカー用の駐車スペースではありません。勝手に車を駐めると、トラブルにつながる可能性があります。)
前述の神戸新聞の記事では「有年八幡神社薬師堂からの登山道」と記載されていたのですが、私は有年八幡神社から登るものだと思い込んでいたため、有年八幡神社の鳥居の先の階段を登りました。
階段の上の防獣ゲートは長いヒモでガッチリとくくられており、開け閉めが面倒。
後で分かったのですが、有年八幡神社薬師堂は別の場所にあり、ここから登るのは正しくなかったのです。
そんなことはつゆ知らず、「めんどうくさいなぁ」と独り言を言いながら防獣ゲートを開け閉めし、参道とは思えないほど険しい山道を登りました。
▲有年八幡神社の鳥居の先の参道の様子
少し上った所で、未舗装ではありますが、車が走れる幅の広い道に出ました。
これは有年八幡神社の薬師堂から延びてきている道で、この道を上れば面倒臭い防獣ゲートの開け閉めは不要だったのです。
10:57
とりあえずその広い道を上ると、すぐに高瀬舟灯台(復元)に出会いました(地図中「高瀬舟灯台」)。
▲高瀬舟灯台と千種川
https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/uneyamajo20200927-1/virtualtour.html
▲高瀬舟灯台前で撮影した全天球パノラマ(撮影機材:RICOH THETA Z1)
鉄道が開通するまで、千種川では高瀬舟や筏による物資の輸送が盛んに行われた。特に、上流の千種や佐用からは塩づくりのための燃料となる薪が赤穂へ持ち込まれていたほか、上流の村々へは高瀬舟で赤穂産の塩が運ばれていた。千種川による水運も赤穂の塩づくりを支えた重要なものであった。
千種川沿いの村々には多くの船着場が造られたほか、東有年には高瀬舟のための灯台「舟灯台」が設置されている。坂越地区上高谷に存在した高瀬舟舟着場跡がモニュメントとして整備されているほか、東有年の舟灯台は現在でも見学することができる。(出典:文化財をたずねて No.26 赤穂の塩業遺産をたずねて 発行 赤穂市教育委員会 編集 生涯学習課文化財係 2019年3月31日)
高瀬舟灯台の奥には細長い平坦地が広がっており、有年八幡神社の社務所や絵馬殿、拝殿、本殿などがあります(地図中「有年八幡神社」)。
▲有年八幡神社の絵馬殿(絵馬殿に隣接して奥に拝殿がある)
▲有年八幡神社の本殿
有年八幡神社でお参り(山へ入らせて頂く挨拶)を済ませ、本殿に向かって右側にある登山口から入山。
登山道はちょっと急な斜面で、鈍っている私の体にはキツイ。しかし、涼しい自然林の中を歩いていると気持ちが落ち着きます。やっぱり山は良いですね。
▲本殿に向かって右側にある登山道の入口
▲有年八幡神社からの登山道の様子
11:17
「テレビ線埋設地点」の杭に出会ってすぐ、テレビの共同アンテナに出会いました(地図中「テレビアンテナ」)。
山の中で出会うテレビの共同アンテナは、使われなくなって放棄されたものが多いですが、ここのは現役のようです。
▲テレビアンテナ
テレビアンテナのすぐ脇には巨岩があります。
登山ルートとしては、その巨岩の上へ行かなくてはいけません。
行き方は巨岩のすぐ前をロープで登るか、安全な迂回路で登るかの二択。
私は安全な迂回路で登りました。
上った所には「弁慶の足跡」と書かれたプレートがあります。巨岩の凹みが足跡に見立てられているのかな。
▲「弁慶の足跡」と書かれたプレートのある場所の様子
携帯防虫器(https://dfm92431.hatenablog.jp/entry/2020/03/15/090413)をバックパックに取り付けていたのですが、全く煙たくないので、ここでバックパックを下ろして確認すると火が消えていました。
これまでですでに2、3回火をつけ直していたのに、また火が消えていたので腹が立ち、ターボライターで嫌と言うほどパワー森林香の端を炙り、煙がモクモクと上がるのを確認してから携帯防虫器にセット。
バックパックを背負ってからもしばらく待機して煙の匂いを確認し、手で携帯防虫器を触り、温かくなっているのを確認してから出発。
灯台で全天球パノラマを撮影していますし、携帯防虫器の再点火作業を何度も行っているので、この記事の往路のコースタイムはあまり参考にならないかも。
相変わらず急な斜面が続く中を登って行くと、「岩登り」と書かれたプレートに出会いました。
名前の通り、砂が浮いた岩の急斜面が背後にあり、ロープも設置されています。
しかし、登りの際はロープに頼る必要はありませんでした。
▲「岩登り」のプレートと背後の急斜面
岩の急斜面を数分で登り切ると小規模な石積みに出会いましたが、そこにあったのは「見張台」のプレート。
見張台ならもっと高くて全方位を見られる場所に作るでしょうから、番所か何かがあったのかな。
「見張台」のプレートから先は、いよいよ有年山城の縄張りです。
最初に出会うのはⅠ-3⑤郭*2で、現地のプレートに書かれている名前は「南5」。
なお、この記事で使用する郭の番号は、下の縄張り図(大鷹山山頂の案内箱にある)のものです。
▲山頂の案内箱にある有年山城の縄張り図
▲有年八幡神社から登った場合最初に出会うⅠ-3⑤郭
ここからしばらくは小規模な郭が階段状に並ぶ中を登ります。
Ⅰ-3①郭(現地のプレートは「南 城郭1」)はそれまでのものより明らかに広い。
そして、そのⅠ-3①郭から一段上がったところがⅠ-1①郭、つまり「主郭*3」の最高部、山頂です。
11:35
山頂に到着(地図中「有年山城跡」)。
地元の方が設置した高さ、幅とも1.5mの表示板が目立っています。
▲大鷹山の山頂(有年山城の主郭)
北と南に展望が開けており、南を見ると遠く播磨灘と家島が見えます。
家島の背後には大きな島影がうっすらと見えていましたが、あれは淡路島だったのかな。
今日は天気が良く、空気も澄んでいるので最高です。
https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/uneyamajo20200927-2/virtualtour.html
▲有年山城主郭跡で撮影した全天球パノラマ(撮影機材:RICOH THETA Z1)
山頂で一人景色を楽しんでいたら、単独の男性ハイカーが来られました。
その方と少し雑談をしてから全天球パノラマを撮影。上のパノラマに写っているのは、私ではなくその単独ハイカーさんです。
山頂の案内箱に有年山城の縄張り図が入っていたので、それを1枚いただき、まだ食事には早いので西の方を探索することにしました。
Ⅰ-1①郭(山頂)から西へはⅠ-1②郭、Ⅰ-1③郭(現地のプレートはそれぞれ「本2」「本3」)の順で階段状に小規模な郭が並んでおり、6番目の小さな郭(Ⅰ-1⑥郭。現地のプレートは「本6」)から西へ下ったところがⅡ-1①郭(現地のプレートは「西 城郭1」)。
Ⅱ-1①郭に下りてすぐに空堀跡に出会いました。
▲Ⅱ-1①郭の空堀跡
そこからさらに西へ進むと、今までの山城跡では見たことがない巨大な凹みが!
直径約7m、深さ約2.5mもあります。
▲Ⅱ-1①郭にある大型土壙(どこう)
Ⅱ-1①郭はかなり広いです(有年山城の郭の中では最大)。
屋敷を建てられそうなほどの広さがありますが、不思議なのは上の大型土壙ほどではないものの、穴が他に3つも空いていること。
それらは全てⅡ-1①郭の北側に沿って並んでいるのですが、いったい何なんでしょう。
https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/uneyamajo20200927-3/virtualtour.html
▲有年山城Ⅱ-1①郭で撮影した全天球パノラマ(撮影機材:RICOH THETA Z1)
Ⅱ-1①郭の西にも何段か郭がありますが、それらはちょっと藪っぽいので行かず。
Ⅱ-1①の南にも郭が何段もありますが、Ⅱ-1①からそれらの郭へ下りる道は見つかりませんでした。
むりやり斜面を下ってみると、南へ下る斜面にある何段もの郭の形状がはっきり見て取れます。
そろそろお腹が空いてきたので、山頂へ戻って昼食。
本日のメニューは、アルファ米の白米に冷凍の牛丼の素を載せた牛丼。
▲本日の昼食は牛丼
食事の準備をしていると、有年山城跡を整備されている地元の方々3人がロープや矢印が描かれたプレートを持って登ってこられました。
色々とお話を伺い、縄張り図や周辺の山城跡の分布を示す地図なども頂き、食事と楽しいおしゃべりを満喫させていただきました。
山頂に設置された表示板は許可を得ず地面を50cm掘って立てたそうで、教育委員会から叱られたそうです。城跡なので何が埋まっているか分かりませんからね。
さて、今回の記事にはドローンを使った空撮画像がないことに気づかれた方もおられるかも知れません。
実は、本日は赤穂市全域でドローンを飛ばす事前登録*4をしている方(業者さんかな?)があり、有年山城跡のある大鷹山周辺もすっぽりその飛行範囲に入っているため、私はドローンを持ってきませんでした。
自分が飛ばそうと思っているところに先約があれば、その相手方とメールで連絡を取り合い、事故防止のために飛行場所や時間の調整を行う必要があるのです。
さすがの私でもそんな手間をかけてまでドローンを飛ばしたくないので、今日はドローンを持って来なかったというわけです。
楽しくおしゃべりをして過ごしていると単独の男性ハイカーがさらに2名こられて、その方々も山城跡の整備メンバーさんから色々と情報提供を受けておられました。
13:10
整備メンバーの方々は有年山城跡の東にある放亀古墳方面の整備へ、私達ハイカーは下山のため一斉に山頂を出発。
私が登りで使った有年八幡神社からのルートはもっとも険しい道で、有年山城が現役だった頃の登城道と思われるつづら折れの道は、その険しい道のある尾根の西側の谷間に通っており、その道も整備されていると山頂で伺ったので、そのルートで下山することにしました。
頂いた縄張り図によると往時の道は、登りで通ったⅠ-3③郭(プレートでは「南3」)と、巨大な凹みがあったⅡ-1①郭から南へ下ったところにあるⅡ-2③郭をつなぐ道から始まっています。
Ⅰ-3③郭へ下り、「下山口」と書かれたプレートに従ってピンクテープだらけの谷間の道に入ってみました(地図中「Ⅰ-3③郭」)。
▲Ⅰ-3③郭の西端(画像左端)から下山ルートが始まる
道があるのか無いのか分かりづらい斜面を、等高線と平行に、ピンクテープに従って西へ進むと、すぐにⅡ-2③郭に到達。
木々が伐採されて明るくなっており、石垣の跡のようなものも見られました。
下を見ると、まだまだ何段も広い郭が連なっているのが見えます。
▲Ⅱ-2③郭(現地のプレートは「南西3」)
「Ⅱ-2郭は広いなぁ」と感心していましたが、ふと我に返り「そうだ、下山するんだった。下山道はどこだ?」とキョロキョロすると、Ⅱ-2③郭に入る直前に南へ下る分岐があったのでした。
谷間を下るつづら折れの道は、最近作られたものではなく明らかに古いもので、山城があった当時の道である可能性が高く、なんだか嬉しくなってきます。
▲つづら折れの道に残る補強の石積み
下山途中、「展望台(休憩)」と書かれた道標のある分岐に出会いました。
展望が良い場所なら行ってみようと思ってそちらへ進むと、巨岩が聳える尾根に出ました(地図中「展望台?」)。
どうやらその巨岩はⅡ-2郭群の南端のようです。
有年山城は天然のバリケードとして巨岩を活用していたのでしょう。
▲Ⅱ-2郭群のある尾根に聳える巨岩
再びつづら折れの道に戻って下って行ったのですが、途中で直進と左折の分岐に出会いました。
直進は水平、左折は下っていきます。
「下山なので左折だろう」と安易に考えて左折しましたが、今までと比べて歩きづらい。昔からある道というより、山仕事用の杣道(そまみち)のような感じです。
「戻るのも面倒だし、このまま下ろう。杣道なら麓に出るだろう。」とそのまま下りていくと、炭焼き窯跡に出会いました。やっぱり山仕事用の道だったようです。
▲炭焼き窯跡
炭焼き窯跡から先は、さらに歩きづらくなってきます。
道があるようには見えませんが、ピンクテープに従って進んでいくと、有年八幡神社の本殿の西側に出てきました。
後は、車が走れる幅の広い未舗装の道を下れば下山完了です。
13:40
鳥居からの道が左から合流するのを無視して車道を下り続けると、薬師堂に下りてきました(地図中「薬師堂」)。
▲薬師堂へ下りてきた
この薬師堂の右後ろから登山道が始まっています。
私が下山途中で左折せず、直進していたらここへ下りてきていたのでしょう。
▲薬師堂の背後から始まる登山道
薬師堂から細い道を西へ下り、突き当たりを左へ。
そのまま道なりに歩けば、国道2号線を渡って駐車場へ戻れます。
▲薬師堂から下ってきた道(地形図では実線道)を突き当たりから振り返る
13:51
駐車場に到着。
山頂ではおしゃべりや展望を楽しみすぎて時間切れになり、北東の郭群を見られなかったし、下山時に往時の登城道をはずしてしまいましたし、ドローンも飛ばせず。
今回できなかったことを達成するため、また登りに来なくては。
注意
この山城跡に登られる際は、私が往路で歩いた有年八幡神社鳥居からは山へ入らず、さらに北へ進んだところから薬師堂を目指してください。
薬師堂が有年山城の登山ルートの起点です。
2回目に登った時の記録はこちら。
交通アクセス
公共交通機関を利用される場合、最寄り駅はJRの「有年(うね)」駅になります。
有年駅から今回の登山口である有年八幡神社の鳥居までは、およそ2.3km。
有年山城跡の麓を走るコミュニティバスもありますが、運行される曜日が限定されており、朝早い時間の運行がないため、山歩きには不便です。
*1:2020年9月19日付「赤穂民報」に「同交差点の南約100メートルを東折してすぐの「宮前待合所」の空き地に駐車スペースがある。」と記載されています。
*2:くるわ。山を削って作られた平坦な場所で、狭い物は戦闘用の陣地、広いものは屋敷や倉庫、兵舎などを建てるのに使う。
*3:しゅかく。本丸のこと。
*4:国土交通省からドローンの飛行許可・承認を受けている場合は、「ドローン情報基盤システム(飛行情報共有機能)」に飛行場所や時間を事前に登録します。登録した情報をもとに、ドローンの飛行場所に航空機が接近した場合は注意喚起のメールが届くなど、航空機の安全確保やドローンどうしの事故防止などに活用されます。