播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県加古川市の城山(中道子山城跡)

今日は加古川市の志方にある城山(中道子山:ちゅうどうしさん)に登ってきました。
ここは以前にも登ったことがあるのですが、その時は車道と擬木階段の道(本道)で往復するという味気ないルートでした。
 
今回は旧道で登り、下山のルートはその時適当に考えるというおおざっぱな予定。
結局、主尾根を北西へたどる周回ルートで歩くことになりました。
 
この山には、かつて中道子山城がありました。
 
中道子山城(加古川市志方町岡山庄通称城山)
【城史】
 中道子山城は赤松氏則、あるいは孝橋繁広によって室町時代初期に築城されたとされるが、今のところ確証はない。ただ孝橋氏が中道子山城を持っていたことは確かであろう。天文7年(1538)尼子詮久が播磨に侵入した際、孝橋平左衛門が櫛橋豊後守と共に英賀城において尼子軍を迎え撃ったが敗れ、共に中道子山城に撤退している(『高橋家文書』)ことが見えている。その後の中道子山城についても明らかにされておらず、『古城軍記』には「天正中羽柴秀吉のために断絶す」と記しているが、『信長記』『太閤記』にこのことは見えない。
 城跡に関する伝承がいくつか地元に伝わっている。城内の井戸(現存)に落ちて死んだ姫君の幽霊が、「わしの櫛や笄知らんか」と言って出る。羽柴秀吉の攻撃を受けて城跡周辺に筍の皮を敷く、竹の皮合伝説。同じく秀吉に攻められている時、「たいの坂」で鯛をかざして城内に食料があることを誇示する伝説。落城の時、乳母が姫君を連れて逃げた、等である。
 
(出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 pp.112-113    兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4)
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「笠原」「加古川」
 
10:00
姫路市街の自宅を車で出発。
 
国道372号線を東進し、播但道をくぐって間もなくローソンのある交差点(信号あり)に出会うので、それを右折します。
これで県道65号線に入りました。
 
県道65号線をぐんぐん東へ進み、「志方皿池」交差点を左折。
この南北の道路は県道515号線です。
 
県道515号線を北へ400m進んで「志方小学校前」交差点を直進します。
志方小学校前交差点の60mほど先に信号の無い三差路があるので、それを右へ入って下さい。
この道は県道118号線。

これを道なりに進み、「志方東小学校東」交差点を直進して県道118号線を離れる(県道118号線は左折)と、今回の登山口まではあとわずか。
 
田んぼを右手に見ながら集落内の道を700mほど走れば、「城山登山道入口」と書かれた道標のある三差路に出会います。

これを左折して1車線幅の道路を少し進むと、登山者用の駐車場に到着。
 
 
▲登山者用駐車場へ入る三差路の様子(ここを左折)
 
下のURLをクリックすると、駐車場の位置がGoogleマップで表示されます。
 
 
10:45
駐車場に到着(地図中「P」)。
靴を履き替えたり、GPS受信機の衛星捕捉を待ったり、山歩きの準備を整えます。
 
 
▲駐車場の様子
 
駐車場には「官兵衛の妻 光(てる)ゆかりの地 志方の城山(中道子山城)」と題された看板が立っています。
 
官兵衛の妻 光(てる)ゆかりの地 志方の城山(中道子山城)
志方町の東の端に位置する山で、山頂には中世の城跡があります。室町時代に赤松一族が築き、約170年間続いた東播磨で有数の城跡です。軍用金埋蔵にまつわる歌や、羽柴秀吉の播磨攻めの時、敵の侵入を防ぐ目的で山腹に竹の皮を敷き詰めたが火を放たれ、兵糧米をまいて鎮火に努めたものの、落城に至ったという伝説が残っています。山頂への登山道は整備され、頂上からの眺望はすばらしく、北に七ッ池、東に権現ダム、西に高御位山、南は播磨灘まで見渡せる絶景です。
加古川市
(出典:駐車場の看板)
 
工事の案内看板も立っていて、山頂に放送設備を新設するために、本道と呼ばれる登山道に荷物搬送用のモノレールの軌道が敷設されていることが説明されていました。
 
工事期間は、掲示によると2017年1月30日~2017年5月末(完工予定)とのことです。
 
10:54
出発。
駐車場から北へ進み、車止めのある車道へ入ります。
 
 
▲車止めがある道へ入る
 
ここからしばらくは、1車線幅の舗装路歩き。
 
途中、新しい柵が道路脇に立てられているのを見ましたが、「何のための物かな?」と思って柵の外を見ると、太陽光パネルが山肌に設置されていました(地図中「太陽光パネル」)。
太陽光発電施設への進入や車両の転落を防止するためのものでしょう。
 
道を歩きながら左側の山肌や右の道路の下(谷)をきょろきょろ見ていると、石積みのようなものをいくつか見つけることが出来ました。
 
太陽光発電施設の東側には、城があった当時の大手道が通っていたようなので、城に関連する石積みなのかも知れません。
 
 
▲山肌に残る石積み
 
11:07
巨岩のある旧道分岐に出会いました(地図中「旧道分岐」)。
巨岩の上の方には、毘沙門天の石像が祀られています。
 
▲旧道入口(舗装路から見上げて撮影)
 
 
▲毘沙門天像
 
毘沙門天像のある場所に着く手前で、山道が右へ分岐しているのに出会いますが、これが旧道です。
 
 
▲毘沙門天像のすぐ下にある旧道入口(「城山旧道」の道標がある)
 
旧道へ入ると間もなく道は左に折れて、毘沙門天が祀られていた巨岩の頂部をかすめてさらに登って行きます(毘沙門天のある岩の頂部にも上がれます)。
 
 
▲巨岩頂部から南方向の展望(オリジナルデータはモヤで白っぽかったため、画像処理を施しています。)
 
旧道は短い間隔でつづら折れになっていて、パノラマ撮影機材やドローン等々、普通のハイカーさんが持たないような荷物で十数キロにもなったバックパックを背負っていても、楽に歩けました。
 
旧道には100m毎に小さなプレートがぶら下がっていて、山頂まであとどのくらいの距離があるのか分かりやすいのもありがたい。
 
山頂まで300mの付近では、登山道が地形図の破線道から外れます。
 
 
▲旧道の様子(山頂まで300m地点)
 
ここから先の地形図の破線道は廃道になっていますが、これは往時の大手道で、三の丸につながっていた可能性が「都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻」では示唆されています。
なお、この大手道が、冒頭の引用文中にある「たいの坂」と呼ばれていた道。
 
破線道を離れて少し進むと「小毘沙門岩経由鎖場コース」の分岐がありました。
このときは「下りでこの道を通ろうかな」と考えましたが、結局今回は通らず仕舞い。
 
11:24
資材運搬用のモノレール軌道に出会いました(地図中「本道合流地点」)。
本道と合流したようです。
 
この後出会うことになる山頂の看板の地図によると、この付近が大手門跡だったそうです。
しかし、大手道が三の丸につながっている可能性が示されている「都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻」の内容とは矛盾があります。
 
山頂の看板の内容の方がきっと新しい研究結果が反映されているはずなので、「都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻」の記述は気にしない方が良いのかな。
 
 
▲モノレール軌道の下を通過する本道と旧道の合流地点(この左上にある郭跡に反射板がある)
 
ここからは整備された擬木階段の道。
少し登って石積と土塁に挟まれた櫓門跡を抜ければ、反射板のある削平地(二の丸)に出ます(地図中「反射板」)。
 
 
▲モノレール軌道の向こうに関西電力の反射板(二の丸)
 
11:28
さらに登って行くと2つめの櫓門跡があり、それを抜けると大師堂が目の前に現れます。
 
 
▲2つめの櫓門跡(最奥に大師堂)
 
櫓門跡と大師堂の間にはモノレール軌道が横切っていますが、軌道を越えるための簡易な歩道橋(?)が設置されていました。
 
 
▲モノレール軌道を越えるための通路
 
モノレール軌道を越えた先は、八十八カ所巡りの石仏が郭の周囲に並べられた独特の雰囲気の空間です。
 
 
▲郭の周囲に並ぶ石仏
 
大師堂に向かって左奥は、複数の削平地が並ぶ三の丸。
 
 
▲三の丸跡(標柱のある郭跡の様子)
 
三の丸を一通り見た後に大師堂に戻ろうと思ったら、大師堂の北側斜面へ降りる道があったので、何かあるのかなと思ってそちらへ入ってみました。
 
この北側斜面にも削平地があり、金網で囲まれた何かが目に留まりました。
近づくいてみると、井戸跡。
 
冒頭の引用文中にある井戸はこれのことで、綺麗に石の枠組が残っています。
 
 
▲井戸跡
 
大師堂の方に戻ると、大師堂に向かって右前方に放送設備の建設現場がありました。
 
 
▲放送設備の建設現場
 
大師堂に向かって右側には本丸への入口があり、そこには縄張図付きの看板が立っています。
 
中道子山城跡
 播磨国守護赤松氏範(氏則)によって築かれ、本丸・二の丸・三の丸から構成され、東播磨で最大の約66,000平方メートルの広さがあります。
 山城跡には、城攻めの時に、斜面に竹の皮を敷いたが火をつけられた、坂の上から鯛をかかげ食料があると見せつけたなどの伝説があります。
 本丸は、標高271mの山頂にあり、土塁囲いが残っています。本丸入口の米倉跡は、三方を土塁で囲み、内側には石垣を積み上げています。
 二の丸には、大手門と櫓門が造られました。大手門は、四脚門の構えをもつ山城跡最大の門です。櫓門は本丸への通路に二カ所あります。
 三の丸には、搦手(からめて)となる裏門があります。
 山城跡北側は、尾根を二本の堀切りで切断しています。また、谷間には井戸を作り、堤を築いて貯水池にしています。今も井戸の水は涸れません。
 山城跡は、大永年間(1521~1527)までに築城され、火災後規模を大きくして再築城しています。これが現在の中道子山城跡です。この山城跡は、近世城郭へと移り変わる過渡期の姿を残しています。
 平成13年3月 加古川市教育委員会
(出典:本丸入口の看板)
 
 
▲中道子山城跡縄張図
 
 
▲本丸への入口
 
本丸への入口は、縄張図によると二重に門が造られていて、その間の三方が土塁に囲まれた場所には米倉があったようです。
 
 
▲米倉があったとされる場所
 
11:39
城跡をウロウロしていたので時間がかかりましたが、ようやく一等三角点標石のある広い本丸に到着しました。
 
「赤松城趾」の大きな石碑の前に一等三角点標石があり、東と南にはベンチが置かれています。
西端には公衆トイレまでありましたが、汚物はどうやって処理しているんだろう。
 
本丸は、北側にだけ土塁が残っていました。
 
 
▲本丸の様子
 
 
▲一等三角点標石(点名:志方城山)
 
 
▲公衆便所(不気味だったので入っていません)
 
 
 
志方城山(中道子山)山頂の全天球パノラマ(撮影日2017年03月19日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/shikatashiroyama20170319/virtualtour.html
 
高校生と思われる男の子数人のグループ、中年女性2人組、中年男性2人組が先客でした。
東と南は本来景色が良さそうですが、今日はモヤがかかっていて展望は楽しめません。

景色がよい場所のベンチは既に埋まっていたので、南向きに景色を楽しめそうな場所に折りたたみ椅子を置き、昼食を摂ることにしました。
 
本日のメニューは、袋入りの日清焼そば。
 
 
▲本日の昼食(日清焼そば)敷いてあるのは、焦げ付きを防ぎ、後片付けを楽にするためのクッキングシート
 
12:30
下山開始。

本丸入口の縄張図を見ると、三の丸の先に堀切(ほりきり)があるとのことだったので、下山前にそれを見に行くことにしました。
 
三の丸は複数の削平地から成っていますが、一番下の削平地は手つかずの自然林。
 
その北端から下をのぞき込むと、深い堀切りが視界に飛び込んできました。
本丸入口の縄張図にあった「堀切2」です。
 
最下段の削平地の北東端にある搦手門跡から北へ下ると、簡単にその堀切へ行けます(地図中「堀切」)。
 
 
▲搦手門跡
 
堀切は、尾根伝いに登ってくる敵の進攻を食い止めるため、尾根を切り通しのように掘り下げたものです。
 
この中道子山城の堀切は、岩を掘って作られた深くて立派なもの。
岩尾根だから、堀切がこれほど綺麗に残っているんでしょうね。
 
 
▲三の丸に近い側の堀切
 
11:45
そのすぐ先にも2本目の堀切(縄張図の「堀切1」)がありますが、最初に見たものよりもさらに深いように見えました。
 
2本目の堀切を見物していたら、「七ッ池 1700m」と書かれたマーキングテープを発見。

七ッ池は、おそらく志方東公園の北にある池のことで、主稜線を北西にたどるルートでしょう。
しっかりした道もついています。
 
 
▲七ッ池への道を示すマーキングテープ
 
この道は全く存在を知りませんでしたが、地形図を見る限りなだらかそうなので、この七ッ池への道を歩いて下山することに決めました。
 
道は明確でピンク色のテープがたくさんあり、迷うことはありません。
展望はありませんが、自然林の中のなだらかな道なので雰囲気は良いです。
 
 
▲七ッ池へ続く道の様子
 
若干の登り返しが所々でありますが、基本的には下り基調で楽に歩けます。
 
13:04
「寄道処」と書かれた黄色いマーキングテープのある分岐に出会いました(地図中「展望岩場」のすぐ東)。
「20m」と書かれていて、そんなに近いなら何があるのか見てみようと思い、分岐を左へ。
 
あったのは、西方面に大きく開けた展望の良い岩場です。
次からは、人が多い本丸ではなくここで昼食を食べようっと。
 
本日は本丸跡でドローンを飛ばそうと思っていたのですが、人工物が多すぎて、ドローンの飛行を規制する航空法132条のルール(第三者や第三者の物件から30m以上離して飛ばさないといけない)を守ると飛ばせませんでした。
 
そんなわけで、今日はドローンを飛ばすのを諦めていましたが、ここなら飛ばせます。
ということで、ドローンで記念撮影。
 
 
▲展望岩場の様子(ドローンで撮影)
 
 
▲下山でたどってきた尾根をドローンで撮影(オリジナルデータはモヤで白っぽかったため、画像処理を施しています。)
 
ドローンを飛ばしていたら、トンビか何か分かりませんが、猛禽類が5羽ほど集まってきました。
ドローンに興味があるのか、周囲を旋回しています。
 
落とされても困るので急いでドローンを着陸させましたが、今度は猛禽たちが「バサッ」という羽音や「サーッ」という風切り音が聞こえるほどの近距離で私の周囲を飛び始めました。
 
「近いわっ!」と怒っても通じるはずも無く、大急ぎでドローンを片付けると、猛禽たちはどこへともなく去って行きました。
山でドローンを飛ばすときは猛禽類に要注意ですね。
 
13:18
下山再開。
七ッ池への道に戻り、北西へ下ります。
 
13:24
ピンク色のテープのある道が北と西へ分かれる地点がありました(地図中「分岐」)。
西へ進む方が駐車場に近そうなので、ここは西へ延びる道へ。
 
今まではマーキングテープがたくさんありましたが、西へ向きを変えてからはテープがありません。
 
 
▲分岐から西へ下る道の様子(マーキングが一切無い)
 
13:27
突然道が広くなったと思ったら、テレビの共同受信アンテナに出会いました(地図中「共同受信アンテナ」)。
 
▲共同受信アンテナ
 
アンテナから先は、アンテナの点検用の道になっているのか、幅が非常に広くて歩きやすい道になりました。
そして、この広い道は麓まで続きます。
 
 
▲アンテナから先の道の様子
 
13:31
快適な道をるんるんと下っていると、突然道の左側にコンクリートの建物が現れました(地図中「水道施設」)。
その建物の脇で、道は二股に分かれています。
 
建物のすぐ横をかすめるのは、今まで通りの幅広の道。
建物から右へ離れるように付けられた道は山道。
 
せっかくなので幅広の道でこのまま楽に下ろうと思い、建物のすぐ脇の道へ入りました。
 
 
▲水道施設(?)
 
13:36
車道に降りてきました。
 
車道に出る手前には、加古川市水道局の名前が書かれた「立入禁止」看板とバリケードが置かれていました。
これがあったので、あのコンクリートの建物は水道関連施設だと判断しました。
 
 
▲幅広の道の終点(登山時は始点になる)はこんな場所
 
この後は車道を少しだけ西に歩き、田んぼの中の舗装道路を南へ進んで駐車場へ戻りました。
 
 
▲田んぼの中のまっすぐな道を南へ進んだ
 
14:00
駐車場に到着。
 
往路をそのままたどって自宅へ向かおうとしましたが、播但道をくぐった西にある「上原田」交差点から渋滞で先へ進めません(交差点の先に渋滞の列の最後尾があるため青信号でも交差点を渡れず、私の目の前の信号が赤になると左右の道から国道372号線へ入ろうとする車が無理矢理入ってくるので、交差点内がカオス)。
 
無理して交差点を渡っても、その先も渋滞でトロトロとしか進めないのは嫌なので、当初は直進しようと思っていた上原田交差点を左折し、国道2号線で姫路市街へ戻りました。
 
14:55
自宅に到着。
 
 
▲今回のルートの高低差を表したグラフ(カシミール3D)