播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。原則として更新は週に1回です。広告は表示しません!

高砂消防分署旧庁舎見学と高砂まち歩き

2016年7月29日付の神戸新聞で高砂消防分署旧庁舎が公開されていることを知り、見に行ってきました。
重要
当該新聞記事では「土日に開放」と書かれていますが、2016年8月現在、原則として日曜のみの開放です。実は一度土曜に見に行ったのですが、閉まっていて中を見られず、諦めて帰ったことがあります。というわけで今回は二度目の訪問。


▲高砂消防分署旧庁舎(高砂市高砂町南本町)←住所をクリックすると、Googleマップで位置が表示されます。

最寄り駅は山陽電鉄の高砂(たかさご)駅。
山陽電鉄の姫路駅から直通特急に乗れば、3番目の停車駅(1番目は飾磨、2番目は大塩)です。

この周辺は古い街並みが残っているので、車で行くよりも高砂駅を起点に徒歩で楽しむ方が良いと思います。
車だと自由に動けませんし、何より駐車場所に困ります。

車で行く場合は自転車を積んでいき、サンモールの有料駐車場に車を止めて自転車で動けば、快適にこの周辺の街並みを楽しめます。

今回は高砂消防分署旧庁舎だけでなく、周辺の見所も楽しむことにしました。

本日見て回る場所は以下の通りです。
 ・高砂消防分署旧庁舎
 ・旧国鉄高砂線廃線跡
 ・高砂神社
 ・その他、街並みに残る古い建物

まずはメインの目的地である高砂消防分署旧庁舎を見に行くわけですが、その途中に旧国鉄高砂線廃線跡を通ります。

山陽電鉄の高砂駅の南側へ出たら南へ進んでください(横断歩道で道路を渡って右へ進む)。
すると、すぐに道は左へ曲がり、すぐまた右へ折れ曲がります。


▲山陽電鉄 高砂駅

右へ折れ曲がる直前で道の左右を見ると、見るからに「廃線跡」という細長い土地があり、左は駐輪場、右は歩道になっています。


▲高砂駅の南側、旧国鉄高砂線の廃線跡(駐輪場になっている部分)


▲高砂駅の南側、旧国鉄高砂線の廃線跡(歩道になっている部分)

この歩道になっている部分を歩いて南へ向かいましょう。
緩やかな左カーブに沿って歩いて行くと、すぐに廃線跡らしいモニュメントに出会います。

それは転轍機(てんてつき。鉄道のポイントを操作するためのレバー)。


▲旧国鉄高砂線の分岐点にある転轍機のモニュメント

場所は、高砂市高砂町栄町(←クリックするとGoogleマップで位置が表示されます)で廃線跡がY字型になっている所です。

旧国鉄高砂線は、山陽電鉄高砂駅の南にある高砂駅から北上し、高砂駅の手前で東西に分岐するルートを通っていました。
転轍機があるのは、まさにその線路の分岐点です。

旧国鉄高砂線の分岐点
 大正3年(1914)播州鉄道として開通した旧国鉄高砂線は、昭和59年(1984)その使命を終えた。その後、市民の通勤と憩いのための道路として遊歩道に生まれ変わった。
 この三差路を南へ行くと高砂駅を経由して高砂海水浴場へ。西へ行くと国鉄高砂工場や三菱重工、神戸製鋼、キッコーマン等大企業の建ち並ぶ工業地帯へと通じていた。当時の高砂の繁栄と発展に寄与した高砂線を記憶に留めるため、信号機、転轍機をこの分岐点にモニュメントとして保存した。
 なお、高砂商工名鑑(1960)には、法華山谷川を渡り、伊保町南部の工業地へ専用線を延伸する計画があったことが示されていた。
 高砂みなとまちづくり構想推進協議会
(出典:現地の看板)

転轍機の他にもモニュメントはあります。
少し南へ進んでから振り返ってください。分岐の左側に腕木信号が立っているのです。


▲旧国鉄高砂線の分岐点にある腕木信号のモニュメント

分岐点からさらに南へ進んでいくと、突然道が広くなります。
幅広の道路は長く続かず、すぐ先でロータリーになっていて、そのロータリーの中心にモニュメントが。

この付近は、その昔高砂駅があった場所です。


▲旧国鉄高砂駅跡の様子(南から見る。ロータリーの中央に動輪のモニュメントが見える)


▲動輪のモニュメント

旧国鉄高砂駅跡から東を見ると、アーケードのある商店街が見えます。
高砂駅が現役だったころはその乗降客で賑わっていたのでしょう。


▲銀座商店街(高砂駅跡から見る)

この銀座商店街(東西方向)を東へ170mほど進み、東端からアーケードを出たらすぐに右へ曲がってください。
この南北方向の道路は北本町通り。

北本町通りを南へ進むと、すぐに右側に風格のある建物が見えてきます。
これは高砂商工会議所会館。

中には入れないので、外観だけ楽しみましょう。


▲高砂商工会議所会館

高砂商工会議所会館
 この建物は、旧高砂銀行本店として昭和7年(1932年)に建設された昭和初期の洋風建築物です。内装の装飾などを含め、建設当時のイメージを今に残す貴重な資産で、地域の景観の形成に重要な役割を果たしています。そこで、兵庫県では景観の形成等に関する条例に基づき、景観形成重要建造物に指定しました。この貴重な財産を地域の皆さんとともに、後世に大切に伝えていきましょう。
 平成18年4月
  兵庫県知事
(出典:現地の碑)

さらに南へ進みます。

この通り沿いには古い建物が所々に残っていて、それらをじっくり楽しみながら歩いていると、本日のメインイベント、高砂消防分署旧庁舎に出会います(アーケード東端から約350m)。


▲高砂消防分署旧庁舎

写真には車が写っていますが、これは施設開放関係者のものです。
見学者用の駐車場はありません。


高砂消防分署旧庁舎
(旧高砂消防会館・南本町巡査派出所)
 この建物は、旧高砂町時代の昭和10年(1935)9月に建設されました。
 旧消防会館は、鉄筋コンクリート造2階建で、1階は自動車格納庫、2階は会議室等として利用されていました。屋上には鉄骨造りの火の見櫓があります。
 旧派出所は、鉄筋コンクリート造平屋建で、事務室、宿直室等がありました。
 昭和23年3月7日(1948)に高砂町消防本部が発足し、昭和29年(1954)に高砂市消防本部(署)となり、昭和32年(1957)から平成27年(2015)3月まで高砂分署として利用されました。
【建築概要】
設計:畑中美郎 施工:高砂町 川崎傳七 総工費:5,400円
 平成28年3月 高砂市
(出典:現地の看板)

表側には手押しポンプ(腕用ポンプ)と、火災現場で必要なバケツやホースを運搬するための木箱を積んだ荷車が展示されています。


▲手引き腕用ポンプ(大正6年製)三菱が会社用として所有していた物。


▲バケツやホースを運搬するための荷車


▲木箱の中身(折りたたみバケツとホース)管理人さんに開けて頂きました。

この木箱を積んだ荷車は、車輪の間に車輪と独立して回転するリールが付いています。
ポンプの車輪と比べて車輪が妙に大きいなと思っていましたが、ホースを巻くためだったのか。

旧庁舎の2階が展示室になっていて、2階へは建物の裏の入口から入ります。
急な階段を登り、スリッパに履き替えて展示室へ。


▲2階の展示室(写っているのは管理人さん)

古い建物なので、天井や照明に味わいがあります。
管理人さんに三脚の使用とパノラマ撮影、ネットでの公開の許可を頂きましたので、展示室のパノラマを掲載します。
高砂消防分署旧庁舎2階の展示室で撮影した全天球パノラマ(撮影日2016年8月21日)

展示品はまだ少ないですが、この古い洋館の雰囲気がたまりません。
展示品について管理人さんに色々と尋ね、展示品を堪能しました。

なお、ここの管理人さんは交代で担当されているそうですが、基本的に消防団のOBだそうです。


▲展示品の一部(昔の手動サイレンや、真鍮製のホースの筒先)

高砂消防分署旧庁舎の見学を終え、次の目的地である高砂神社へ向かいました。
高砂神社に行くには、旧庁舎から130mほど東へ進むだけ。突き当たりが高砂神社の西門です。


▲高砂神社の西門


▲高砂神社の拝殿

由緒
 神功皇后が外征のとき、大己貴命の神助を得て敵を平らげられた。帰国の途中、この地に船を寄せられ、国家鎮護のため、大己貴命をまつられたのが高砂神社のはじまりです。その後、天禄年間(970年)~(972年)国内に疫病が流行し、庶民が苦しんでいた時、神託によって素盞嗚命(すさのうのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)をあわせまつったところ、疫病がたちまちおさまったので、庶民は喜んでお礼参りをした。文禄元年(1592年)豊臣秀吉は、朝鮮出兵のときこの神社に参拝し戦勝を祈願したと伝えられる。 池田輝政をはじめ、歴代姫路城主は社領を寄進し、特に本多忠政は尊崇熱く、輝政によって他に移されていた社殿を旧社地に再建し、にぎやかな遷座祭を行った。
(出典:高砂神社公式サイト http://takasagojinja.takara-bune.net/ から「ご祭神・由緒」をクリック)


▲高砂神社境内マップ(拡大表示できます)


▲五代目相生松


▲五代目相生松の幹

相生松略記
神功皇后の御世に大国主命を祀り高砂神社が創建されてまもなく境内に1本の松生い出でたが、その根は一つで雌雄の幹左右に分かれていたので見る者、神木霊松などと称えていたところ、ある日、尉姥の二神が現れ「我は今より神霊をこの木に宿し世に夫婦の道を示さん」と告げられた。此より人は相生の霊松と呼びこの松を前にして結婚式をあげるようになった。
(出典:現地の看板)

高砂神社を一通り見物して帰ろうとしたのですが、行きと道を変えたところ、「氷」と書かれた旗のある古民家を見つけました。

暑くて汗だくだったので、かき氷を食べようと思ってその古民家に入ってみました。
たまたま入ったお店は「まどいせん」というカフェ。

今まで見てきた古い建物は外観を楽しむだけでしたが、中に入れる古民家というのが魅力。


▲まどいせん(食べログ:http://tabelog.com/hyogo/A2804/A280402/28042415/

お店のスタッフさんも、私以外のお客さんも全て女性でした。
おっさんのお一人様がかき氷とシフォンケーキを食べている姿はどう見えたんだろう。

お店を出ようとしたら、私がカメラをテーブルの載せていたためか「古い建物を撮られているんですか?」とお店の方に尋ねられ「そんなところです」と答えたところ「最後の1枚ですが。。。これが参考になりますよ」と高砂まち歩きの地図を頂きました。
こういうサービスは嬉しいですね。

頂いた地図を見ると、ここまでに見てきた古い建物以外にも色々あることが分かりました。

「まどいせん」のすぐ東側に崩壊寸前の古民家があったのですが、お店の方によると「工楽松右衛門(くらくまつえもん)邸」とのこと。

実は、高砂神社の表門近くで工楽松右衛門像を見ていたので、今日初めて知った人物ですが、ちょっと見物。


▲「まどいせん」のすぐ東にある工楽松右衛門邸

無住で崩壊寸前のため中に入れませんが、お店の方によると修復される予定とのこと。

工楽松右衛門
寛保3年(1743年)~文化9年(1812年)
高砂は小さな町である この小さな町から「後の世のため」に尽くした工楽松右衛門という人物が出た 町の大小は関係がない 志があるか その志が広く大きなものであるかどうか そして 志を実現するために努力しているかどうか それが大切ではないか
 幼少の頃から改良や発明が好きだった松右衛門は それまでの脆弱な帆布のかわりに播州木綿を使った厚地大幅物の帆布の織り上げに成功し 「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に用いられるようになった また 松右衛門は幕府の命を受けて千島の択捉島に埠頭を築き 函館にはドックもつくった
 これらの功により「工夫を楽しむ」という意味の工楽の姓を与えられ その後も優れた築港技術者として活躍し 高砂港や鞆の浦防波堤などにその足跡をみることができる
 松右衛門の工夫や発明は 松右衛門帆以外に荒巻鮭(新巻鮭) 石船 砂船 ろくろ船 石釣船などもある 
高砂市教育委員会編纂
 風を編む 海をつなぐ <工楽松右衛門物語>より
(出典:高砂神社境内 工楽松右衛門像前のプレート)

続いて、頂いたマップに載っている「魚町倶楽部」という洋館を見に行くことにしました。
「まどいせん」から西へ80mほどの所にあります。

ただし、ここは塀の外から建物を見ることしか出来ません。


▲三菱製紙魚町倶楽部(高砂町魚町)←クリックすると、Googleマップで位置が表示されます。

他にも近くにレトロな建物はないかなとマップを見ると、申義堂(しんぎどう)という昔の学校が紹介されているのに気づき、それを見に行くことにしました。

魚町倶楽部から西へ進み、学校に突き当たったら右へ曲がってすぐのところにあります。(魚町倶楽部から200m)


▲申義堂(こちらをクリックすると、Googleマップで位置が表示されます)

申義堂の開館
開館日 土曜日・日曜日・祝日(ただし、12月29日から1月3日をのぞく)
開館時間 10時から16時まで
入館料 無料
 高砂市教育委員会
(出典:現地の看板)

申義堂とは
 江戸時代の文化年間(1804-1818)に、高砂町北本町に創立された学問所です。姫路藩家老河合寸翁(すんのう)(1767-1841)の命により、当時、高砂の大年寄であった岸本吉兵衛が土地・建物を提供した、町民による町民のための教育機関でした。
 高砂の庶民が学んだ郷学(ごうがく)として、教育の原点ともいえる施設です。

申義堂の教育
 申義堂では、こどもたちが、中国の古典などを教材に、まちの大人たちに教わっていました。
 毎日、早朝から正午まで、元旦五節句と毎月5・15・25日の休み以外は、授業がおこなわれていました。
(出典:申義堂のパンフレット)

ここには管理人さんがおられます。

申義堂は本来あった場所から移築された(一時は軍の倉庫にもなっていた)ものですが、可能な限りオリジナルの建材を使って復元されているそうです。


▲申義堂内部の様子

高砂まち歩きマップに書かれている十輪寺(じゅうりんじ)が目の前にあるので、申義堂を見物した後は十輪寺へ。


▲十輪寺山門


▲十輪寺本堂

申義堂の管理人さんに「十輪寺には工楽松右衛門のお墓がある」と伺ったので、それも見てみようと思ったのですが、見つけられませんでした。

十輪寺を出て北へ行くと、往路で見た高砂駅跡。
ロータリーから北へ少し進み、往路で気になっていた煙突のある建物を見物することに。

高砂まち歩きマップによると、梅ヶ枝湯(うめがえゆ)という銭湯でした。
こちらをクリックすると、Googleマップで位置が表示されます。


▲梅ヶ枝湯(表側は何の変哲も無い)


▲梅ヶ枝湯(裏側がすごい)

せっかくなのでマップに載っている他のスポットも見てみようと思い、梅ヶ枝湯のすぐ北を東西に走る道(信号がある)へ出て400m弱ほど東へ進み、大崎家住宅(中には入れない)を見物し、そのすぐ先の小さな路地を南へ入り、水路跡にかかる稲荷橋を渡って花井家住宅を見学。


大崎家住宅(←クリックするとGoogleマップで位置が表示されます)


花井家住宅(高砂来て民家)(←クリックするとGoogleマップで位置が表示されます)

花井家住宅のすぐ南に江戸時代の米倉を復元した「松宗蔵(まつそうぐら)」があるので、それも外観だけ見物。


▲松宗蔵

「まどいせん」の北側を東西に走る通りには、三連蔵があり、これもなかなか風格があります。


▲三連蔵(高砂消防分署旧庁舎へ向かう途中でたまたま見つけて撮影していた)

まち歩きマップでは他にも建物が紹介されているのですが、あまりの暑さに歩くのが嫌になり、帰ることにしました。

直射日光を避けるため銀座商店街を通って高砂駅跡へ戻り、山陽電鉄高砂駅を目指して北へ。
今日だけでここを何度歩いたんだ。

廃線跡は何の痕跡も残っていないと思っていましたが、暑さでヘロヘロになってゆっくり歩いていたら、鉄道用地の境界を示す杭を見つけました。


▲鉄道用地の境界杭

山陽電鉄の高砂駅に戻り、駅で体を冷ましてから姫路行の直通特急に乗車。

偶然立ち寄ったお店で頂いたマップのおかげで、充実した町歩きを楽しめました。

実は、高砂駅の西隣にある荒井駅の近くに一度見物したいものがあったのですが、今日は疲れていたのでパス。別の機会に紹介します。