播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県たつの市の城山城(きのやまじょう)跡縦走

注意
今回の山行で歩いたルートは大半が明確な道ですが、前半の一部で道が不明確なところがあります。
下山に利用したコースは、足場の悪い区間が長く続きます。
歩行距離は比較的長めで、累積標高差も大きい(アップダウンが多い)です。詳細は、文末のグラフを御覧下さい。
体力に自信がなかったり、ルートファインディングが苦手な方は挑戦しないで下さい。
本日は、古代山城と中世山城の跡が同居している、兵庫県たつの市の「亀山(きのやま)」へ出かけてきました。
 
亀山を含む山塊は新龍アルプス(合併前の地名で新宮町と龍野市に跨がっているため)と呼ばれており、ここにあった中世の「城山城(きのやまじょう)」は、その北端にある(340.2m三角点ピーク「三等三角点(点名:祗園山)」を出城(祇園嶽城)とし、亀山の主峰の南までのかなり広大な城域を持っていたとされています。
 
城山城
【城史】城山城は赤松則祐が築いたとされている。『教王護国寺文書』巻一の「矢野荘年貢算用帳」によると、文和元年(1352)の頃に城山城築城人夫のことがあり、貞治元年(1362)にも矢野荘から城山城へ材木運搬のことが記されている。貞治2年になると兵糧米や塩が運びこまれているから、ようやく城ができて軍兵が駐留していたことがわかるが、なお倉作人夫や材木が矢野荘から運搬されている。すなわち、城山城は全盛時代の赤松氏の権力をもってしてもなお10年以上の歳月を要したのである。東麓の新宮町馬立に守護屋形があったとされているが、越部にもあったらしく、「於越部、守護屋作、白土持夫十人、二日役粮米」という貞治2年の史料がある。また、新宮町宮内の城が鬼門にあたるため、ここに城禅寺を建てたとされているが、同じく貞治2年の史料に「予守護方、城山本堂修造料人夫三人」とある。両寺の間に何らかの関係があるのでなかろうか。
 嘉吉の変(1441)で書写坂本城を捨ててこの城山城に籠った赤松満祐はすでに敗戦を覚悟していたといわれている。攻撃は山名軍を主力としてこれに細川軍や一族赤松満政らが加勢した。城山城主であった赤松義雅は子千代丸を連れて赤松満政の陣に下り、千代丸の助命を託して自殺した。千代丸は後に赤松家を再興した正則である。嘉吉元年(1441)9月10日城山城は落城、満祐以下一族69人が自刃した。
 落城後100年近くも廃城となっていたが、天文7年(1538)尼子晴久が播磨へ侵入した。晴久は城山城を再興し、天文9年播磨から撤兵するまで3年間ここを本拠とした。このことは天文7年の『鵤荘引付』に英耒大法師が9月27日城山へ罷出て尼子殿に見参したと書かれていることによってもわかる。尼子軍の撤退後再び廃城となった。

出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 pp.233-234 
   兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4
古代の城山城は、私は亀の池を中心とした盆地状のエリアだと思っていましたが、「<新宮町文化財調査報告10>城山城」によると、亀山の三角点ピーク周辺の西側斜面を古代の石塁が取り巻くように作られていることから、古代の城も中世の城も、ほぼ同じような場所を城域として使っていた可能性があるそうです。
 
今回は、北端の三角点ピーク(城山城の出城)に市野保(いちのほ)集落奥から搦め手道と呼ばれているルートで登り、そこから尾根を南へ進んで、亀山の南から兵糧道で東へ下るというルートをたどることにしました。
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「龍野」。
 
09:00
姫路市街の自宅を車で出発。
 
国道29号線を北西へ進み、姫路市とたつの市の境界のある峠を下ったところにある「追分(おいわけ)」交差点を左折。
 
ここからは県道724号線です。
この道を西進し、揖保川を渡ってから「船渡(ふなと)」交差点で国道179号線を越えると、間もなく道は右へ大きく曲がり、北へ進むようになります。
 
馬立(うまたて)橋で栗栖(くりす)川を渡って300mほど北進すると、右側にブリジストンやスズキの看板が上がっているお店に出会います。
このお店のある交差点を左折。
この角(道の左)には「城山城 大手」と書かれた道標もあるので、間違えることはないでしょう。
 
すぐに丁字路に突き当たるので、そこは左折。
後は道なりに右へ大きく曲がり、「城山城跡馬立(大手道)登山口」と掲げられたゲートをくぐって西へ進み、川を渡ると墓地があります。
この墓地に車を止めました。
 
▲登山口のゲート
 
以下のURLをクリックすると、今回私が車を止めた墓地の位置がGoogleマップで表示されます。
 
 
なお、ここから亀山へ登る道(大手道コース)もありますが、今回は使いません。
 
09:33
墓地に到着(地図中「P」)。
 
▲墓地に車を置いた
 
09:39
準備を整えて出発。
北の市野保(いちのほ)集落を目指しましょう。
 
まずは東へ進んで川を渡り、ゲートをくぐってから最初の交差点を左折。
田んぼの中のアスファルト舗装の道を北へ進み、丁字路に突き当たったら左折しますが、道は右へ大きく曲がって北へ進むことになります。
 
▲田んぼの中の舗装道路を北へ進んだ(奥に見えているのは市野保の集落)
 
09:50
田んぼの中にあずまやと案内看板が立っているのを見つけました。
「お玉の清水」と呼ばれる湧き水のようです(地図中「お玉の清水」)。
 
▲田んぼの中にある「お玉の清水」
 
お玉の清水で写真だけ撮ったら舗装道路に戻ってさらにどんどん北へ進み、道が右へ直角に曲がったら、最初に出会う三叉路を左へ入ります。
ここからは集落内を北へ進み、火の見櫓のある丁字路に突き当たったら左折。
 
道が二股に分岐するY字路に出会ったら右へ。ここには道標が立っているので、道を間違えることはありません。
後は道なりに西へ進めば、墓地を通り抜けて祇園嶽城への道へ入れます。
 
▲Y字路に立つ道標
 
10:05
市野保集落の西にある墓地に着きました(地図中「墓地」)。
駐車場から市野保西端の墓地までおよそ1.8kmありますが、ウォームアップにちょうど良いでしょう。
 
ここには古墳群があるらしく、案内地図には古墳の位置が数多く示されていましたが、すぐ北の尾根上に前方後円墳もあるようです。
 
今回は古墳を見ることは目的ではありませんし、時間が惜しいので(古墳に興味はありますが)古墳群は素通り。
 
▲墓地の様子
 
暑くなってきたので、ここでソフトシェルを脱いでTシャツとフリースだけになりました。
 
ここからは、地形図の実線道を信じて唐猫谷(からねこだに)へ向かいます。
 
唐猫谷の名前については、「<新宮町文化財調査報告10>城山城」のp31で、搦手(からめて)がなまったものではないかという可能性が指摘されています。
また、同じページには、この搦め手道を地元の村人が追討軍に教えたから、城山城が落城したという伝説があるとも書かれています。
 
▲墓地から先の実線道の様子
 
西北西へ向かうGPS軌跡が南へかくっと折れ曲がる地点は、轍のある道が左へカーブし、轍のない廃道が直進する分岐になっています。
 
ここは轍のある道に沿って左へ曲がるのが正解なのですが、右を見ると立派な円墳がありました。
墓地で見損ねた古墳を見られて満足。
 
▲道が向きを変える地点にある古墳
 
実線道は小さな採石場のような場所の横を通ったかと思えば、薄暗い植林地帯の中を通ったり、葉を落とした明るい自然林の中を通ったり、コンクリートの橋で小川を超えたり、周囲の様子がころころ変わって、歩いていても飽きませんし、斜度が極めて緩いため疲れることもありません。
 
10:28
地形図に記載されていない分岐に出会いました(地図中「分岐」)。
Y字路になっていて、どちらの道も同じくらいの幅で道標はありません。
 
ここは左が正解。
 
▲地形図に記載のない分岐(左へ進む)
 
先ほどのY字路から道の斜度が増してきます。
 
10:34
「城山城 門の礎石」と書かれた標柱に出会いました(地図中「門の礎石」)。
しかし、どれが門の礎石なのかが分かりません。
 
▲「門の礎石」の標柱(矢印の位置)が立つ場所にある石
 
10:36
なだらかな登り坂を進んでいくと、東屋に出会いました(地図中「出城・亀の池分岐」)。
 
ここは地形図通りに道が二股に分かれていて、直進すると亀の池(きのいけ)、東屋の左側から沢を渡って谷を登ると、出城の堀切へ通じる道へ入れるようになっています。
 
亀の池方面への道の方がはっきりしていますが、せっかく城跡散策に来ているので、搦め手道と言われているルート(道標で「祗園嶽 出城」方面とされている方向)へ進むことにしました。
 
▲東屋のある分岐
 
出城への道は、非常に分かりにくいです。
東屋の裏で沢を渡るのですが、下の写真のような状態なので、渡った後どうすれば良いか分からないと思います。
 
▲東屋の裏の沢の様子
 
▲沢の先でこのような道を探す
 
南東へ伸びる谷間を流れる沢の左岸(上流から下流を見た時の左右なので、この場合は南西側)に道が付いており、赤テープが木に巻かれているので、道を見失いそうになったら赤テープを探して下さい。
 
ここに赤テープを付けた方は上級者のようで、マーキングの数が多すぎず、少なすぎず、不安になる頃にテープに出会うという絶妙な間隔でマーキングが設置されています。
 
▲沢沿いの道は分かりにくい
 
標高200m付近で地図内のGPS軌跡が破線道から離れていますが、これは破線が誤り。
破線の方向に道はありません。
 
ここは2本の谷が合流する地点で、前だけ見て歩いていると右の谷、つまり破線道へ入り込みそうになるので要注意です。
沢を渡って左の谷へ進んで下さい(対岸のトラロープが目印)。
 
破線道から離れて谷間を登って行くと、視線の先に白いものが現れました。公設の道標です。
道標の位置から進路は北へ変わります。
 
▲谷間に設置された道標(この場所で進路を変える)
 
道標の先はどこでも歩けるような広い谷間ですが、祗園嶽の南東にある鞍部(堀切跡)の方向を意識しながら谷を適当に歩いていると、トラロープが張られた道に自然に入ります。
 
11:00
出城南東の鞍部(堀切跡)に出ました(地図中「城山城出城堀切跡」)。
 
▲堀切跡を見上げる
 
この鞍部の北にある340.2m三角点ピークは祗園嶽(ぎおんだけ)と呼ばれており、山頂の西には、城山城の出城と言われている郭群(くるわぐん。郭は山を削って作られた平坦な土地のこと)が残っています。
 
この祗園嶽の山頂から西に延びる尾根上に存在する郭群は、新宮町教育委員会が1988年3月31日に発行した「<新宮町文化財調査報告10>城山城」によると、「A群」として以下のように説明されています。
 
 まずA群は、主郭から1.3km離れた城山最北端の峰(標高340.4m)から西側に伸びる尾根上に営まれた郭群である。大小10ヶ所の郭とそれらを結ぶ通路からなっている。
(中略)
この郭群は、北からのルートである唐猫谷を見下ろす尾根上に位置するが、尾根の高みを避けて尾根の南斜面に設けられており、北側の登山道から見えにくい場所に工夫されている。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p45)
鞍部から北西へ登り返す尾根筋には、郭跡など城の防御施設と思われる形跡は全くありません。
ただの急斜面。
 
汗だくになったので、フリースも脱いでTシャツ1枚で歩きました。
この後は、基本的に休憩時以外はTシャツ1枚。冬でも、歩いていれば暑い。
 
祗園嶽山頂の手前には道標が立っており、左を指して「城山城・出城 80m」、直進方向を指して「祗園嶽 50m」と書かれています。
 
まずは三角点ピークを目指し、その先の展望岩場(地図中「祗園嶽展望岩場」)で一息ついてから、出城の郭群を見ることにしました。
 
▲出城の郭群と祗園嶽山頂方面への分岐に立つ道標
 
11:08
三角点ピーク(三等三角点(点名:祗園山))に到着。
 
その先に進むと展望の良い岩場があり、そこからは、東にかつての出雲街道、南に亀山(457.8m三角点ピーク)を見ることが出来ます。
 
以前、ここで全天球パノラマを撮影したことがあるので、かつてこの出城で見張りの兵が見ていたであろう景色を以下のリンクから御覧下さい。
祗園嶽の山頂で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2013年2月3日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/giondake20130203/virtualtour.html
一息ついたら出城方面への分岐に戻り、出城の郭群(A群)を見に行きましょう。
 
郭群への道はあまり歩く人がいないのか不明確になっていますが、分岐からわずかな距離なので、適当に歩いても問題ありません。
 
▲尾根の南側に一段下がった所に郭群がある(写真の左奥にも郭がある)
 
郭群を見た後は、11:00に通過した堀切跡に戻って南の亀山(城山城の主要部)を目指します。
 
堀切跡から南へ延びる道は、西へ向きを変えるまで尾根の西側斜面に付けられています。
これは、東側の街道から城兵や物資の動きを見られないように、往時から使われていた道でしょうか。
 
道が西寄りに向きを変える辺りからは、道は尾根の中心を通るようになります。
 
▲尾根の西側斜面に付けられた道の様子
 
道が尾根の中心に戻る辺りだけシダが多いですが、それ以外は自然林の中の小径です。
 
11:37
馬立(うまたて)からの道(大手道)が左から合流する地点を通過(地図中「馬立分岐」)。
 
馬立分岐のすぐ先には、「南無阿弥陀仏」と刻まれていると言われる供養碑がありますが、文字は全く見当たりませんでした。
 
▲供養碑
 
さらにその供養碑のすぐ先には、「蛙岩」と標柱が立つ岩があるのですが、標柱の位置が中途半端なので、どれが蛙岩か分からない状態になっています。
 
▲蛙岩(?)
 
▲それともこちらが蛙岩(?)
 
蛙岩のすぐ先にはトイレがあり、トイレの向こうには亀の池方面への道が右へ分岐する場所があります。
 
11:40
亀の池方面への道が右へ分岐する地点に到着(地図中「亀の池・亀山分岐」)。
 
今日はドローンで亀の池の全景を写そうと思っていたので、亀の池方面(近畿自然歩道の公設道標では「奥宮神社」方面)へ入りました。
 
すると、すぐに左側に亀岩と呼ばれる巨岩が現れます。
先ほどの蛙岩と違い、明確にそれが亀岩だと分かります。
 
▲亀岩
 
亀岩の先では、堀切跡に出会いました。
看板があるわけではありませんが、山城好きの方ならすぐに分かると思います。
 
11:44
亀の池(きのいけ)の堰堤に到着(地図中「堰堤」)。
 
ドローンを組み立てていると、男性のトレイルランナーさんが堰堤に来られました。
 
私は彼が走り去るのを待とうとしましたが、彼はドローンに気づいて立ち止まり、ドローンが飛ぶ様子を見てみたいという様子だったので、横で見てもらいながらドローンを離陸させて写真撮影。
 
堰堤の天端から撮影した亀の池の写真はよく見ますが、堰堤の堤体と亀の池の両方が写った、亀の池が小規模なダム湖であることが分かる写真は珍しいと思います。
 
▲ドローンで撮影した亀の池と堰堤(堰堤上にいるのは私とトレイルランナー)
 
トレイルランナーさんにEPSONのスマートグラス「BT-300」をかけてもらい、ドローンからのカメラ映像を見てもらうと、いたく感動した様子。
彼は興奮した様子でお礼を言い、走り去っていきました。
 
11:56
ドローンを片付け、亀山に向けて堰堤を出発。「亀の池・亀山分岐」へ引き返します。
 
「亀の池・亀山分岐」から南へ進む道は、地形図の等高線では分からないような複雑な地形の中を通っていました。
 
▲なだらかな谷間から砂の浮いた斜面(右上)へ進む
 
12:07
砂の急斜面を登り切ると、地図が設置されている小さな削平地に出ます(地図中「展望所跡」)。
ここは昔あずまやがあった場所で、東屋の残骸とおぼしきものが西側の斜面に散乱しています。
 
▲展望所跡の様子
 
展望所跡から南は、祗園嶽から亀の池方面へ向かうときに通ったのと同じような雑木林の中の道です。
斜度はそれほどでもなく、歩きやすい。
 
457.8m三角点ピークの北側斜面では、堀切の跡と思われるようなくぼみ(横に溝がある)を複数見ることが出来ます。
 
12:22
457.8m三角点(四等三角点(点名:亀山))ピークに到着。
広い郭跡ですが、周囲に木々が生い茂り展望はありません。
 
▲三角点ピークの様子(古代城山城の門の礎石「築石」への道標もある)
 
亀山の主峰周辺の郭群について、「<新宮町文化財調査報告10>城山城」では、三角点ピーク周辺がB群、その南のピーク(地形図で「亀山」と書かれている左側)がC群、その南東のピークがE群、B群とE群の間がD群、E群の南で北西から南東に延びる細い尾根上の郭群がF群と名付けられています。
 
この三角点ピーク周辺はB群。
 
 B群は、中心部の3つの主峰のうち最も北に位置する標高458.0mの尾根山頂に立地する郭群である。
(中略)
山頂には比較的大きな平坦地があり、さらに尾根北側には2段ほど削平地が見られ、その先には空堀と堀切りが2重に巡らされている。中でも内側の空堀は、尾根を挟むようにU字状に巡り、特に尾根西側の部分は、その先端部が土塁に直行するようになっている。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p46)
このピークの北西には古代城山城の門があったそうで、その礎石が残っているとのこと。
道標では築石まで5分と書かれています。大した距離ではないので、見に行くことにしました。
 
築石への道は歩く人が少ないようで、雑木林の中を赤いマーキングテープを追って進むことになります。
 
12:25
三角点ピークから3分で築石のある場所に来ました(地図中「門の築石・石塁」)。
 
▲門の築石(奥にもう一つある)
 
上の写真は、尾根の斜面に2つ転がっている礎石を、坂の下から見上げる形で撮影しています。
 
この下側の築石の西の斜面を少し下ると、3つめの礎石が転がっているのに出会うのですが、その横には石塁もあります。
 
▲3つめの礎石と石塁
 
礎石の大きさが実感でき、いつの時代のものかは分かりませんが石塁も見られたので満足し、三角点ピークへ戻りました。
 
次は三角点ピークの南にあるピーク(C群の郭群)を見に行きます。
 
12:34
が、ピークの手前で「石塁C」と書かれた道標に出会いました(地図中「石塁(c)・主郭分岐」)。
 
石塁は、「<新宮町文化財調査報告10>城山城」によると(a)~(d)の4箇所が発見されており、石塁(a)はD群とF群の郭の境目付近、石塁(b)はC群の南西斜面、石塁(c)はB群とC群の間の谷間、石塁(d)はB群北斜面にあり、いずれも谷を遮るような形状で、標高がほぼ同じになっています。
 
つまり、石塁は山の西側半分を鉢巻き状に囲むように設けられているのです。
先ほど見た古代山城の門の礎石とされているものは、石塁(c)と石塁(d)の間の尾根上にあります。
 
道標にある「石塁C」はこれらの中で最大のもので、以下のように説明されています。
 
 (c)の石塁は4つの石塁の中で、最も遺存状況の良いものである。地図を見ても分かるように、2条の谷筋が当地で合流して1条の谷筋になるため、谷幅はやや広くなっている。石塁はこの幅広い谷筋を横断し、さらに北側の山腹に伸びている。石塁全長は現状で41m、高さはおよそ3mを測り、そのうち谷筋は20mを測るので、21mは北側の山腹に伸びている部分となる。しかし、山腹部分では、石塁の高さは1.5m~2mとやや低く、それも端にいくにつれて次第に低くなって最後は消滅してしまう。一方、谷筋の南側では、西方に伸びる尾根上には塁状遺構は認められない。ただ、この尾根を西側へおよそ20m降りた所に、当城では最大規模の堀切りが残っている。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 pp.42)
▲石塁Cの方向を示す道標(写真中央)
 
石塁Cへの道は、最初はピークを巻くような等高線と平行な道でしたが、やがて西へグングン下り始めます。
 
やはりこの道も雑木林の中の赤テープをたどるルート。
 
12:38
石塁Cに到着(地図中「石塁(c)」)。
 
土砂の圧力で膨らんできてはいますが、古代の人々が作った構造物がこれだけ良い状態で残っているというのに驚かされます。
 
それにしても、この石塁の正体は何なんでしょうね。
 
▲石塁(C)
 
「<新宮町文化財調査報告10>城山城」のp43では、郭群の西にある石塁に対応する遺構が東側では一切見つかっていないと書かれていますが、その後の調査で東側にも遺構が見つかったようです。
 
尾根の東側では傾斜変換点に沿って土壇状遺構が連なっている。外周はおよそ1.5~2kmと思われ、既発見の古代山城と比較して規模はやや小さいほうである。

(出典:「姥塚古墳 城山周辺の古墳群と古代遺跡」新宮町教育委員会 2002 p29)
古代の人たちのすごさを実感したら「石塁(c)・主郭分岐」へ戻って郭群(C群)へ、と思いましたが、道はピークの東側を巻いていおり、C群の最高部の郭跡は通りません。
 
 C群は標高452.2mの中央部の主峰山頂とその南側に伸びる尾根上に展開する郭群である。山頂の郭以外は比較的小規模な郭である。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 pp.46-47)
C群のあるピークを東から南に回り込むと、南側の斜面に郭跡が複数作られているのがよく分かります。
 
12:50
C群のピークとE群のピークの間の谷間に広がるD群の郭群に来ましたが、植林されて薄暗く、赤松一族がここで自刃したという史実の影響もあって、かなり不気味な雰囲気。
 
▲赤松一族の供養碑
 
 D群は、C群とE群のある主峰に挟まれた山の鞍部に立地する郭群で、現在最も多くの郭群が発見されている。
(中略)
また、城郭の中心的な位置にあり、地形の許す限り郭は相接して並んでいるので、兵舎や倉庫群であろうと推察される。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p47)
 
地図内で「屋敷跡・供養碑」と書かれた青丸で囲まれている範囲には、屋敷跡とされる広い郭(井戸跡もある)や供養碑があります。
 
D群では、下の画像の道標を探してみて下さい。
 
これに従ってE群のあるピークに向かうと、腰郭のような細い平坦な場所を抜けた先で、礎石が並ぶ郭を見られます。
 
▲礎石建造物址の位置を示す道標
 
 E群は、3つの主峰のうち最南端の標高446.2mの峰に設けられた郭群で、山頂を取り巻く二重の腰郭とその間に配された郭群で構成されている。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p47)
12:56
礎石建造物址のある郭跡に来ました(地図中「礎石建造物址」)。
 
▲礎石建造物址
 
この郭の先にも往時の通路と思われる道が残っているので、ぐるっと回り込んで東端の郭跡も見学しました。
 
というのも、もし展望が良ければそこで昼食を食べようと思ったからです。
残念ながら、木々が生い茂っていて展望が得られなかったので、昼食休憩は先送り。
 
先ほどの「礎石建造物址」を示す道標まで戻り、道標の別の面に書かれた「下野田へ」の矢印に従って「兵糧道(ひょうろうみち)」と呼ばれるルートで下山を開始することにしました。
 
まだF群の郭を見ていませんが、F群は実際に見に行かなくても、兵糧道を下りながら見上げることが出来るのです。(お腹が空いて早くご飯を食べたかったので、F群を見に行くのが面倒になったというのは秘密です。)
 
 F群は、南から尾根伝いに攻めてくる敵兵と、下野田から「兵糧道」を登ってくる敵兵の両方に対する防御施設である。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p48)
▲兵糧道の様子(F群の直下)写真には写っていませんが、右を見上げるとF群の郭が見えます。
 
木々を通して見上げるF群の郭は、いざ戦闘となった場合は兵糧道にいる自分が格好の的になることがよく分かる恐ろしい配置になっています。
 
射程の短い弓矢であっても、打ち下ろしであれば飛距離と威力を稼げますし、城兵からは、兵糧道を上がってくる敵兵が丸見えです。それなのに、兵糧道からはF群の郭の縁しか見えません。
 
まだお昼ご飯を食べていませんが、もう少しの辛抱です。
兵糧道には、見張り岩と呼ばれる、いかにも展望の良さそうなスポットがあるらしいことを事前に調べていたので、そこに着くまで我慢。
 
▲見張り岩までの兵糧道の様子
 
忘れっぽい私のことなので、見張り岩の正確な位置が書かれた地図を持ってくるのを見事に忘れていました。
 
13:16
「見張り岩はどこだー」と独り言を言いながら沢沿いの道を下っていると、突然視界が開けました。
見張り岩に到着したのです(地図中「見張り岩」)。
 
▲見張り岩
 
狭い岩場ですが、他に誰もいないので荷物を広げても大丈夫そうですし、これだけ景色が楽しめれば充分です。
 
本日のメニューは、日清のカレーメシ。
断熱性のあるカップに入っているので、寒い冬の山の中でも、暖かい状態で長時間楽しめます。
 
▲本日の昼食
 
アルミやチタンのクッカーで作った食べ物は、冬場はすぐに冷めてしまうので苦手。
冬は、カップ麺のような断熱性能の高い容器に入った食事が最適です。
 
13:43
下山再開。
 
いったん南へ進みますが、すぐに北へ向きを変え、東西に延びる谷筋に突き当たります。
 
13:47
谷筋には表面が金属板で覆われた丸太橋がかかっていて、それで沢を越えました(地図中「金属橋(1)」)。
 
この場所は、北側斜面に石積みが残っています。
視線をかなり上げないと見えませんが、城跡好きの方は見落とさないようにして下さい。(城跡に関係のある石積みなのかどうかも分かりませんが。)
 
ここからは谷筋に沿って東へ下るのですが、路面がガレガレでとにかく歩きづらい。
落ち葉と浮き石の最強コンビに足を取られます。
 
足下に注意しながら歩いていたら、こんな遺構に出会えました。
 
▲階段状に積まれた石
 
14:02
また金属板で覆われた橋に出会いました(地図中「金属橋(2)」)。
 
▲表面に金属板が張られた丸太橋
 
▲兵糧道の様子(振り返って撮影)
 
14:06
3つめの金属橋を通過(地図中「金属橋(3)」)。
 
標高150mを切ったあたりからは、道が沢から離れて多少歩きやすくなってきます。
 
14:13
右手に砂防ダムを見ながらどんどん下ります(地図中「砂防ダム」)。
 
14:15
石積みや削平地を右手に見ながら下っていくと、防獣ゲートに出会いました。
大きな扉を開閉しなくても済むように、人が通れる扉が付けられているのが珍しい。
 
ようやく下山完了です。
 
▲兵糧道の登山口となる防獣ゲート(人が通るための扉があるので、開閉が楽)
 
14:18
防獣ゲートを出ると、左側に石垣が見えました。
よくみると、神社の跡のようです。
 
防獣ゲートの手前で石積みや削平地を見ましたが、この神社跡に関連するものなのかな。
 
▲神社跡
 
後は駐車場に戻るだけ。
 
兵糧道の登山口からコンクリートの橋を渡って南へ進むと、橋(下野田橋)があります。
下野田橋で栗栖川を渡り、1車線幅の車道を川沿いにおよそ800m北進すれば、馬立橋。
 
▲馬立橋へ続く道の様子
 
馬立橋から駐車場までの残りの距離は、およそ700mです。
 
14:41
駐車場に到着。
 
本日はF群を除く城山城の全体を見て回ったことになりますが、規模は次のようなものです。
 
 現在確認されている郭群は以上の通りであるが、城山城の主たる郭群は南北550m、東西250mの範囲に分布していることになり、さらに北の出城や南側の番小屋的なものも含めると、その城域は実に南北2km以上に及ぶ広大なものとなる。

(出典:「<新宮町文化財調査報告10>城山城」新宮町教育委員会 1988 p49)
▲本日歩いた山塊を、東側の屏風岩上部から撮影した写真(撮影日:2016年12月17日)
 
▲本日のルートの断面図