播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県加西市の小谷城跡(218m)

本日も山に出かけてきましたが、行き先は兵庫県加西市にある小谷(こだに)城跡。
 
小谷城(こだにじょう)
 室町時代の山城で、現在は本丸、西小丸、堀等の城跡が残るのみであるが、同時代中期に起こった「嘉吉の乱」(かきつのらん 1441年)により滅亡した赤松直操(あかまつ なおもち)の居城。僧侶であったので竜門院直操(りゅうもんいん ちょくそう)とも呼ばれた。
 播磨・備前・美作の守護大名であった直操の長兄 赤松満祐(あかまつ みつすけ)は、満祐の領地を没収しようとした室町幕府6代将軍、足利義教(あしかが よしのり)を京都二条の赤松邸で殺害し、播磨に戻ってきた。
 直操は、長兄の満祐や実弟で善防山城主赤松則繁(あかまつ のりしげ)等とともに幕府軍の山名・細川・新田勢他と戦ったが、真弓峠(生野峠)の合戦で敗れ自害。満祐も城山城(たつの市)で一族とともに自害。播磨・備前・美作の三国は、山名氏の領地となったが、満祐の実弟 赤松義雅(あかまつ よしまさ)の孫 赤松政則(あかまつ まさのり)が、赤松家を再興し、領地も山名氏から取り戻した。
 小谷城も赤松祐尚(あかまつ すけひさ ?~1542年)が再建し、城のすそ野に祐尚山陽松寺(ゆうしょうざん ようしょうじ)を建立、嘉吉の乱で討ち死にした家臣や一族を供養する墓を境内裏に建て、住吉神社の改築、酒見寺講堂の寄進、更には毎月二と六の日に市場を開設する等多くの善政をしいて領民から慕われた。
 そして、住吉神社裏の五百羅漢も嘉吉の乱で巻き添えをくって亡くなった多くの領民を、供養するためのものではないかといわれているが、明らかではない。
 2012年2月吉日
小谷区
小谷城保存会
(出典:小谷区 公民館前の看板)
小谷(おだに)
 小谷城は小谷町城山にある。その場所は陽松寺の裏にある標高二一八mの山で、地元の人たちは、この山のことを「城山」とよんでいる。山頂に登ると、五つの郭跡の削平地が階段状に並んでいる。一番東の山頂に一の郭(主郭)があり、この五つの郭を空堀と土塁が取りまいている。そして、その下に堀切・土塁、二本の竪堀状のものが二つある。また西へ二の郭・三の郭・四の郭・五の郭と分れ、四の郭と五の郭の間には堀切が一本入っている。この城の特徴としては、スプーンで山を削ったような竪堀状のものが四本あることである。遺構の残存状況は良好である。
 最初の城主は赤松満祐の弟上原民部祐政(赤松義則の次男)であったと次うが、はっきりしたことはわからない。
 嘉吉元年(一四四一)六月の嘉吉の乱に際して、この城を預かったのは満祐の弟直操侍者(義則の五男)だという。直操侍者は龍門寺の禅僧であったが、法衣を捨てて甲冑を着け、大長刀をかい込んで城ノ山城に駆けつけた。満祐は弟伊予守義雅・直操侍者・赤松家の家老上原備後守の三人に、佐用・永良・宇野・富田・粟生らの将士一〇〇〇騎をつけて、但馬口に派遣し、生野峠の手前の田原に陣を取らせた。直操侍者は大山口を守ったが、そこに山名宗全(持豊)の率いる四五〇〇騎が殺到して簡単に打ち破られ、粟賀・田原口での防戦も効なく、搦手口は無残な敗北を喫した。直操は敗戦の責任を負って自害した。赤松一族の敗北によって小谷城は落城して山名軍の手中に落ち、そのまま廃城になったのか、山名方の部将が城主となったのかはいっさいわからない。
(出典:日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社(1981)p403。原文まま)
 
▲小谷城跡の見取り図(山頂の展望台内に掲示されていたもの。)
 
暑いので標高差の大きな山は歩きたくないし、長時間車を運転するのも面倒なので、近場で手軽に歩けて、展望を楽しめる場所で昼ご飯を食べようと考えました。
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「北条」。
 
10:05
姫路市街の自宅を車で出発。
 
国道312号線を北上し、中国自動車道をくぐってまもなくの「福崎大橋西」交差点を右折て県道23号線に入ります。
 
県道23号線を道なりに進み、播但道をくぐってさらに東へ。
加西水上ゴルフを過ぎると道は南寄りに向きを変え、やがて中国自動車道をくぐることになりますが、中国道をくぐる直前を左折します。
 
1.5車線幅の道路を中国道沿いに1kmほど進むと、左後ろへ道が大きく曲がる四差路(右に道はなく、左後ろ、左、直進の3つの方向に道が分かれている)に出会うので、そこを左後ろ方向へ。
 
その道を道なりに進めば、小谷区公民館に出会います。

https://goo.gl/maps/YFJkmAF9khvRt9Xg9

▲公民館前の駐車場の位置
11:00
小谷区 公民館前の駐車場に到着(地図中「P」)。
 
▲小谷区 公民館
 
▲公民館前の駐車場
 
11:04
準備が整ったので出発。
 
公民館に向かって左側の道を北へ進むと、すぐに分岐に出会います。
その分岐は右へ入るのが正解。道標があるので間違えることはありません。
 
▲公民館の北の分岐(右へ入る)
 
分岐から150mも歩けば陽松寺に着きますが、登山口はこの陽松寺の奥(地図中「陽松寺」)。
鐘楼の右から奥へ入ってください。
 
▲陽松寺
 
▲鐘楼の右に道標がある
 
丸太階段が設置された斜面を登ると、地形図にも描かれている池の脇に出ます。
池の周囲を反時計回りに進むと、池の北側で小谷城に仕えていた家臣の墓や、お寺の住職のお墓(卵塔)を見ることが出来ます。
 
▲池の外周に沿って進む
 
▲家臣の墓を示す札
 
▲多数の一石五輪塔と蓋付五輪塔
 
11:12
お墓の先で防獣ゲートに出会うので、ゲートを開け閉めしていよいよ山の中へ(地図中「防獣ゲート」)。
ここが実質的な登山口です。
 
▲防獣ゲート
 
防獣ゲートをくぐって正面を見ても道はありません。
正しいルートは、ゲートを通過してすぐ右です。
 
▲ゲートをくぐってすぐ右に曲がると、溝状にえぐれた道がある
 
えぐれて溝のようになった道をゆっくり東へ歩いて行くと、5分ほどで道が直角に左へ曲がる場所(道標と石仏がある)に出会いました。
 
そこから北へ、丸太階段の道を上ります。
 
▲道が北へ向きを変える地点の様子
 
尾根の中心から左(西)へ少しはずれた場所に付けられた丸太階段の道を歩いていると、ちらちらと右上(尾根の中心)に見える地形が気になる…どう見ても平らで、城跡特有の削平地がありそうな雰囲気。
 
正規の道から外れて尾根の中心を見に行くと、確かに何段かにわたって削平地がありました。
 
▲標高160m付近の尾根上にある削平地(郭跡?)
 
登山道に戻ってさらに標高を上げていくと、道は右へ向きを変えて尾根の中心を通るようになりましたが、そこに削平地らしきものはありません。
 
尾根の中心を通っていた道が左へ向きを変えると道は斜度を増し、最後は少し急な丸太階段の道になります。
 
▲山頂手前の急坂の様子
 
11:27
山頂の西端付近に出ました。
「四の丸」の札が立った削平地で、物置が置かれています。
 
▲四の丸
 
そこから東へ一段上がった削平地は三の丸。
「小谷城跡」と書かれた大きな横断幕が設置されている場所です。
 
▲四の丸から見た三の丸
 
▲小谷城跡の横断幕(ドローンで撮影。大きさの比較のため、私も映り込んでいます)
 
その一段上の削平地は二の丸。
 
▲二の丸
 
11:28
最高所である本丸に到着しました。
 
展望台(あずまや)、北条小学校の校歌碑板、北条小学校 平成29年度3年生が制作した顔出しアート板、展望図が設置されています。
 
▲展望台
 
▲北条小学校の校歌碑板(2017/9/24設置)
 
▲顔出しアート板(2018/3/28設置)
 
▲展望台の東側の様子
 
▲ドローンで撮影した小谷城跡(奥は加西市街)
 

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/kodanijo20180624/virtualtour.html

▲小谷城跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2018年06月24日)
※パノラマ画面左上のリストで「小谷城跡」を選択すると、展望台前で撮影したパノラマ、「小谷城跡(空撮)」を選択すると、ドローンで撮影した空撮パノラマが表示されます。
 
暑いので展望台(あずまや)の中で食事をしようと思っていたのですが、誰もいないはずの展望台の中から「カタカタ」と物音が聞こえます。
 
「何か小動物でも潜んでいるのかな」と思って中を見ると、丸太の椅子(?)にヘビが絡みついていて、先ほど聞こえた物音は、その丸太が揺れてぶつかり合う音でした。
 
▲展望台内にいたヘビ
 
ヘビがいたら落ち着いて食事が出来ません。
しかし、少し目を離した隙にヘビはいなくなっていました。
 
展望台の外へ行ったのか、中のどこかに潜んでいるのかも分からないので、展望台には近づかないようにして二の丸で昼食を楽しむことに。
 
小谷城跡からの景色ですが、北は近くの山並みに視界を遮られているものの、南方面は180度の大展望です。
ちょっと霞んでいたのが残念。
 
▲小谷城跡から見た「アスティアかさい」(中央)と善防山(中央最奥)
 
▲小谷城跡から見た「イオンモール加西北条」(中央)
 
強烈な陽差しが降り注ぐ中、加西市街地や加古川の城山(中道子山城跡)、善防山(善防山城跡)を眺めながら、さらにヘビがいないかどうか、スズメバチやアブが近くにいないかきょろきょろしつつ、美味しく昼食を頂きました。
 
本日のメニューは、アルファ米の「海鮮ビビンバ」とインスタントのフカヒレスープ。
 
▲本日の昼食(韓国製の海鮮ビビンバとフリーズドライのフカヒレスープ)
 
13:00
他のハイカーは誰も登って来ず、思う存分休憩できたので下山開始。
往路をそのまま引き返して下山しました。
 
本当は城跡をもっとよく見たかったのですが、暑さと虫の多さに敗北。
 
登るときはゲートに注意が向いていて気づきませんでしたが、防獣ゲートのすぐ外には赤松祐尚の墓があります。
 
▲赤松祐尚の墓
 
小谷城主 赤松祐尚(すけひさ)とその墓地
 嘉吉の乱(1441)後、小谷城は落城したが、応仁の乱(1467~1477)によって赤松氏が再興すると、赤松祐尚が城主となった。祐尚は、敬神、菩提心の厚い武将で寺社の修築、耕地の整理、市場の開設など領内の治政に尽力し、領民から慕われた。
 小谷城南山麓の禅寺は、天文元年(1532)祐尚が菩提寺として建立したもので、山門には三つ巴と丸に二引両の紋がすえられている。同寺は、祐尚の名をとって「祐尚山(ゆうしょうざん)」と山号を定め、小谷城の東側に朝夕陽光を受けて立っていた老松より「陽松寺(ようしょうじ)」と名付けたと伝えられる。
 しかし、天文11年(1542)播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ったが敗れて討ち死にし後にこの地に追善墓として祀られている。この墓の近くには小谷城の戦いで落命した武士たちを供養した五輪塔・一石五輪塔が林立しており、その一角に五輪墓塔の残欠が集められているなど小谷城の戦いが激しかったことを今に伝えている。
平成26年(2014)年1月吉日
祐尚山 陽松寺
小谷城跡保存会
(出典:現地の看板。原文まま。)
13:18
駐車場に到着。
 
14:15
自宅に到着。
 
登山道に蜘蛛の巣は多かったですが、登山道は木陰が多くて涼しく、標高が低いので簡単に登れますし、山頂からは南方面の展望が良好で、なかなか良い山でした。