本日は、4度目の恒屋(つねや)城跡歩きを楽しんできました。
恒屋城
【城史】恒屋城の築城について『播磨鑑』は「恒屋肥後守(伊賀守)光氏が長禄2戊寅年(1458)之を築く」とある。光氏は、北垣聡一郎氏の引用した『恒屋の里』『播磨古城記』によると城主恒屋刑部少輔光稿の長子となっており、光稿がすでに城主と書かれているところからその築城年代はさらにさかのぼることが考えられる。『日本城郭大系』には『赤松秘士録』を引用して光(満)氏が嘉吉の変に赤松満祐に呼応して書写坂本城に参集したことをあげている。嘉吉の変は1441年であるから、それ以前にすでに城主として存在していたことが推測される。恒屋氏の名が文献にあらわれるのは永享元年(1429)とされているが、この頃すでに恒屋城主として居城していたのではなかろうか。しかし、『日本城郭大系』の筆者は光氏の没年が慶長5年(1603)とあるところから坂本城に参集したのは光氏では年代は一致しないとして、父光稿の間違いであろうとしている。
恒屋氏家系によると、恒屋伊賀守光氏は大坪対馬守義勝の実子(2男)となっている。義勝の2男光氏が恒屋光稿の養子となったとするのは北垣氏の説である。 光氏のあとは光成、光誉と続いたが、永正18年(1521)浦上村宗がここに本営を構えて同族赤松氏や山名氏と争うという事が起り、大永(1521~27)の頃に至って恒屋の家臣中にも赤松に属するもの、浦上に味方するものができて混乱を来し恒屋氏の勢力も不振の状態にあった。 天正2年(1574)5月5日光成ら恒屋一族は置塩城に赤松義祐(『播磨鑑』には則房)を攻めたが、白国構主白国治大夫宗把に阻まれて討死した。しかしその後も恒屋の一族は恒屋城を居城としていたらしく、天正年間の羽柴秀吉の播磨攻略の際恒屋氏はこの城に籠って戦ったが遂に落城したといわれている。
出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P227
兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4
▲対応する地形図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「前之庄」。
私にしては珍しく単独ではなく、メンバーは恒屋城跡のある山やその周辺の山々に詳しいH氏、そのお知り合いのN氏や、私のブログをいつもご覧頂いているというOさんご夫妻、樹木に詳しいO氏と私の合計6名。
きっかけはN氏からのお誘いだったのですが、N氏に私のブログを紹介して頂いたのがOさんご夫妻だったそうです。
08:00
姫路市街の自宅を車で出発。
北恒屋公民館に09:00集合というお話だったので、自分の過去のブログ記事を読んで所要時間を確認したところ、30分ほどで到着したこともあれば一時間弱かかったこともありました。
ということで、間をとって45分かかるとみておけば遅刻することはないだろうという判断で、この時間に出発。
国道312号線を北上し、JR播但線の溝口駅の東、セブンイレブンのある交差点(「溝口」交差点)を左折します。
そのまま道なりに西へ進んでいくと、やがて道は北寄りに向きを変えます。この道は県道409号線。
溝口交差点からおよそ3kmで、県道沿いの北恒屋公民館に到達します(地図中「北恒屋公民館」)。
以下のURLをクリックすると、北恒屋公民館の位置がGoogleマップで表示されます。
08:35
溝口交差点にあるセブンイレブンで買い物をしたのに、自宅から35分で着いてしまいました。
ちょっと早すぎるので、車を登山口前の駐車場(地図中「P」)に移動させ、準備を整えてから公民館へ移動。
09:10頃
公民館前でN氏から私を本日参加の皆様に紹介して頂いてから出発。
公民館から70m程北へ県道を進んだ所に「恒屋城跡→」と書かれた標識があるので、そこを右に曲がります。
すぐに丁字路に突き当たるのですが、それを左に曲がると、また先ほどと同じような標識のある路地があるので、そこへ入ります。
▲標識に従って細い道(軽四なら問題なく通れる)へ入る
駐車場へ続く道は細いですが、軽四なら問題なく通れます。
大きめの車で来られた場合は、車を北恒屋公民館前に止めると良いでしょう。ただし、その場合はトラブル防止のためにも「城山登山中」と書いた紙をダッシュボード上に置いて下さい。
09:15頃
恒屋城跡の登山口に到着(地図中「P」)。
以下のURLをクリックすると、登山口の位置がGoogleマップで表示されます。
▲駐車場のある登山口の様子
登山口には掲示板があり、市川流域の山城跡の縄張り図が掲示されていました。
みんなでそれに見入ってから出発。
▲登山口の道標によると、恒屋城跡の最南端(前城)までの所要時間は20分
09:20頃
擬木階段や岩を削った階段状の道を上っていると、標高130m付近で道が右へ向きを変える地点に出会います。
そこには「前城→・お堂→」と書かれた道標が立っているのですが、直進出来そうな道も見えています。
▲正規ルートは右折だが、正面にも道が見える(撮影日:2017年11月26日)
ここでこの山にくわしいH氏に尋ねてみると、昔は普通に歩いていたルートで、二の郭につながっているとのこと。
前城やお堂をすっ飛ばして二の郭に行ってしまうため、直進しないように道標で案内しているようです。
今回は下山時にその道を歩かせてもらえるとのこと。初めてのルートなのでワクワク。
09:30頃
前城(南半分)と後城(北半分)に分かれている恒屋城ですが、その前城の南端に出ました。
ここには恒屋伊賀守光氏が祀られた小さなお堂があり、そのお堂の前には畝状竪堀群が残っています。
恒屋城跡では昭和47年から発掘調査が行われましたが、その際に発見された畝状竪堀は合計70本余りにのぼるそうです。
▲ドローンで南から撮影した恒屋城の前城の様子(撮影日:2017年11月26日)
H氏によると、お正月にはお堂の前で焚き火をするそうで、上の写真でお堂の前に写っている青いビニールシートはそのための薪です。
▲お堂と麓の恒屋集落
H氏のお話では、当初、お堂は瓦葺きだったのが軽量なトタン葺きに変えられたとのことで、この周辺にある瓦はお城関連ではなく、昔のお堂の瓦だそうです。
色々とお話を聞いていると面白いのですが、切りが無いので移動再開。
お堂の後ろにある切岸(きりぎし:山城の防御のための急斜面)に付けられた道を登ります。
▲三の郭南側の切岸に付けられた道を上る
▲三の郭南側の切岸の下には空堀跡が残っている
この切岸の中腹には五輪塔が並べられています。
これが時々転がり落ちるそうですが、地元の方が気味悪がるため、H氏がいつも並べ直しているとのこと。
この城跡から見つかったものとは限らず、麓で農作業中に地中から見つかった石造物も混じっているそうです。
▲三の郭南側の切岸に並べられた五輪塔(撮影日:2017年11月26日)
城が現役だった昔はこの切り岸に道はなかったのでしょうが、今はジグザグの道があるため簡単に三の郭跡の平坦地に登れます。
▲三の郭(中央が少し盛り上がっているのが分かる)
▲三の郭の南端からお堂と畝状竪堀群、麓の恒屋集落を見下ろす
三の郭の平坦地から先へ進むには、郭の北東隅から北へ伸びる道へ入ります。
▲三の郭の東側を通る道の様子
三の郭の北側へ出ると、そこでは後城へ向けてまっすぐに伸びる土塁跡に出会います。
山城好きな方でないと、それが土塁跡だとは思えないかも知れません。
▲土塁跡の上を歩く
土塁の上を歩いていると、唐突に土塁は途切れて目の前に深い堀切(ほりきり:防御のため、尾根を断ち切るように、尾根の方向に対して垂直方向に掘られた大きな溝)が現れます。
▲土塁の先で道を断ち切る堀切を横から見た様子(撮影日:2017年11月26日)
この堀切は東西方向に伸びているのですが、東はそのまま尾根の東へ下っているようです。
しかし、西側は直角に北へ向きを変え、尾根沿いにまっすぐに横堀(よこぼり:尾根の方向と平行に掘られた堀)として伸びています。
そのため、道は堀切に突き当たると左へ向きを変え、すぐに右に曲がって横堀沿いに北へ続いています。
堀切の北にある盛り上がった場所は二の郭。
▲横堀沿いに通路を北へ進む
二の郭の西側を北へ進む道の先で、道は右に折れ曲がって二の郭の北端につながっています。
このような郭の入口を虎口(こぐち)と言います。
残念ながら二の郭は藪になっているため、中には入れません。
H氏によると以前は草を刈っていたそうですが、あまりにも大変な作業であるため、今は刈っていないそうです。
二の郭の西側は、南端付近と中程に張り出した部分があります。
これは横矢掛り(よこやがかり)と呼ばれるもので、二の郭西側の斜面をよじ登る敵兵を側面から攻撃するための場所。
▲横堀沿いの道が向きを変える地点の様子
二の郭の虎口を見たら、主郭への急坂を登って行きましょう。
標高220m付近に「←香寺荘方面・←中村構跡方面」と書かれた看板の立っている場所がありますが、看板の奥に見える細長い平坦地は帯郭(おびぐるわ:斜面に作られた細長い曲輪)でしょうか。
▲標高220m付近に残る帯郭跡
さらに何段もの郭の間を縫うように登りますが、往時はこれらの郭の周囲に柵や塀、虎口には門があった様子をイメージしながら歩くと楽しい。
▲郭群の中を登る
10:07頃
主郭跡に到着しました(地図中「主郭」)。
ここには穴があいているのですが、それは大正時代、宝物が埋まっているという噂を信じた老人が掘った穴だそうです。
宝が埋まっているという都市伝説的な話はその後も受け継がれ、今回の参加メンバーであるH氏も子供時代、学校から帰ってきたら穴を掘りにここまで登ってきていたそうです。
ただ、広い主郭の中でなぜこの場所を掘ろうと思ったのかは分からないとのこと。
▲主郭の盗掘跡を見るメンバー
▲二の郭(右下)から主郭への道の様子(ドローンで撮影)
ドローンで思う存分空撮を楽しんだ後は、Oさんご夫妻から淹れたてのコーヒーとおやつを頂き、のんびりと休憩。
今回はドローンで空撮の全天球パノラマも撮影しました。
主郭跡にはかつて望楼があったと言われているので、そこから見えていた風景に近いパノラマになったかな。
▲恒屋城主郭跡上空(地上高約8m)で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2018年2月18日)
なお、恒屋城跡では鬼瓦が発掘されています。
つまり、往時は鬼瓦を持つほどの立派な瓦葺きの建物が建っていたということです。
山城跡としても広いですし、恒屋氏が最盛期にはかなりの勢力を持っていた事がうかがえます。
11:08頃
下山開始。
11:18頃
二の郭まで下りてきました。
下山には二の郭から直接標高130m付近の分岐につながる道を通るので、その入口を探さないといけません。
二の郭の脇を通る通路の中程で右側を注意しながら歩いていると、分岐がありました(地図中「分岐」)。
今まで3回も歩いているのに全く気づきませんでしたが、道があることを知っていて歩くのとそうでないのとでは、道の見え方が変わってくるのでしょう。
▲二の郭脇の通路から右へ分岐する道の入口
H氏の後に続いてその分岐から右へ入ってみました。
通路から右へ分岐した道を少し進むと、城の施設があったと思われる平坦地を見ることが出来ます(地形図で等高線の間隔が広くなっている場所)。
▲二の郭の西側斜面にある平坦地
さらに下っていくと、溝状にえぐれたやや急な道になりますが(その付近は虎口だったと言われています)、それはすぐに終わり、斜面をトラバースするなだらかな道に変わります。
これだけなだらかで歩きやすい道なら、往時は城に物資を運び上げる際など、日常的に使われていたのかも知れません。
▲序盤は溝状にえぐれた道
▲その後は斜面をトラバースするなだらかな道に変わる
最後は道幅が狭くなり、積もった落ち葉で歩きづらくなりましたが、問題なく「前城→・お堂→」の道標のある分岐で正規の登山道と合流しました。
11:35頃
下山完了。
その後は、恒屋集落内にある十割蕎麦のお店「大寿庵」で美味しいお蕎麦をごちそうになりました。
H氏のお知り合いのS氏も一緒に食事をされたのですが、そのS氏から「恒屋城 歴史をつなぐよもやまつづり(編集:北恒屋自治会 中寺校区地域夢プラン実行委員会 平成23年12月11日)」と題した小冊子まで頂きました。
山頂ではコーヒーにおやつまで頂いたし、気になっていた道をたどれたし、恒屋城に関する資料も頂けたし、最後は美味しいお蕎麦もごちそうになり、大満足の一日でした。
本日ご一緒頂いた皆様、ありがとうございました。