播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県姫路市香寺町の恒屋城跡

ようやく涼しくなってきたので、久しぶりに山歩きをすることにしました。

しかし先日、備中松山城を歩いたときは、観光地のなだらかな遊歩道で、ほとんど荷物がない状態でもヘロヘロになりましたから、「暑いから...」と山歩きをさぼっていた私の体の鈍り具合は、半端ではありません。
夏前にくらべて、体重も3kgほど増えています。

とりあえず、近くにあって(早起きしなくて良い)、簡単に登れて(体が鈍っていても大丈夫)、良い景色を楽しめる(私の山歩きの目的はこれ!)恒屋(つねや)城跡を歩くことにしました。

恒屋城跡を歩くのは、通算6回目です。

恒屋城跡
 城山山頂に位置し、南側の前城と北側の後城からなる中世の山城である。多数の郭群が築かれ、南西斜面の畝状空堀群、後城にある折のある横堀、土塁などの遺構が良好に残っている。十五世紀中頃に赤松氏の幕下恒屋氏が築き、天正年間に羽柴秀吉により落城したと伝えられるが、確たる資料に乏しい。恒屋川対岸の山麓一帯には、平地居館と目される遺構も見られる。

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 昭和五十二年姫路市(旧香寺町)指定史跡

令和元年(二〇一九年)五月 姫路市教育委員会

(出典:登山口の看板)

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▲ドローンで撮影した恒屋城跡

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▲対応する地形図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「前之庄」(往路では「三の郭」でドローンを飛ばしたため、コースタイムは実際の歩行時間より長くなっています。)

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▲カシミール3Dで作成したルートの断面図

10:15

姫路市街の自宅を車で出発。
国道312号線を北上し、香寺町にある「溝口」交差点を左折。

道なりに走ること約3.4km、屋根が赤茶色の恒屋公民館を通り越してすぐ、小さな「恒屋城跡→」の標識に従って右折します。

「この道であってるの?」と不安になる細い道を50メートル進んだ先の突き当たりを左折すると、すぐ右前に「恒屋城跡→」の標識があるので、それに従ってまたまた「こんな細い道に入るの?」と不安になるような道(軽四でないと難しいかも)を進めば、恒屋城跡の登山口と登山者用の駐車場があります。

車が大きい場合は、公民館前の駐車場に駐めさせてもらう手もあります。その際は、恒屋城跡に登っている旨の紙を、外から見える場所に置いておくとトラブルを回避できるでしょう。

11:00

駐車場に到着(地図中「P」)。

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▲駐車場の様子

https://goo.gl/maps/MJNk5xN67dCrXt4M6

▲恒屋城跡登山口と駐車場の位置

11:10

準備が整ったので出発。

駐車場から始まる擬木の階段を登りますが、段差が大きくていきなり疲れます。

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▲駐車場から始まる擬木階段

擬木階段のない場所は、岩盤が階段状に削ってあったり、木の根がゴツゴツと階段のように地表に現れているような所もあります。

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▲岩盤が階段状に削られている場所の様子

11:20

展望の無い雑木の斜面を登ることおよそ10分、突然景色の良い場所に出ました。
三の郭*1と畝状竪堀群*2で構成される、「前城」と呼ばれる区域です(地図中「お堂」)。

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▲雑木林の道から、突然こんな開けた場所に出る

お堂は恒屋伊賀守光氏を祀るためのもの。
そのお堂の前には畝状竪堀群があるのですが、夏草に埋もれて形状がよく分からなくなっています。

お堂と三の郭の間には空堀があるのですが、これも草に埋もれて分かりづらい。

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▲前城全景(ドローンで撮影)

お堂の横から三の郭南側の切岸*3を登り、中腹の犬走り*4に並ぶ五輪塔*5の前を横切ってさらに進んで三の郭に入りました(上の画像の赤矢印のルート)(地図中「三の郭」)。

三の郭の南端から南を見ると、恒屋城の城兵も見たであろう風景が広がっています。

織田軍(秀吉が指揮)が播州征伐のためにやって来た時は、大部隊が麓に展開し、一部が畝状竪堀のある斜面を攻め上って来たのでしょうか。

そんなことを考えていると、のどかな風景ですが見え方が全く変わってきます。

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▲三の郭南端から南の畝状竪堀群と麓を見る

三の郭の北東の角から道が北へ延びています。
それが前城への道。

すっかり藪と化した三の郭の最高地点を左に見上げながらその道を進み、少し下ると平坦でまっすぐな道のある場所に出ます。

ここは、前城と後城を分ける土塁の跡(地図中「土塁」)。

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▲土塁跡の上を歩く

土塁跡を進むと、堀切*6に突き当たって道は左に曲がります。

道はまたすぐ右に折れ曲がり、二の郭*7を右に見上げながら北へ進みます(地図中「二の郭」)。

二の郭と通路の間には、さきほどの堀切から続く横堀*8があって、二の郭はしっかり守られています。

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▲二の郭の西を通る通路の様子

ちなみに、通路に面した二の郭の切岸には、横矢がけ*9をするための出っ張りがあるそうです。

恒屋城跡が整備された直後は二の郭に入れたんですが、今は完全に藪になってしまい、二の郭から通路を見下ろして、城を守る兵士の気分を味わうことができません。

二の郭は北西に出入り口(虎口=こぐち)がありますが、前述の通り藪になっているので、入らない方が良いでしょう。無理して入っても、特になにもなさそうです。

二の郭の虎口から先は、少し急な上り斜面が続きます。

道の左右に郭*10があるはずですが、すっかり藪になっています。

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▲主郭へ通じる道の様子

11:59

主郭*11に到着(地図中「主郭」)。

目立つのは、標柱と「盗掘跡」と言われる凹み。
このような凹みは福崎の春日山城跡にもありますが、食料などを備蓄するために埋められていた大きな甕があった場所ではないのかな。

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▲主郭の様子(ドローンで撮影)

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▲主郭に立つ標柱

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▲盗掘跡とされる穴

恒屋城の主郭は標高が240m足らずなのに、木々が伐採されているため展望が素晴らしい。

どのような展望が得られるのかは、少し古いですが2014年に撮影した全天球パノラマでご覧ください。

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/tsuneyajo/virtualtour.html

▲恒屋城の主郭跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2014年2月9日)

虫はトンボを除いてほとんどいないし、風がよく通って涼しいし、のんびり過ごすのにぴったり。

ここで頂く本日の昼食は、メスティンで炊いた「かしわ飯」。
一合用の炊き込みご飯の素が数年前はあったのですが、今はどこを探しても見つからない...と思っていたら、たまたまネット通販で発見。
それを使ってみました。

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▲本日の昼食は、メスティンで炊いた鳥釜飯

これを、ヘリノックスのイスとテーブルで作った“食卓”で食べると、この世の物とは思えない美味しさ。

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▲大展望が目の前に広がる“食卓”

食事だけでなく、ドローンを飛ばしたり、双眼鏡で周辺の山城跡を眺めたり、単純にぼーっとしたり、久しぶりの山歩きなので、とにかくこの非日常空間を満喫。

13:25

下山開始。

土塁の南端で道は二手に分かれます。
左は往路で通った三の郭への道、右は三の郭の西を通る犬走り(地図中「犬走り」)。

三の郭への道は若干の登り坂があり、犬走りは平坦です。
私は下山時に登り坂に出会うのが嫌いなので、犬走りでお堂の前へ戻りました。

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▲三の郭の西を通る犬走り

この犬走りは、画像の通り曲がりくねっていますが、それはこの斜面にも畝状竪堀群があるから。

しかし、斜面には植物が生い茂っているため、畝状竪堀の形状は分かりません。

13:43

駐車場に戻ってきました。

14:30
自宅に到着。

恒屋城跡には色々な遺構が比較的よく残っていますが、この時期は植物の元気がありすぎて、城跡を楽しむのは難しいです。

山城好きの方で、まだ恒屋城跡をご覧になったことがない方は、植物が枯れる真冬に歩いてみてください。


参考資料

恒屋城
【城史】恒屋城の築城について『播磨鑑』は「恒屋肥後守(伊賀守)光氏が長禄2戊寅年(1458)之を築く」とある。光氏は、北垣聡一郎氏の引用した『恒屋の里』『播磨古城記』によると城主恒屋刑部少輔光稿の長子となっており、光稿がすでに城主と書かれているところからその築城年代はさらにさかのぼることが考えられる。『日本城郭大系』には『赤松秘士録』を引用して光(満)氏が嘉吉の変に赤松満祐に呼応して書写坂本城に参集したことをあげている。嘉吉の変は1441年であるから、それ以前にすでに城主として存在していたことが推測される。恒屋氏の名が文献にあらわれるのは永享元年(1429)とされているが、この頃すでに恒屋城主として居城していたのではなかろうか。しかし、『日本城郭大系』の筆者は光氏の没年が慶長5年(1603)とあるところから坂本城に参集したのは光氏では年代は一致しないとして、父光稿の間違いであろうとしている。
恒屋氏家系によると、恒屋伊賀守光氏は大坪対馬守義勝の実子(2男)となっている。義勝の2男光氏が恒屋光稿の養子となったとするのは北垣氏の説である。 光氏のあとは光成、光誉と続いたが、永正18年(1521)浦上村宗がここに本営を構えて同族赤松氏や山名氏と争うという事が起り、大永(1521~27)の頃に至って恒屋の家臣中にも赤松に属するもの、浦上に味方するものができて混乱を来し恒屋氏の勢力も不振の状態にあった。 天正2年(1574)5月5日光成ら恒屋一族は置塩城に赤松義祐(『播磨鑑』には則房)を攻めたが、白国構主白国治大夫宗把に阻まれて討死した。しかしその後も恒屋の一族は恒屋城を居城としていたらしく、天正年間の羽柴秀吉の播磨攻略の際恒屋氏はこの城に籠って戦ったが遂に落城したといわれている。

出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P227
   兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4


交通アクセス

公共交通機関を使われる場合は、JRの「溝口」駅が最寄り駅になります。
溝口駅から登山口までは、およそ3.1km。

路線バスは通っていません。

*1:さんのくるわ。三の丸のこと。

*2:うねじょうたてぼりぐん。等高線と垂直な方向に人工的に作った、畑の畝のような地形。城に攻め込もうとする兵は、畝と畝の間の溝を一直線に登ることしかできず、城から狙い撃ちされやすくなる。

*3:きりぎし。城の防禦のために人工的に作った急斜面。

*4:いぬばしり。細い通路のこと。

*5:この山の持ち主のお話では、城跡で見つかった物だけでなく、麓の農家の方が農作業中に畑や田んぼで見つけた石造物も含まれているそうです。

*6:ほりきり。敵の進軍を食い止めるために、尾根を断ち切るように掘った深い溝。

*7:にのくるわ。二の丸のこと。

*8:よこぼり。堀切りが尾根を断つように溝を掘るのに対し、横堀は等高線と平行な方向に掘られた堀。

*9:側面から敵を攻撃すること。切岸をよじ登る敵は真上から攻撃出来ないので、横から弓や鉄砲で撃ちます。

*10:くるわ。平らな空間のこと。倉庫や兵舎を建てるための広いものや、通路を通る敵を攻撃するための小さな陣地まで、様々な大きさや用途があります。

*11:しゅかく。本丸のこと。