2019年11月30日付の神戸新聞朝刊「わがまち」のページ(p33)に「『官兵衛神社』完成祝う 入り母屋造りの社殿、教え記した石版も」と題された記事が掲載されていました。
記事によると、官兵衛神社は姫路市街地北部にある広峰山上の広峯神社境内に建立されたとのこと。
「官兵衛神社」の「官兵衛」とは、言わずと知れた2014年の大河ドラマの主人公、黒田官兵衛です。
広峯神社は黒田官兵衛の祖父である黒田重隆(しげたか)が身を立てた場所とされていて、目薬を売って財を成した重隆にちなんだ目薬の木や、黒田家跡(姓は同じだが黒田官兵衛の家系ではない。詳細は不明。)とされる場所があります。
黒田官兵衛と直接関係はなさそうですが、官兵衛の祖父がここで出世をして豪族となり、官兵衛の父である黒田職隆(もとたか)、そして黒田官兵衛ともども当時の御着城主 小寺家に仕えることになりました。
そのため、広峯神社は黒田官兵衛が戦国武将となるきっかけになったといっても過言ではない場所。
姫路から羽ばたいて大活躍した黒田官兵衛を顕彰する神社ということで、生まれも育ちも姫路で、大河ドラマ「軍師官兵衛」を毎週欠かさず見ていた私としては、その神社に興味津々。
というわけで先日、官兵衛神社が境内に建てられた広峯神社(ひろみねじんじゃ)に出かけてきました。
広峯神社の広い境内をぐるっと時計回りに散策し、黒田家跡等の御師(おし。参拝者を集めるために神社の宣伝をしたり、参拝客の世話をする人。)の屋敷跡や磐座(いわくら)などの見所をすべて見て回ることにします。
※この記事の写真の撮影日は、全て2019年12月4日です。
▲官兵衛神社
広峯神社への交通アクセス
姫路市街地の北に広がる増位・広峰(ますい・ひろみね)連山。
その広峰山の山上に「広峯神社」はあります。
https://goo.gl/maps/n8xNdFsmmrTZNx1c6
山の上まで行ける公共交通機関はありません。
公共交通機関を使う場合は、路線バスで山の麓まで行ってから歩いて登るか(JR姫路駅北の神姫バスターミナル8番のりばから出る系統番号「4」のバスに乗っておよそ20分。「広峰」バス停で下車し、後は2.5kmほど車道を徒歩で上る。)、駅からタクシーに乗る必要があります。
自家用車で行くのが一般的。
姫路市街から車で行く場合は、まず県道518号線(野里街道)を北上します。
そして、競馬場の先にある「白国」交差点を直進して県道518号線を離れたら、道なりに北へ進むだけ。
やがて山陽自動車道の下をくぐりますが、その先は狭くて曲がりくねった舗装道路。
対向車に出会うと困るような幅の区間もあるので、退避できそうな場所を確認しながら車を走らせて下さい。
広峯神社境内の様子
▲広峯神社境内の地図(地理院地図を加工したもの)
車で広峯神社を目指して登って行くと、セトレ ハイランドヴィラを過ぎて間もなく、下の画像の分岐に出会います。
▲駐車場の案内標識
この標識に従って坂を下ったところに駐車場があります(地図中右下の「駐車場」)。
▲広峯神社の鳥居の外にある駐車場
ここに車を駐めて駐車場奥にある坂(上の画像で右に写っている坂道)を登り、「広峯神社登口」の看板に従ってまっすぐ西へ進めば、鳥居のすぐ北に出ます。
せっかくなので、いったん鳥居の外(南側)に出てから、きちんと鳥居をくぐってお参りをすることにしました。
▲鳥居前は広い転回場になっている
鳥居をくぐったすぐ先で、道は二股に分かれています。
左は1車線幅の舗装道路。右は山道です。
右の山道は歴史のある参道(古道)なので、そちらを歩くことに。
▲鳥居の北にある分岐(左は車道、赤矢印で示した右の道が古道)
古道沿いには石垣や削平地(さくへいち。山の斜面を削って平らにした場所のこと。)、石段があって、まるで山城跡を歩いている気分になれます。
広峯神社は広峰山城でもあったので、当然かもしれませんが。
広峰山城 (姫路市城北区広峰山)
【城史】城主は広峰牛頭天王の祠官広峰又太郎昌俊である。建武の乱に足利尊氏に属し軍功あり、後置塩赤松の幕下となる。赤松政則が置塩城を築くや広峰神社はその祈禱所となり、天文・永禄の頃活躍したものに広峰新四郎がいる。
【現状】広峰山は標高310m、姫路の北壁として聳えている。山頂にある広峰神社ならびに神官居宅はいずれも岩盤または高い石垣上にあってそれ自体砦ともいえる。吉備津神社を祀る奥の院には社殿をとりまいて26.6m×13.5mの削平地があり、ここから北へ10.8m×7mと21.3m×23.5mの削平地がならんでいる。ここから西の斜面にそうて2つの削平地があり、下段の方に井戸跡が残っている。(出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 pp.163-164
兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4)
「兵庫県立考古博物館|埋蔵文化財保護の手引き」では、広峯神社一帯が「広峰山城跡(ひろみねさんじょうあと)」とされています。
健脚の方なら、ぜひこちらの古道を歩くことをお勧めします。
▲歴史を感じられる古道を進んだ
少し上った所で、大正時代に設置された「十六丁」の丁石に出会いますが、その丁石の後ろに広がっているのは井上家屋敷跡とされる削平地。
▲井上家屋敷跡
記
元禄時代以前より代々廣峯神社に仕え奉り思いで深い住いを神社並び先祖に報告祈願をし、屋敷を清らかな明るい平地となし、いこいのところとす。平成十五年吉月吉日
(出典:現地の石碑)
井上家屋敷跡から土塀の跡を見ながら少し登ると、立派な石垣に出会います。その石垣の上の削平地にあるのは天祖父社(あまさいしゃ)。
▲天祖父社
天祖父社に向かって左側には、夫婦石と名付けられた石もあります。
広峯神社のWebサイトによると、天祖父社には伊弉諾尊と伊弉册尊の夫婦が祀られているため、この夫婦石には子宝や安産を祈ってお参りに来られる方が多いそうです。
▲天祖父社の脇にある夫婦石
さらに、夫婦石の左には2基の石碑が立っています。
▲天祖父社と夫婦石がある削平地に立つ石碑
ここにある構造物はこれだけですが、天祖父社のある削平地自体はかなり広い。
その理由は、広峯神社拝殿にお参りしたときに判明しました(後述)。
天祖父社のある広い削平地から北西に向けて参道が続いているのですが、この道は御師の屋敷跡の土塀に挟まれていて、歴史が感じられる良い雰囲気。
(注:地図中で「○○家」や「○○家跡」と記載しているのは、御師の屋敷や屋敷跡で、広峯神社のWebサイトにある境内図を参考にしています。)
▲天祖父社から広峯神社へ続く道の様子
雰囲気のある道を抜けた先で、石段に出会います。
▲広峯神社拝殿へ続く石段
この石段を登って随神門をくぐれば広峯神社の拝殿に行けるのですが、その前に参道の右側に注目して下さい。
注連柱の先で右を見ると大きな百度石があり、その奥にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)の前に看板が立っています。
▲宝篋印塔
宝篋印塔(国指定重要文化財)
高さ二二四センチメートル、複弁の反花を刻んだ基壇の上に置かれ、基礎の上端は二段式で各面に輪郭付き格狭間が彫られている。塔身の四面には線刻の月輪内に胎蔵界四仏の種子を刻んでいる。笠は下二段、上六段で隅飾り突起はほぼ垂直で、内に二孤の輪部をまいている。無銘であるが様式上から室町時代初期の作品と考えられている。
この宝篋印塔は広峯神社の背後、俗称「吉備ッ様」と称している地に埋没していたものを現在地に移した。宝珠の一部を欠くが、その他はよくそろい姫路市内の宝篋印塔のうち最もすぐれたものとして貴重な遺品である。昭和二十八年八月、国の重要文化財に指定された。姫路市教育委員会
(出典:現地の看板)
歴史のある宝篋印塔を見た後は、石段の続きを登ってから随神門をくぐります。
随神門をくぐった先、目の前にあるのが広峯神社の拝殿。
▲拝殿
拝殿
国指定重要文化財(昭和三五年六月九日指定)
構造形式:桁行十間、梁間四間、一重、入母屋造、本瓦葺
本殿の全面に軒を接して建っており、本殿に相応した大規模な建物である。敷地が本殿に向かって上り斜面となっているため、建物前面は一種の舞台造りとなっている。現拝殿は寛永三年(一六二六年)姫路城主本多忠政が再建した。
(出典:現地の看板から一部を抜粋)
ここで拝殿にお参り。
お参りを終えてふと右を見ると、歴史がありそうな古い神輿があります。
▲拝殿内に置かれていた古い神輿
近くにあった色あせた看板には、以下のように書かれていました。
この神輿は、享保二年(一七一七)の作で、九月には天祖父社への御幸の神事がありました。
残念ながら現在は途絶えています。
天祖父社のある削平地が広かったのは、神輿の御旅所(おたびしょ。この場合は、神輿の巡行の終点。神輿が到着すると、儀式を行う。)だったからというのが理由のようです。
拝殿に向かって左側には真新しいお社が建っていますが、これができたばかりの官兵衛神社。
▲官兵衛神社
官兵衛神社に向かって左側には、「水五訓」と刻まれた石碑が建っています。
「水五訓」は黒田官兵衛が残した教えです。
▲水五訓が刻まれた石碑
水五訓
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
一、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
一、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
一、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失はざるは水なり
(出典:現地の石碑)
冒頭に掲載した官兵衛神社の玉垣を見て「あれっ?」と思われた方もおられると思いますが、官兵衛神社の玉垣は名前が刻まれているものが少ないのです。
実は、「『官兵衛神社』の完成祝う」の新聞記事の隣には「『黒田武士顕彰会』玉垣設置されず 総代会など奉祝祭を欠席」と題した記事も載っていました。
広峯神社総代会や、官兵衛神社建立に関わってきた市民グループ「播磨の黒田武士顕彰会」は、完成した神社に同顕彰会の玉垣が建てられなかったことなどに抗議し、29日の建立奉祝祭に出席しなかった。
(中略)
しかし、建立の進め方や計画変更などを巡って広峯神社と対立し、総代会などとともに、幸田靖久宮司らの退任を要求。神社側は寄進を返還し、会の玉垣を建てない方針を文書で示したという。
(出典:2019年11月30日付の神戸新聞朝刊「わがまち」のページ(p33))
せっかく建てられた官兵衛神社ですが、名前のある玉垣の少なさがちょっと寂しい。
官兵衛神社にお参りをした後は、休憩展望室で小休止。
飲み物の自動販売機があり、南向きの窓からは姫路市街地を眺められるので、疲れていなくても立ち寄ることをお勧めします。
▲休憩展望室
本日は境内を時計回りにぐるっと一周することにしているので、地養社と蛭子社の間、「廣峯薬師堂→」の看板がある道に入り、薬師堂を目指します。
▲官兵衛神社を支える石垣を右手に見ながら進み、分岐を左へ入る
道標に従って分岐を左に入ると、すぐに薬師堂に出会いました。
歳のせいか最近体の調子が悪いので、しっかりとお参り。
薬師堂の横には、黒田官兵衛の祖父が財を成すのに一役買った目薬の木が植えられています。
▲薬師堂
薬師堂からさらに奥へ道は延びており、それをたどっていくと「魚住家 黒田家跡はこっちだよ!→」と書かれた丸い看板に出会います。
それに従って進んだ先にあるのは、魚住家。
電気は来ているようですが、人が住んでいるのかどうかは分かりません。
▲魚住家(立入禁止)
魚住家の前には、下の看板が立っています。
私は趣味で山歩きをしているので、道が狭かろうが多少険しかろうが問題ありませんが、山歩きの経験がない方には、今回私が歩いた道は全くお勧めできません。
▲魚住家前の看板(ここに書かれている「白弊山」は、荒神社、吉備神社、磐座のある場所のこと)
魚住家前から先は、今までの道と全く違う細い山道になっています。
「黒田家跡を示す看板はあるんだろうか。気がついたら通り過ぎていたってことはないかな。」と不安に思いながら、色あせたトラロープ沿いに進んでいくと、「黒田家跡はこっちだよ!」と書かれた丸い看板に出会いました。
妙に明るい看板が薄暗くて不気味な山道に不似合いのように見えますが、案外いいかも。この看板を見たら、不気味さや不安がなくなりましたから。
▲黒田家跡直前の看板(黒田家跡は、写真右に写っている石垣の上にある)
黒田家跡には「黒田家跡だよ」と書かれた丸い看板があるので、見落とすことはありません。
瓦片や石が散乱し、雑木や竹が生えて荒れ放題ですが、石灯籠が辛うじて姿を留めていました。
▲黒田家跡
この辺りから家守家跡までは、竹が倒れていたり道の形が分かりにくくなっています。
山歩きをしない方から見ると、道があるようには見えないかも。(実際、地形図にも黒田家跡から藤井家跡への道は描かれていません。)
黒田家跡付近には石垣のある削平地が何段かあり、それらをつなぐ通路も比較的よく残っています。
山城跡を歩くのが好きな私にとっては、楽しい散策。
▲黒田家跡付近に残る石垣(石垣の右側、竹が倒れているところが道)
黒田家跡から北へ進むと、土塀が見えてきました。
藤井家跡の土塀です。その手前の空き地は家守家跡。
▲奥の土塀は藤井家跡で、手前の空き地は家守家跡
藤井家跡の土塀に突き当たって左を見ると、「荒神社 吉備神社←」と書かれた看板が立っているので、それに従って丸太階段の山道を登ります。
▲荒神社と吉備神社への道を案内する看板
丸太階段の道は最後に石段に変わり、荒神社の前に出ました。
▲荒神社(手前)と吉備神社(奥)
姫路市指定重要有形文化財
昭和五八年(一九八三)二月三日指定荒神社
祭神 素戔嗚尊
建立 十七世紀前半
社殿形式 一間社隅木入春日造柿葺姫路市教育委員会
(出典:現地の看板)
荒神社と吉備神社の間には磐座があります。
この磐座は、広峯神社の祭神が最初に降臨した神聖な場所とされているのですが、知らなければ見落としてしまいそうです。
▲磐座
お参りを終えたら藤井家跡まで引き返し、藤井家跡と家守家跡の間を通る道を東へ進みます。
途中、道の左側に立派な石垣と土塀がありましたが、これは内海家跡かな。
▲内海家跡(?)
内海家跡を過ぎると間もなく、広峯神社本殿裏に出ました。
ここには、摂社・末社が並んでいます。
▲本殿裏に並ぶ摂社・末社
本殿裏には「神秘なる『九つの穴』」と書かれた大きな看板もあって、それによると、自分の運命星の守神にお願いをするための九つの穴が本殿の壁に開いているとのこと。
社務所で「九つの穴守り」を受け取り、願い札に願い事を書いて自分の運命星の穴へ投げ入れてから、二礼二拍手一礼で祈願するそうです。
「九星早見表」も看板に書かれているので、自分の運命星を知らなくても大丈夫。
広峯神社の祭神が牛頭天王で、暦を司る神様なのでこのようなサービスがあるようです。
▲本殿裏にある「九つの穴」
ずっとお手洗いを我慢していたので、拝殿の前に戻ってきたらすぐに社務所の東側にあるお手洗いへ。
▲社務所
このお手洗いの裏は駐車場になっているのですが、ここには「谷家屋敷跡」のプレートがありました。
▲谷家屋敷跡は参拝者駐車場になっている
お手洗いを済ませた後、随神門を出て石段を下りました。
そこは下の画像のように道が二股に分かれており、正面は来るときに通った古道、右へ下る舗装道路は車道です。
▲石段を下った先の分岐
帰りは車道を歩くことにしました。
車道を下り始めてすぐ、ヘアピンカーブの頂点にある「憩の広場」へ。
▲憩の広場入口
憩の広場には、あずまやと目薬の木、そして「谷口家の碑」があります。
広峯神社まで車で上がれるようになったのは、谷口家の方のおかげなんですね。
谷口家の碑
谷口家の碑は赤松の一族である赤穂加里屋城主岡豊前守の二男谷口政治 永禄年中当地に移住廣峯神社神官となり和泉守従五位下に叙せられる 以後子孫代々同社に仕う
明治末期に到り十四代徳政は実業界に進出 子孫と共に当地を去るに当り 父祖の慰霊のため姫路市と協力して広峰山の車道を開発また長子政勝は昭和五二年父祖伝来の屋敷並びに山林一万坪を姫路市に寄贈す
本所は その屋敷跡也
(出典:現地の石碑)
車道を南へ進み、鳥居の手前で左(東)へ曲がって駐車場に戻りました。
最後に
今回の散策にかかった時間は、およそ90分。
途中に多少の山歩き要素が含まれるため、今回紹介したルートは誰にでもお勧めできるものではありません。
健脚な方なら、御師の屋敷が建ち並ぶ様子を想像しながら黒田家跡や磐座まで足を伸ばすことで、往時の広峯神社の規模の大きさを体感できると思います。