播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県姫路市の庄山城跡

警告
今回紹介するルートは、一部の区間で道が分かりにくいところがあります。 
GPSとコンパス、地形図を使わないと、道迷いの心配やルートの誤りによる時間超過の恐れがあります。 
山歩きの初心者の方や、経験者であっても整備された山しか歩かない方、ナビゲーション装備が貧弱な方の挑戦は避けて下さい。
以前から歩いてみたかった山城跡として、庄山(しょうやま)城跡がありました。
庄山城(姫路市飾東町庄、豊国)
【城史】貞和5年(正平4、1349)赤松貞範は、かつて父則村が縄張りを定めた姫山の居城から東方4.5kmに位置する飾東郡星田荘庄山に築城しこれに移った。姫路には一族の小寺頼季を目代として置いたといわれる。貞範は庄山在城25年、69歳で没した。貞範没後、宍粟・熊見城(篠丸城)にいた貞範の嫡子顕則がこれを領するが、2年後に死亡。顕則の第2子則貞が城主となった。その後、則貞は八重鉾山城に移り、則貞の甥貞村が領し、家臣の八杉藤五郎がこれを支配した。
 嘉吉の乱後、山名持豊の家臣原伊四郎が城主となったが、文明元年(1469)赤松政則が再興すると小寺康職が庄山城に入り、其の後2代を経て小寺政隆が御着から移ってきた。享禄3年(1530)政隆は、浦上村宗に攻められ討死。その子則職の家臣長浜長秋が庄山を支配した。
 永禄年間には、別所一門の別所重棟が領したが、天正8年(1580)三木落城後、黒田長興がこれに入った。元和年間には小笠原忠真が支配するが、明石に移り庄山城は廃城となったといわれる。

出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 pp.175-176 
   兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4
この城は姫路市立谷外小学校の北側にある庄山の尾根上に郭群を展開していた大規模なもので、谷外小学校の北東から北に延びる谷が大手道とされています。
 
私にとってこの庄山は藪山で、大手道だった谷間もとんでもない藪になっているというイメージがあり、冬になって藪の勢いが弱まったら挑戦してみようと思いつつ、昨日まですっかりそのことを忘れていました。
 
昨日それを思い出し、天気予報を見ると土曜の方が天気が良さそうだったため、本日は庄山城に出かけることに。
 
庄山の周辺には車を置けるところがない(路上駐車をすれば置けますが、その後どうなっても知りません)ため、利用した移動手段はバス。
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「姫路北部」。城の遺構に関する名称は、現地に掲示されていたプレートを元にしていますが、プレートに書かれている情報の出所が不明なため、正確性は保証しません。
 
庄山城跡の全景は、以下の全天球パノラマからご覧いただけます。
庄山城跡全景をドローンで空撮した全天球パノラマ(撮影日:2018年2月24日)

http://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/shoyamajo_aerial/virtualtour.html
09:30
JR姫路駅北側の神姫バス14番のりばを、74系統(姫路セントラルパーク行)のバスで出発。
 
09:55
定刻から5分遅れて「豊国(とよくに)」バス停(地図中「バス停」)に到着。
運賃¥340を支払って下車しました。
(私は神姫バスの通勤定期を持っているため、土日祝祭日は「エコ定期券」制度*1で1回の乗車が¥100で済むのですが、定期を持ってくるのを忘れました。)
 
バスを降りたら、バス道沿いに北東へ少し進んだ所にある大歳神社のある角を左折。
間もなく谷外小学校に突き当たるので、それを右折します。
 
▲大歳神社のある角を左折して北へ進む
 
▲谷外小学校に突き当たったら右折
 
09:59
すると、左側で山に向かって伸びる道に出会うのですが、ここで驚かされました。
「谷外小学校登山口」と書かれたラミネート加工のプレートが柵に取り付けられていたのです。
 
以下のURLをクリックすると、Googleマップで谷外小学校登山口の位置が表示されます。
 
 
▲登山口となる道
 
▲「谷外小学校登山口」のプレート
 
猛烈な藪ルートだと思っていたのに、整備されている?
これはありがたい。「庄山城の大手道を楽にたどれる!」と喜び勇んで簡易舗装の坂を上りました。
 
簡易舗装の道は30mほどで終わり、尾根に突き当たったところからは幅の広い未舗装の道になります。
 
▲小学校沿いの区間は広い道
 
ところが、このまま谷沿いの大手道跡をたどるのかと思いきや、道は突然右に向きを変えて廃屋(地図中「廃屋」)の脇を通り、北東へ進むことになります。
 
どう考えても大手道ではありません。
 
▲石垣の切れ目で道は右へ向きを変えた
 
上の画像の通り、石垣の切れ目を無視して直進しようとしても笹藪に行く手を阻まれます。
やはり庄山城の大手道は冬でも厳しい藪のようです。
 
廃屋の脇を通って少し上った所で、道は右に直角に曲がります(進路が南東向きになる)。
大手道から離れるどころか、本当に山に登れるのか不安になってしまうようなコースですが、この曲がり角に掲示されていた地図を見て一安心。
 
その地図によると、道はこの先でまた左に向きを変え、従来からあった登山道に合流するようです。
 
しかも、大手道の大部分は通れないものの、いったんピークに登ってから大手道跡を下ることで、大手道にある虎口(こぐち:城の要所を守るための門)や井戸跡も見られる!
 
▲庄山城跡のあちこちで見かけることになる地図
 
これと同様の地図は、ここだけでなく庄山城跡のいたるところで出会うことになりますが、現在地に蛍光ペンでマークが付けられていて、自分がどこにいるのか正確に把握できて便利。
 
地図の他に、城跡の見所ではその内容を説明するプレートにも出会うことになりますが、書かれている情報の出所は不明です。
そもそも、地図などの掲示物には設置主体が誰なのかが書かれていません。
 
今回の記事では、現地で見かけたプレートの内容を一部、参考情報として引用していますが、内容の信頼性は保証しません。
 
また、この地図も含めて、山中の掲示物は耐久性に不安が感じられるものが多く、この先どのくらいの期間残るのかは未知数です。
 
この記事を読んで庄山城跡に行かれる場合、その時にここで紹介したプレート等が残っているかどうかは分かりませんので、冒頭の地図内のGPS軌跡を参考に、各自の判断と責任に於いて行動してください。
 
閑話休題、先ほど見た地図を信じて、しっかり踏み固められた道を南東に進むと、ピンクテープが巻かれた木のある場所で道が左に向きを変えました(正面にも道の跡がありますが、藪になっています)。
 
▲南東向きの道が北へ向きを変える地点の様子
 
10:13
少し急で歩きにくい坂を上ると、平らな場所に出ました。標高100m付近で等高線間隔が広くなっている辺りです(地図中「合流地点」)。
 
ここにはトラロープが張られていましたが、それは従来の登山道(尾根の先端、交番近くに下りる道)へ入り込まないようにするためのもの。
 
「何らかの理由で尾根の先端に下りられなくなったので、今回私が歩いた道が新たに付けられたのかな」と思いましたが、地図には従来の登山口も書かれています。いったいどういうわけだろう。
 
▲尾根の肩では、古い道に入り込まないようトラロープが張られていた(中央が従来あった登山道で、それを塞ぐようにトラロープが張られている)
 
ここからの道は、何度か歩いたことがあります。
結構急な道で、雨水で削られて中央がえぐられたような場所があったり、標高が上がると展望の良いイワイワした区間も出てきます(地図中「展望岩場」)。
 
そのイワイワした場所で小休止をしましたが、今日はモヤがひどくて遠望はまったくききませんでした。
 
▲地図中「合流地点」から主郭跡へ続く道の様子
 
▲展望の良い岩場が続く区間の様子(ドローンで撮影。矢印の位置に私が立っている)
 
▲岩場で得られた展望。モヤがひどい。(中央は谷外小学校)
 
10:32
小休止を終えて展望岩場を出発。
 
主郭の直前で二股の分岐に出会いました(地図中「主郭」西のGPS軌跡の分岐点)。
直進すると主郭で、左へ曲がると大手道のある谷へ下れます。
今回は大手道を目指してこれを左折。
 
▲主郭直前の分岐
 
大手道へ下る道はまだ新しく、歩きにくいところもありますが、要所に設置されているプレートのおかげで迷わず歩くことが出来ます(プレートの耐久性が怪しいので、この記事を読んで庄山城跡に行かれる方は要注意です)。
 
GPS軌跡では、主郭の西側に下った道が北へ曲がっていますが、この場所は広い郭(くるわ:削平地)の跡。
 
その大きな郭跡から北へ進むと、何段もの郭が西向き斜面に作られているのを見ることが出来ます。
 
なお、ここに設置されているプレートでは、これが山岳寺院跡である可能性が示唆されています。
 
このあたり、等高線沿いに細長い平地がいくつも作られています。皆さんが歩いている細長い平地の上の方、下の方にもそのような平地が確認できると思います。普通、山城の平地は尾根沿いにしか作られておらず、この平地はそれより以前の時代に寺などが作られた跡地だと推定されています。石臼や備前焼の破片も見つかっており、人が住んでいたことは確かなようです。
(出典:現地のプレート)
▲主郭西側斜面に残る削平地(左上に1段、斜面の下にも別の広い削平地がある)
 
10:42
設定されているルートに従って歩いていると、大きなくぼみに出会いました。
近くにあるプレートによると、それは「東井戸」(地図中「東井戸」)。
 
東井戸
 二つある井戸のひとつです。石組みが少し残っています。おそらく、深く掘って水が出るという井戸でなく、雨や谷の水を集めて貯める程度だったと思われます。
(出典:現地のプレート)
▲東井戸(赤丸で囲んだ部分)
 
東井戸から少し下ったところには明確な土塁跡があり、プレートでは「堤(つつみ)」と紹介されていました。
 

谷を堰き止める堤の土盛りが、自然地形にはない人工の地形であると分かります。北西の端の高みに小さな平地が作られており、建物があったと想定されます。
(出典:現地のプレート)
▲堤と紹介されていた土塁跡(矢印は土塁の伸びている方向。登山道は真ん中のくぼんだところを通っている。)
 
東井戸の辺りから西向きに谷を下って来たわけですが、この谷が往時の大手道です。
歩きたかった場所を歩けて、あんな大きな井戸跡や土塁を見られて感動。
 
▲大手道が通っていた谷の様子
 
10:48
かつて大手道を守っていた虎口の跡に出会いました(地図中「虎口」)。
石で補強されていたおかげか、食い違い虎口の形状が見事に保たれています。
 
▲内側から見た食い違い虎口
 
▲外側から見た食い違い虎口(矢印が城へ入る際の進行方向。青は岩の向こう側を表している。)
 
さらに大手道跡の谷を下ってみましたが、すぐにロープが張られた場所に出会いました。
そこに付けられているプレートには「行けません」の文字が。
 
谷間の道は大雨などで容易に破壊されてしまいますから、危険箇所があるのかも知れません。
 
▲大手道はこのロープより先には進めない
 
食い違い虎口は谷間の広い郭跡の南端にあります。
その郭跡の北側に笹藪があり、その中に人が一人歩けるだけの切り開きが作られていました。
 
▲笹藪の中の切り開きを通った
 
10:54
笹藪の切り開きはすぐに終わり、虎口跡のような場所を通って郭跡に出ます。
ここにも大きな井戸跡があり、「西井戸」と書かれたプレートがありました(地図中「西井戸」)。
 
東井戸と同じようなくぼみなので、写真は省略します。
 
西井戸のある郭跡からは、トラロープに導かれて西へ登って行きます。
標高差は知れているのですぐに稜線に出ますが、そこは広い削平地で三郭(今で言う三の丸)とされている場所。
 
西側に土塁跡がありました。
 
▲三郭の西側に残る土塁跡(矢印は土塁が伸びている方向)
 
土塁跡のある郭から1段上ったところに「三郭」のプレートがあります。
 
三郭
三番目に高い城郭192.3m、最も面積が広く、より後世の開発と思われます。平面の周囲の直線性や、平面のまわりを少し高くする土塁の痕跡が見られることなども、城郭開発が発達していることが分かります。
(出典:現地のプレート)
三郭の北端は東西方向に走る庄山の主稜線に接しています。
城跡探索としてはここから東へ向かうのが筋だと思いますが、せっかくなので西の三角点ピークに寄り道することにしました。
 
▲三郭近くから三角点ピークを見る
 
三角点ピークへの道は明確で、三角点ピークへの最後の登りだけシダが多くなっていますが、それでも道を覆い隠すような状態では無く、何の問題もありません。
 
11:06
四等三角点ピーク(点名:豊國)に到着(地図中「四等三角点(点名:豊國)」)。
よく見ると、このピークも削平地になっています。庄山城の付属施設があったのでしょう。
 
▲三角点ピークの様子(中央に三角点標石)
 
(モヤでほとんど見えませんが)少しだけ西方面の展望を楽しんだ後、来た道を引き返して三郭へ戻り、そのまま東へ進んで二郭(二の丸)へ向かいました。
 
三角点ピークから東へ下ったあたりで三郭方面を見ると、木々のすき間から広い削平地の形状がはっきり分かります。
 
▲真横から見ると三郭の地表面がよく分かる
 
11:17
二郭の最高部の1段下(西側)の郭の南端に、ピンクテープとプレートが付けられているのを見つけました。
 
どうやら石垣を見に行けるようです。
以前も石垣を見るために藪の中をさまよったことがありますが、結局見つけられませんでした。
 
11:18
ピンクテープのあった場所から1分で、二郭南部の帯郭に到着。
二郭最高部の南側斜面を見上げると、ありました。庄山城では貴重な石垣。
 
何年も前ですが、藪をかき分けて石垣を探した苦労が嘘のようです。
 
▲二郭南の帯郭と石垣(右上)
 
11:20
来た道を引き返してピンクテープの場所に戻り、そこから斜面を登って二郭の最高部に到着。
 
ここはかなり広い削平地です。
 
二郭
二番目に高い197.8m、主郭より面積が広く、より後世の開発と思われます。
(出典:現地のプレート)
▲二郭の最高部
 
二郭から主郭へ行く道は、主稜線の東側の縁に沿って付けられているので、麓を左下に見下ろすように進んでいけば大丈夫です。
 
のろし台付近で左(東)から道が合流する地点がありますが、それは東麓の城山中学校近くから始まる道。
その道については、当ブログの過去記事を参照してください。
兵庫県姫路市の城山(庄山)(城山中~国道372) 2012年4月1日

https://dfm92431.hatenablog.jp/entry/2012/04/01/162250

11:24
のろし台を通過(地図中「のろし台」)。
 
のろし台
昔の人から、ここがのろし台だと聞いているところです。山城どうしは互いに連絡し合える関係をきづいて、非常時に連絡したと思われます。
(出典:現地のプレート)
▲のろし台とされている巨岩
 
11:28
主郭(本丸)に到着しました(地図中「主郭」)。
 
▲主郭跡の様子(左のケルンは谷外小学校の卒業生が卒業記念に作ったもの)
 
▲ドローンで撮影した庄山城全景(矢印の位置に私が立っています。私が立っているのが主郭跡。)
庄山城主郭跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2012年4月1日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/shiroyama20120401/virtualtour.html
今日はモヤが酷いですが、それでも全く景色が楽しめないわけではないので、南東の風景を見ながら昼食を楽しみました。
 
本日のメニューはアルファ米の炊込みおこわと、インスタントの豚汁。
 
▲本日の昼食(尾西の炊込みおこわと、豚汁)
 
12:17
昼食と展望、ドローン操縦を満喫したので、12:47に豊国バス停を出る姫路駅行のバスに間に合うよう下山開始。
 
主郭跡の南西から西へ下ると、すぐに登りに使った道と合流します。
 
後は往路をそのままたどって豊国バス停を目指しました。
 
12:37
豊国バス停に到着。
 
12:50
定刻より若干遅れて到着したバスに乗り、姫路駅に戻りました。
 
山城に興味の無い方は谷外小学校と主郭跡を往復するだけで良いと思いますが、山城が好きな方は時間に余裕をもって、思う存分山の中を探索してみて下さい。

*1:「エコ定期券制度」は、2020年3月末で終了しました。