播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県高砂市の工楽松右衛門旧宅見学

今日もとんでもなく暑くて出かける気になりませんが、何もせずに一日を過ごすと恐ろしく退屈です。
 
どこか面白そうなところはないかなと考え込んでいたら、「以前(2016年8月)、高砂の街歩きを楽しんだときに見かけた工楽松右衛門(くらくまつえもん)旧宅の一般公開が始まったというニュースを最近見たぞ」と思い出しました。
 
工楽松右衛門旧宅は、2016年8月に私が見た時は崩壊寸前のあばらやでしたが、修復工事が完了し、今年6月から一般公開されています。
 
ということで、工楽松右衛門旧宅を見学し、高砂神社で工楽松右衛門の銅像を見て、十輪寺にある工楽松右衛門のお墓を見学するという3つの目的を決めて出かけることに。
 
姫路市街の自宅を車で出発し、国道2号線を東進。
高御位山南麓のイヌイットというお店で美味しいハンバーグを食べ、腹ごしらえを済ませてから工楽松右衛門旧宅へ向かいました。
 
工楽松右衛門旧宅には、14台とめられる駐車場(トイレあり)があります。
 
▲工楽松右衛門旧宅の駐車場(最奥が工楽松右衛門旧宅、右はトイレ)
 
以下のURLをクリックすると、工楽松右衛門旧宅の駐車場の位置がGoogleマップで表示されます。
工楽松右衛門旧宅の駐車場の位置
https://goo.gl/maps/G8rSwk3SC6U2
今は駐車場ですが、この場所はかつて船が入れる入り江のような場所でした。
 
地中には当時の護岸石垣や雁木が良好な状態で残っていたそうで、駐車場西端ではそれらが公開されています。
 
▲高砂南堀川の港遺構(雁木と護岸石垣)
 
高砂南堀川の港遺構(雁木と護岸石垣) 江戸時代~近代
 南堀川は、江戸時代に開削された人工運河で、港町高砂の物流の中心地でした。堀川沿いには蔵が建ちならび、多くの人々や物資でにぎわっていました。
 平成28・29年の発掘調査で、舟から荷物を揚げ降ろしした、幅4m・奥行3.3mの雁木(石階段)や、南堀川西岸の石垣10mが確認されたため、一部を復元し展示しています。
平成30年(2018)3月 高砂市教育委員会
(出典:現地の看板)
トイレを済ませて港の遺構を見学したら、いよいよ工楽松右衛門旧宅の見学です。
 
工楽松右衛門旧宅の案内
 開館日 年中無休
     ※12月29日から1月3日をのぞく
 開館時間 9時00分から18時00分まで
 入館料 無料
高砂市
▲工楽松右衛門旧宅
 
参考までに、修復される前の写真も載せておきます。
 
▲工楽松右衛門旧宅(修復される前の姿。2016年8月撮影)
 
工楽松右衛門旧宅について
 江戸時代後期に建築された、高砂の代表的な商家です。敷地内には、東側に屋根の形がL字形の主屋、西側にはかつて土蔵があり、南側は高塀で囲まれています。
 主屋には、外壁に舟板が使われ、内部に入ると通り庭の吹き抜けの小屋組は迫力があります。1階は、日常生活や商いを行う和室が広がり、客をもてなす空間である座敷が、また、通り庭にはかまどや井戸を備えた炊事場があります。2階には、洋間の応接室があり、その他は子どもの勉強部屋などに使われていました。
 建築後、近代以降も数回にわたる改修や増築がおこなわれています。
(出典:玄関土間のパネル)
 
▲舟板塀(板の形が不規則)
 
▲通り庭の吹き抜け
 
▲おくどさんと井戸
 
工楽松右衛門旧宅は、通り庭に面した「だいどこ」、または「次の間」から室内に上がれるようになっています(土足禁止)。
 
▲だいどこ(左)と次の間
 
▲工楽松右衛門旧宅1階の中の間(手前)と9帖の間(奥)
 
ところで、「工楽松右衛門とは何をした人物だ?」と疑問に思われている方が大半だと思いますので、ここで紹介しておきます。
 
当時の帆船の帆を大幅に改良し、幕府の命による埠頭の建設などを成功させた功績で、商人ながら名字帯刀を許された人物です。
 
初代工楽松右衛門と工楽家
 初代松右衛門(1743~1812)は高砂東宮町に生まれ、若くして兵庫津(神戸市兵庫区)に出て、船乗りとなります。のちに御影屋を名乗り海運業を営みましたが、船の帆布を改良し丈夫で耐久性のある「松右衛門帆」を発明します。
 また、幕府や藩の依頼で、箱館(北海道函館市)や択捉島、鞆の津(広島県福山市)など、全国の港を改修しました。文化7年(1810)に高砂へ居を構えました。
 2代目松右衛門以降も、地元高砂の港を改修し新田を開発するなど、初代の意思を継いで事業を行っています。
 工楽家は、近代には砂糖の問屋などを営みながら、棟方志功などの文化人と交流し、居宅は文化サロンの場にもなっていました。
(出典:現地で配布されている三つ折りパンフレット「工楽松右衛門旧宅 南堀川遺構」)
工楽松右衛門
寛保3年(1743年)~文化9年(1812年)
 高砂は小さな町である この小さな町から「後の世のため」に尽くした工楽松右衛門という人物が出た 町の大小は関係がない 志があるか その志が広く大きなものであるかどうか そして 志を実現するために努力しているかどうか それが大切ではないか
 幼少の頃から改良や発明が好きだった松右衛門は それまでの脆弱な帆布のかわりに播州木綿を使った厚地大幅物の帆布の織り上げに成功し 「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に用いられるようになった また 松右衛門は幕府の命を受けて千島の択捉島に埠頭を築き 函館にはドックもつくった
 これらの功により「工夫を楽しむ」という意味の工楽の姓を与えられ その後も優れた築港技術者として活躍し 高砂港や鞆の浦防波堤などにその足跡をみることができる
 松右衛門の工夫や発明は 松右衛門帆以外に荒巻鮭(新巻鮭) 石船 砂船 ろくろ船 石釣船などもある

高砂市教育委員会編集
風を編む 海をつなぐ <工楽松右衛門物語>より
(出典:高砂神社の工楽松右衛門像前の説明看板)
工楽松右衛門旧宅1階には、松右衛門帆(現代の技術で織られたもの)も展示されており、これは実際に触ることが出来ます。
 
触った感触は、「まるで柔道着」。
 
▲松右衛門帆の質感
 
1階を一通り見学したら、続いて2階へ。
階段は、江戸時代の建物らしい急角度のものもありますが、そちらは立入禁止。
見学者は、角度の緩い安全な階段で上れるようになっていました。
 
1階は江戸時代の建物らしさを感じられますが、2階は洋風で新しい雰囲気。
 
▲工楽松右衛門旧宅2階の板の間(使用人部屋)と8帖の間
 
▲急角度の階段は立入禁止
 
▲立入禁止の階段の壁面は当時のまま(?)
 
2階の応接間には、旧国鉄高砂線が廃線になる前の町並みを再現したジオラマがあったり、10帖の間には、江戸時代末期の工楽松右衛門邸周辺を再現した模型もあります。
 
▲旧国鉄高砂線が廃線になる前の町並みを再現したジオラマ
 
一通り工楽松右衛門旧宅を見学し終えたので、続いて高砂神社へ向かいました。
目的は、工楽松右衛門の銅像を見ること。
 
工楽松右衛門旧宅から高砂神社へ行くには、駐車場の東を南北に通る道を南へ進むだけで、高砂神社南側の表門までの距離は300m弱です。
 
以下のURLをクリックすると、高砂神社の表門の位置がGoogleマップで表示されます。
高砂神社表門の位置
https://goo.gl/maps/PmoQJ2bVcS22
▲高砂神社の鳥居と表門
 
▲高砂神社の拝殿
 
工楽松右衛門の銅像は、表門を入ってすぐ左にあります。
 
▲工楽松右衛門の銅像
 
高砂神社は「相生松」で有名です。
今、境内で見られるのは5代目の相生松。
 
相生松略記
神功皇后の御世に大国主命を祀り高砂神社が創建されてまもなく境内に1本の松生い出でたが、その根は一つで雌雄の幹左右に分かれていたので見る者、神木霊松などと称えていたところ、ある日、尉姥の二神が現れ「我は今より神霊をこの木に宿し世に夫婦の道を示さん」と告げられた。此より人は相生の霊松と呼びこの松を前にして結婚式をあげるようになった。
(出典:現地の看板)
▲5代目相生松
 
最後の目的である工楽松右衛門のお墓見学ですが、境内を歩き回っただけで汗だくになっていたので、体を冷ますために高砂神社のすぐ北にある「スローカフェ・トコトコ」で休憩。
 
工楽松右衛門のお墓がある十輪寺(じゅうりんじ)へは、当初徒歩で向かう予定でしたが、あまりにも暑いため車で向かうことにしました。
 
2016年に一度行ったことがあり、工楽松右衛門旧宅から少し西へ行ったところにあることは覚えていたので、地図をろくに見ずに車を走らせていたら、見事に迷子になりました。
 
細い道をウロウロし、歩いた方が早かったんじゃないかと思いながら、なんとか十輪寺に到着。
 
以下のURLをクリックすると、十輪寺の位置がGoogleマップで表示されます。
十輪寺山門の位置
https://goo.gl/maps/UaG3spAmRh62
駐車場はないので、道幅が広くなっているところに車を置きました。
 
十輪寺に入る前に、お寺の向かい側にある申義堂を見学。
 
申義堂の開館
 開館日 土曜日・日曜日・祝日
     ただし、12月29日から1月3日をのぞく
 開館時間 10時から16時まで
 入館料 無料
▲申義堂
 
▲申義堂の飾瓦(復元)
 
申義堂とは
 江戸時代の文化年間(1804-1818)に、高砂町北本町に創立された学問所です。姫路藩家老河合寸翁(すんのう)(1767-1841)の命により、当時、高砂の大年寄であった岸本吉兵衛が土地・建物を提供した、町民による町民のための教育機関でした。
 高砂の庶民が学んだ郷学(ごうがく)として、教育の原点ともいえる施設です。

申義堂の教育
 申義堂では、こどもたちが、中国の古典などを教材に、まちの大人たちに教わっていました。
 毎日、早朝から正午まで、元旦五節句と毎月5・15・25日の休み以外は、授業がおこなわれていました。
(出典:申義堂のパンフレット)
申義堂が開館している間はガイドさんが常駐されているので、詳しく説明を聞くことが出来ます。
 
▲申義堂内部
 
申義堂前には、姫路城を現在の姿で築城した池田輝政ゆかりの石灯籠があります。
先ほど見学した高砂神社は高砂城跡で、池田輝政はその最後の城主だったそうです。
 
▲旧岸本家織部灯籠
 
高砂市指定文化財
旧岸本家織部灯籠
昭和42年指定
 江戸時代の織部灯籠で、キリシタン灯籠とも呼ばれる。高砂町北本町の岸本家の茶庭にあった灯籠で、平成6年に高砂市へ寄贈された。姫路藩主池田輝政ゆかりの品と伝わる。
 竿は、下部に人物像が刻まれ、上部は張り出す形状である。花崗岩製。
平成28年3月
高砂市教育委員会
(出典:現地の説明看板)
ガイドさんのお話を伺っていたら、開館終了時刻である16時を過ぎていました。
時間を過ぎても親切に対応していただき、ありがとうございました。
 
次は十輪寺にある、工楽松右衛門のお墓を見に行きましょう。
 
▲十輪寺の山門
 
▲十輪寺本堂
 
県指定文化財 十輪寺本堂
指定年月日 昭和54年3月20日
所有者・管理者 十輪寺

 十輪寺は空海の開創と伝えられ、その後一時廃退していた。現在の本堂は寺蔵の『歴代録』によると、中興24世津空悦道上人が、元禄6年(1693)に入山して再建したと記されている。
 建物は桁行9間、梁間8間、向拝3間の二重寄棟造本瓦葺で、3方に広縁をめぐらし、内部を外陣、内陣、後陣、位牌堂に区分し、内陣の左右に脇陣を置く。外観は簡素であるが、内外陣境の欄間の彫刻及び内陣廻りの絵様彩色などは優美華麗で、内部の構造、装飾意匠は文化の燗熟した17世紀初頭の風格をもっている。
 平成2年11月
兵庫県教育委員会
(出典:現地の看板)
 
工楽松右衛門のお墓は、本堂に向かって左側の墓地の奥にあります。
 
以下のURLをクリックすると、工楽松右衛門のお墓の位置がGoogleマップで表示されます。
工楽松右衛門のお墓の位置
https://goo.gl/maps/CkW2zBUDos72
▲工楽松右衛門の墓を示す石柱
 
▲工楽松右衛門の墓は形が珍しい
 
これで当初の目的3つを達成できたので、帰路に就きました。
 
この周辺には、旧国鉄高砂線の廃線跡もあるので、興味のある方は以下のURLからご覧下さい。
高砂消防分署旧庁舎見学と高砂まち歩き(2016年8月21日)

https://dfm92431.hatenablog.jp/entry/2016/08/21/205634