播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県赤穂市の鴾ヶ堂城(つきがどう)城跡

本日は、兵庫県赤穂市にある三重山(みかさやま)山頂にある山城跡、鴾ヶ堂(つきがどう)城跡に出かけてきました。
 
以前、「ハナののんびり城めぐ」(https://hana08090507.hatenablog.com/)のハナさんにその存在を教えて頂いた場所で、山城跡の郭に展望デッキが建っており、なかなかの展望が楽しめるとのことで、展望好きの私としては見逃せませんでした。
 
※私は車で現地へ行きましたが、JR有年駅から徒歩で行くことも可能です。その場合は、前述の「ハナの城探訪日記」に詳しいルートが紹介されていますので、参考にしてみて下さい。

鴾ヶ堂城の歴史等については、以下の文献をご覧下さい。
 
 この城には太田弾正が居住していたといわれている。太田氏は赤松氏の出で、赤松則景が太田入道従五位播磨守と名のって太田家を創立したのに始まるという。しかし、鴾ヶ堂城のことは赤松氏関係資料には現れてこず、『赤穂郡志』(延享4年)のほうに詳しいため、以後の記載はすべてその引用である。つまり、「牟礼鴾堂の城小田弾正居住す。老年に至って城を子息治内に譲り我身は七八町の小幡に屋敷を構て隠居す。今の牟礼の畑と云所に其跡あり。其頃矢野小河一説に大鷹と云、此地に赤松氏秀光の三男小河丹後秀春居住し治内と善からず。丹後龍野の住人龍野刑部と云者をかたらひ治内を攻む。治内池の内辺に人数を出し対陣す。丹後夜る密に城を襲ふ。残兵山下の三枚木戸と云所に防戦す。東有年の住人三宅与三左衛門と云者来て城を救に敵の後より撃つ。敵敗北して退く。城兵追討つ。丹後遂にうつき原と云所にて自殺す。行年24歳。或は云く小鷹の城に於て死と云也。元亀2年(1571)の事也。其塚三枚木戸にあり。家系には小鷹に塚ありと云々。験行寺等も此時に焼失す。小田弾正或説に太田と書す。赤松氏の族太田氏多く、従へし」とある。
 この記録で注意すべきことは、験行寺が焼けたことと、東有年の三宅与三左衛門が小河丹後の軍を背後から攻めたという点である。「三枚木戸」や「うつぎが原」のあたりだけの戦いでは、そうしたことは起こりえぬことである。それは小河丹後の軍勢が鴾ヶ堂城の東の郭あたりまで攻め込んで、初めて生じる事態である。
(出典:日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社(1981)p515)

鴾ヶ堂城
 国鉄山陽本線有年駅の南西に聳える標高196mの山頂にある。
 山頂尾根の北の端に岩盤に囲まれて狭い削平地がある。ここから南の方へ尾根づたいに約100mの間に多くの削平地が一直線に並んでいる。6つめのものが最も高く、周囲は石垣で囲んでいる。東西12m、南北51mの広さで、ここが本郭のあったところであろう。本郭の南側はゆるい下り斜面になっていて、その斜面の間に3つの深い掘割がつくられている。この堀の斜面を下りたところに18m×38mの広い削平地があり、その東側に広い堀が作られている。堀の東側は別峰につづく登り斜面となっている。別峰の尾根は東西に走っていて、ここに16m×13m、11.9m×30.5m、8.5m×33.8mの3つの削平寺が造られている。その南に験行寺がある。
(出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻、兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編(2003)pp204-205)
(原文まま。文中の「削平寺」は「削平地」の誤りか)

 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「相生」。
 
以下のURLをクリックすると、駐車地点の位置がGoogleマップで表示されます。
 
10:00
姫路市街の自宅を車で出発。
 
国道2号線(姫路バイパス)をひたすら西進し、千種川の東側、有年(うね)駅前交差点を左折します。
南へ進み、二つ目の十字路を右折。

小さな橋で用水路(?)を越えると尾根の先端に突き当たるので、左折。
 
後は山際の道を南下し、1車線幅の狭い道路(所々に待避場所あり)を登って行くと、ヘアピンカーブの頂点に広い駐車スペースと四阿(あずまや)があるのに出会います。
 
10:50
ヘアピンカーブの駐車場に到着(地図中「P」)。

四阿には男子用小便器があります。個室もありましたが、私以外誰も居ないのにドアの鍵の表示が赤になっていたので、封鎖されているか鍵が壊れているかのどちらかでしょう。
 
 
▲駐車スペースと四阿(右上に目的地の展望デッキの屋根が小さく見える)
 
10:55
準備を整えて出発。
上の画像にある四阿の左奥に、鴾ヶ堂城への道の入口があります。
 
 
▲地形図に庭園路として描かれている道に入る
 
軽自動車なら難なく走れそうな道ですが、この道を歩く距離はさほど長くありません。
歩き始めて間もなく、城跡へ登る丸太階段道が左へ分岐しているのに出会います。
 
 
▲地形図の庭園路は快適な道
 
10:58
庭園路から左へ分岐する丸太階段道に出会いました(地図中「門跡(?)」)。
 
写真に写っている丸太階段道に背を向けると、正面にも山道が見えます。
つまり、ここは庭園路と登山道の交差点になっているわけです。
 
道標の根元に石積みが残っており、周辺には岩がゴロゴロしています。
かつてはここに門があったのかも知れません。
 
 
▲庭園路から山道へ入る場所の様子
 
朽ちた丸太階段の道を少し上った所には、左側に井戸跡のようなものがありました。
 
 
▲井戸跡(?)
 
11:04
稜線に出ました。
ここは稜線上を通る道と、私が登ってきた道が合流する丁字路になっています(地図中「丁字路」)。
 
 
▲丁字路の様子(右上は削平地跡らしき場所で、写真には写っていないが左には堀跡がある)
 
この三差路を右に進めば、鴾ヶ堂城跡の標柱に出会います。
標柱がたっているのは、堀切(ほりきり:敵の進攻を防ぐため尾根を断ち切るように掘られた溝)跡と思われる場所。
 
 
▲鴾ヶ堂城跡を示す標柱と堀切跡
 
山城跡らしさが感じられる場所ですが、北へ進んでいくとすぐ、山城らしさがみじんも感じられない道になります。
 
小さな削平地(?)がいくつか並ぶ尾根の中心を東へはずした場所に道が付けられており、尾根の中心はすっかり藪と化しているため、城跡の地形がよく分からないのです。
 
 
▲北へ進む道の様子
 
途中、道の左側の藪の中に土橋のようなものがあり、よく見るとその向こうは堀切跡になっている場所がありました。
 
 
▲藪の中に残る堀切跡
 
日本の中世城館調査報告書集成 第15巻では、「その斜面の間に3つの深い掘割がつくられている。」とされていますが、結局私に見つけられたのは、標柱の立ってる場所とここだけでした。
 
緩やかな上り坂が終わると広い郭跡に出るのですが、その直前の高まりの北側には、石積みが残っています。
 
 
▲広い郭跡に出る直前の削平地北側に残る石積み
 
緩やかな登り斜面が終わると広々とした郭跡があり(西側に一段低い郭跡もある)、さらにその北の一段高い郭跡は、南西に土塁跡が残っていました。
 
 
▲土塁跡の残る郭跡(切岸の上が土塁跡)
 
土塁跡の残る郭跡からさらに北へ進み、石段(?)を登った一段高い郭跡に展望デッキが建っています。
(展望台へ続く石段の左には、西へ下るつづら折れの道がありますが、城跡と関係があるのかどうかは分かりません)
 
11:12
展望デッキに到着(地図中「展望デッキ」)。

展望デッキは3階建てで、立入禁止にはなっておらず、自由に登れます。
すぐ脇に立てられている建立記念碑によると、平成10年に完成したものだそうです。
 
 
▲展望デッキ
 
 
▲展望デッキ内部の様子(椅子や机はない)
 
最上階からは、ほぼ360度の大展望が楽しめます。
どのような展望かは、下のパノラマでご確認下さい。
 
展望デッキ最上階で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2016年4月16日)
 
 
▲展望デッキから見た千種川
 
 
▲展望デッキから見た有年駅方面(中央、鉄塔のある山は宝台山)
 
東西および南北方向の街道の様子や、千種川の様子を監視できる好立地であることが分かります。
 
展望デッキ内で展望を楽しみながら食事を摂ろうと思うと、立っていないといけません。
座って食事をすると、壁に遮られて展望が楽しめないのです。
 
というわけで展望デッキを下り、日本の中世城館調査報告書集成 第15巻で「山頂尾根の北の端に岩盤に囲まれて狭い削平地がある。」とされている場所で食事をすることにしました。
 
ここには、岩の中に地籍図根三角点の金属標が埋設されています。
 
 
▲北端にある小さな削平地
 
鴾ヶ堂城跡北端の削平地(地籍図根三角点の真上)で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2016年4月16日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/tsukigado20160416-2/virtualtour.html
 
本日の昼食は、炊き込みご飯と缶詰のさんまの蒲焼き、そしてデザートは家から冷やして持ってきたフルーチェ。
 
食事を終え、山頂で出会った2人組の男性ハイカーとしばし雑談。
お一方は自衛隊出身とのことで、色々と興味深いお話を聞かせて頂きました。
 
12:45
下山開始。
 
往路を丁字路まで引き返し、丁字路からは験行寺(けんぎょうじ)方面へ向かいました。
 
 
▲丁字路から東へ進んだ
 
丁字路のすぐ先で右を見ると、大きな堀切跡のようなものがありますが、これは日本の中世城館調査報告書集成 第15巻によると「広い堀」だそうです。
 
丁字路からは東西方向に延びる尾根になり、ここにも複数の削平地が確認できます。
つまり、鴾ヶ堂城はアルファベットの「L」字型の縄張りを持っていることになります。あるいは、東西方向の尾根は験行寺関連の削平地かも知れませんが。
 
 
▲東西方向の尾根上にある削平地の一つ
 
12:59
験行寺に到着(地図中「験行寺」)。
 
 
▲験行寺
 
ここから簡易舗装の車道を下りていくと、庫裡(くり:お寺の関係者の住居)と思われる民家の前を通り、間もなく駐車地点に到着します。
 
13:13
駐車地点に到着。