播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県加西市の善防山城跡(烏帽子岩コースを歩く)

ゴールデンウィーク最終日の本日は、兵庫県加西市の善防山(ぜんぼうさん)城跡へ登ってきました。
 
善防山城
 善防山城は、善防山(標高251m)の山頂にある。この山は、凝灰岩の岩質であるが、一の郭は、いわば城の主郭にあたる所で、腰郭が渦巻状に周囲を二重・三重に取り巻いている。そして、その郭の下に三カ所ほど石垣の一部が残っており、井戸らしい所も一か所残っている。また二の郭と一の郭との間には、削平地が二か所と、小堀切が残っており、三の郭も削平地だけが残っている。この三の郭は一の郭への連絡場所ではなかったかと思われる。さらに四の郭は小さく三段ぐらいに分かれているようにみうけられるが、低い所に石垣が一か所と虎口らしきもの一か所のほか、土塁も残っている。この四の郭は街道の押さえではなかったかと思われる。
 室町時代の応永年間(1394~1428)に築城されたらしいが、史料不足のため、はっきりしたことがわからない。城主は赤松刑部(左馬介)則繁という。赤松義則の八男で、満祐の弟である。則繁は若い時から乱暴者で、応永31年3月、京都の細川持之の邸内で安藤某を殺害するという事件を起こし、将軍足利義持は激怒して則繁に切腹を命じたが、逐電し、義持の死後、ようやく許されて出仕したという前科がある。嘉吉の乱(嘉吉元、1441)で将軍足利義教の暗殺に成功すると、兄義雅も則繁も京都の邸を自焼して満祐に従って播磨に帰った。則繁は満祐からもっとも信頼されていた弟で、兄の命を受けて備中井原庄善福寺に足利直冬の孫が僧となって世を忍んでいたのを迎えに行き、書写東坂本の定願寺を仮御所とした「井原御所」義尊の擁立に成功した。則繁は追討軍に備えて美作口を守るはずであったが、実際に美作口を固めていたかどうかよくわからない。満祐と共に城ノ山城で全体の指揮をとっていたらしいふしもある。善防山城の城主が則繁だとしても、嘉吉の乱以前は京都にいることが多かったし、乱中は城ノ山城にいて、城にはわずかの留守部隊しか残っていなかった。城主のいない善防山城は山名軍に簡単に破られ、落城した。落城した時、則繁は室津に落ち延び、さらに倭寇となって朝鮮に渡り、清水将軍と名のって沿岸を荒らしたが、やがて九州に帰って少弐教頼と共に大内政弘を攻めたが、敗れ、播磨に帰った。が、すでに山名領国となっていてどうすることもできず、河内の畠山氏を頼った。これを知った幕府は、細川持常を派遣して則繁を討たせた。文安5年(1448)8月8日、則繁はその隠れ家の当麻寺を囲まれて無念のうちに自殺し、その首は京都で梟された。嘉吉の乱後、7年もたっている。
 善防山城は山名氏が代わって城主を入れたのか、または落城後、廃城となったのか、それもわからない。
 
出典:日本城郭大系 第12巻 昭和56年3月15日初版第1刷発行 pp.404-405
   発行所:株式会社 新人物往来社 編集所:株式会社 創史社
 
最近、善防公民館前に新しく登山口が設けられ、烏帽子岩と呼ばれる岩のある急峻な尾根を登って善防山城の四の郭に達するルートが整備されたと聞き、是非歩いてみたいと思っていたのです。
 
公民館前に新たに出来た登山口から登り、城跡を東から西へ縦断して吊り橋、または駐車場の少し北へ下りる破線道で下山するというルートを予定。
が、実際は下の地図のようなルートで歩くことになりました。
 
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「笠原」
 
09:30
姫路市街の自宅を車で出発。
 
国道372号線を北東へ進んで「善防」(ぜんぼう)交差点を左折し、県道43号線に入ります。
続いて「王子町」交差点(三差路)を左へ入ってしばらく走ると(王子町交差点からは県道81号線)、右側に善防中学校が見えてきます。
 
この中学校の前を通りながら道の左側を注意して見ていると、「古法華自然公園・古法華石仏 1km」と書かれた看板のある三差路があるので、それを左へ。
 
一直線の道路を進むと道は急な上り坂になりますが、その手前左側に駐車場があります。
 
駐車場の位置は、下のURLをクリックするとGoogleマップで表示されます。
 
 
10:10
古法華自然公園の駐車場に到着(地図中「P」)。
 
善防公民館の駐車場を利用しても良いのでしょうが、下山予定地がこの近くなので、こちらの駐車場に車を置くことにしました。(しかし、結局は公民館前に止めた方が良かったと後悔することになります。)
 
 
▲古法華自然公園東側の駐車場
 
10:14
準備を整えて駐車場を出発。
 
県道81号線に出て東へ進み、善防公民館前(地図中「公民館」)が近づいたら、登山口を探すため道路の右側(山側)を注意深く観察しながら歩きます。
 
 
▲加西市善防公民館
 
10:30
公民館前を通り過ぎ、道路が右カーブを描き終わるころ、ようやく登山口を見つけました(地図中「登山口」)。
この登山口は、地形図に描かれている実線道が県道81号線と出会う場所にあります。
 
以下のURLをクリックすると、烏帽子岩コースの登山口の位置がGoogleマップで表示されます。
 
 
 
▲烏帽子岩登山口
 
南西に延びる地形図の実線道が登山道で、黄色いテープでマーキングが付けられています。
 
 
▲登山口から登山道(実線道)を見る
 
この道は道沿いに不法投棄のゴミ(目立つのは割れた瓦)がたくさんあり、歩いていて気持ちの良い場所ではありません。

道幅が広いため蜘蛛の巣はありませんが、羽虫が鬱陶しい。
 
もうすぐ実線道が終点になるという頃、登山コースは実線道を離れて左へ曲がります。
実線道はまだまっすぐ続いているのですが、木の枝で通せんぼされていて、左へ曲がるよう沢山のマーキングテープで誘導されるのです。
 
 
▲実線道からは終点の手前で離れる
 
左へ曲がるとすぐ、水の流れで深くえぐられた沢を越える場所があるのですが、そこには丸太橋が設置されていました。
まだ新しく、手すり代わりの丸太もあるため、見た目に反して安全に渡れます。
 
 
▲丸太橋
 
10:40
丸太橋を渡ったすぐ先で「烏帽子の滝」と書かれたプレートに出会います(地図中「烏帽子の滝」)。
よーく見ると、左奥にちょっとした滑滝のようなものがありました。
 
 
▲烏帽子の滝のプレート(左奥に濡れた岩肌が写っている)
 
この沢を登っていくのかと思いましたが、道があるようには見えません。
周囲を見ると「烏帽子の滝」のプレートの手前で道は左へ直角に折れ曲がり、急斜面を登るように設定されていました。
 
▲急斜面に付けられた丸太階段とトラロープ
 
10:44
急斜面を登り切った所には、岩肌に白い塗料で矢印が描かれています。
それに従って一旦北へ進み、すぐ右へUターン気味に曲がると、烏帽子岩が視界に飛び込んできました(地図中「烏帽子岩」)。
 
展望が良いので、ここで小休止を兼ねてドローンで遊ぶことにしました。
 
 
▲烏帽子岩を見上げる
 
 
▲2014年3月2日に南東の尾根から撮影した烏帽子岩
 
 
▲ドローンを使って本日歩く尾根を撮影した画像(赤矢印が歩くルート)
 
11:04
烏帽子岩を出発。
岩肌に描かれた矢印に従い、烏帽子岩の右側を通って烏帽子岩の先へ進みます。
 
烏帽子岩からしばらくは道の両側の植物は背が低く、標高が上がっていくと両側の植物の背が高くなります。
 
 
▲烏帽子岩を過ぎてまもなくの道の様子
 
 
▲四の郭近くの道の様子
 
両側の植物の背が高くなるとこの時期問題になるのが蜘蛛の巣です。
ちょうど登山者の顔を狙うかのような高さに蜘蛛の巣が作られており、数もすごい。
 
大きな岩の間を通るような場所や、岩で段差が出来た場所を通過すると、四の郭北側の郭群に出会います。
それぞれの郭は大きくはありませんが、形が明確に残っていてワクワクしながら歩けました。
(注)
郭…くるわ。曲輪とも。尾根や峰を削って平らにした空間。削平地。周囲を塀や柵で囲い、戦時は中から敵に矢を放ったり槍で突いたり叩いたりといった攻撃を行う。広い郭だと小屋や倉庫、櫓を建てていた。
 
切岸…きりぎし。山城は斜面にあるので、郭を並べると階段状になる。その郭と郭の間の段差のこと。敵が容易に登れないように急坂にする。
 
虎口…こぐち。郭の入口のこと。敵が一気に攻め込めないように、複雑に折れ曲がっていたり狭くなっていたりする。
 
 
 
▲四の郭の北側尾根上に並ぶ郭群(画像では立体感が分かりません。山城好きの方は、是非現地で実物を見て下さい。)
 
11:20
四の郭の最上部に出ました(地図中「四の郭」)。
四の郭の西側の切岸は、石積みになっています。
 
 
▲四の郭西側の石積み
 
四の郭から三の郭へ向かう途中には、通路を狭めるような大岩があり、善防山城が自然の地形をうまく防御に活用していたことが分かります。
 
 
▲四の郭と三の郭の間にある岩(左は崖)
 
11:23
三の郭を通過(地図中「三の郭」)。

三の郭から一旦下って登り返すと、一の郭(主郭)です。
一の郭へ登る坂の途中には虎口跡(?)があり、そこにも石積みがありました。
 
 
▲一の郭東側の虎口跡(?)
 
11:27
一の郭に到着(地図中「一の郭」)。
 
 
▲一の郭最上部(北向きに撮影)
 
 
▲一の郭をドローンで北から撮影した画像(撮影日:2017年2月12日)
善防山城跡の一の郭跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日2016年3月21日)
 
前回(2017年2月)来たときにはありませんでしたが、一の郭には展望図のパネルや善防山城の歴史や縄張り図が書かれたパネルが設置されていました。
 
善防師城と赤松氏
【立地】
 善防山は標高251m、眼下に東播磨地域を展望し、南には京街道が通り、東には但馬から高砂へ通じる道が交差する戦略上の要所である。
【築城】
 『赤松・佐伯氏系図』によると、南北朝時代の貞和2年(1346)、備前・播磨・摂津の守護赤松氏2代目範資播州加西郡笠原庄善防師城築城とある。 城は築城後に2度の改修の痕跡が見られるが、改修時期については不明。
【嘉吉の乱】
 「一献両三献、猿楽始まる時分に内方とどめく…、武士数輩出て即ち公方を討ち申す。管領、…某外人々右往左往して逃散、御前にて腹切る人なし。赤松落行き追懸けて討つ人なし…、諸大名同心かその意を得ざる事なり。所詮、赤松討たるべき御企て露見の間、遮って討申すと云々。自業自得果たして無力の事か。将軍の此の如き犬死、古来その例を聞かざる事なり。」『看聞御記』
 
 嘉吉元年(1441)播磨守護赤松満祐は、「万人恐怖」とも称された六代将軍足利義教が赤松一族の家督・領国争いに介入、寵臣の赤松貞村に肩入れして、領国を奪おうとする企てを知り、また弟の義雅の全所領が没収された憤懣から先手をとり、結城合戦の祝勝にかこつけて将軍を屋敷に招き殺害した。播磨に向かう赤松一門へ何故か諸大名は追討しなかった。
 やがて幕府のお令れにより細川・山名の追討軍が播磨に攻め寄せ、山名氏を中心とした追討軍に敗れた赤松一門は城山城(たつの市)に籠城し自刃(満祐69歳 他64名)、赤松氏は没落した。
 乱後、播磨は山名氏の支配下となるが、続く応仁の乱(1467~1477)で満祐の遺児赤松正則は細川氏に味方し宿敵山名氏を破り、長享2年(1488)赤松氏再興を成し遂げた。
 善防師城主赤松則繁は合戦時但馬口で山名軍と対峙しており、この城に防衛軍は居なかったと推測される。更に、籠城していた則繁は赤松家再興を期して城を脱出し、室津から筑紫さらに朝鮮国に渡り倭寇となり勢力を回復帰朝し、文安5年(1448)肥前国で大内氏と戦い敗れている。(則繁46歳、則繁の子孫とされる赤松・佐伯氏の初代からの墓所が南側山裾にある)
 
《参考資料》赤松・佐伯氏系図 加西郡史 令分社 日本史資料集 岸本一郎氏研究資料
下里地区ふるさと創造会議
(出典:一の郭跡の看板 原文まま)
 
 
▲善防師城の縄張り図(出典:一の郭跡の看板)
 
この看板では善防「師」城とされていますが、善防「山」城とどちらが正しいんだろう。
 
今日は黄砂の影響もあって空気が霞み、遠望はききません(六甲山塊はほぼ見えず)。
それでも、北側は相変わらずの好展望なので、この景色を楽しみながら昼食を摂ることにしました。
 
本日のメニューは、無印良品で購入した「ごはんにかけるユッケジャン」。
これを、自宅から持ってきて湯煎で温めた白ご飯にかけて美味しく頂きました。
 
 
▲本日の昼食(ごはんにかけるユッケジャン)
 
食後、縄張り図を眺めてみると、一の郭の北側の尾根上にも削平地がたくさん描かれています。
一の郭の最上部からその尾根を見てもただの自然林で、郭の形はまったく分かりません。
 
12:25
北側の尾根の様子を偵察しようと思い、一の郭跡を出発。

一の郭最上部の西側から北の尾根へ向かうと、往路で見かけた黄色いテープのマーキングが目に入りました。
「もしかして、こちらの尾根も道が整備されているのか?」と期待して斜面を下ると、果たしてしっかりした道が付いていました。
 
そしてその道を進むと、縄張り図に描かれていた通りいくつもの削平地が並んでいます。
こちらの尾根にある削平地は、往路で見た四の郭の削平地と違って広い。
 
 
▲一の郭北側尾根の削平地の一つ
 
最上部から3分ほど下ったところの郭跡で、大きな岩に出会いました。
岩の向こうへ回って進もうと思いましたが、道がありません。
 
 
▲郭跡に残る大岩
 
岩の手前まで引き返して右を見ると、道は右へ直角に折れ曲がり、またすぐ左へ折れて続いていました。
この郭の虎口だった場所かな。
 
その先で振り返って切り岸を見上げると、かなりの高さになっていました(写真を撮りましたが、立体感が無く何の写真かさっぱり分からないので、掲載していません)。

この高い切岸が、城の内と外を区切る境目になっていたのかな。
 
城跡を出ると、後は自然林の中の緩やかな下り坂。
道も明確で歩きやすい。蜘蛛の巣さえなければ快適です。
 
 
▲破線道の様子
 
12:54
標高100m付近まで下ってくると、乾いた砂の斜面になりました。
白い砂に覆われた斜面なので、道が見えません。
 
 
▲どこでも歩けそうな白い砂の斜面
 
よく見ると、低木に黄色いテープが巻かれています。
注意深くテープを探しながら、滑りやすい斜面を進んでいくと、間もなく進行方向は公民館の方を向き、道は森の中へ。
 
 
▲砂の斜面に付けられたルートをたどると、公民館(左上)の方へ進むことになる
 
13:01
最後はシダ藪の中の切り開きを通って公民館の前に出ました(地図中「下山地点」)。
 
 
▲シダ藪の中の切り開きを歩いた
 
この下山地点には看板も道標もありません。
知っている人でなければ、こちらから登ることは不可能です。
 
 
▲公民館入り口前から下山地点を見る(中央奥に下りてきた)
 
この後は、「公民館に車を止めておけば良かった」と後悔しながら、とぼとぼと駐車場へ戻りました。
 
13:14
駐車場に到着。
帰路に就きました。
 
あまり知られていない善防山城跡の郭群を2つも見ることが出来て、善防山の(私にとっては)新しいルートを2つも歩けて、充実した山歩きになりました。
 
本文中にも書いたとおり、この時期の低山は蜘蛛の巣がものすごいです。
また、一の郭はクマバチがたくさん、けたたましい羽音を立てて飛んでいますし、座ったり手をつこうとした場所によく注意しないと毛虫がいたり、小さな虫や風で飛んできた細かい木くず、木から落ちてくる小さな花(?)の房のようなものが食器に入り込みますし、襟元からそういったものが入ったことに気づかずバックパックを背負うと背中がチクチクしたり、春の山歩きはなかなか大変です。