本日は、青野原(あおのがはら)俘虜(ふりょ)収容所開設100周年記念ウォークに参加してきました。
今から100年前の大正4年(1915)の9月20日、姫路の収容所から青野原の収容所へ向かう500人近くの俘虜が、播州鉄道大門口駅(現JR青野ヶ原駅)に降り立ちました。俘虜たちは徒歩で青野原へ向かいます。
(出典:参加者に配布されたプリント)
第一次世界大戦当時、日本は日英同盟に基づいて中国の青島にあるドイツ軍の要塞を攻略。
その際に発生した約4,600人の俘虜(捕虜)を、日本軍は日本各地の合計12箇所の俘虜収容所に収容しました。
その内の1箇所に姫路が含まれていて、我が家の近くの船場本徳寺や景福寺も収容所となっていました。
近所にそんな収容施設があってもともと興味があったため、今回のイベントには喜んで参加することに。
近所にそんな収容施設があってもともと興味があったため、今回のイベントには喜んで参加することに。
その当時の収容所は寺社等を間借りしたもので仮設的な要素が強かったため、きちんとした収容所を建設し、そこへ俘虜を移したのですが、その内の一つが姫路から青野原収容所への移送で、当時の俘虜たちが歩いたと思われる道を歩こうというわけです。
ちなみに、当時姫路市内で俘虜を収容していた寺院は3箇所。
「陸軍省受領 欧受第1965号 大正3年12月10日 十経管甲第85号」の文書を見ると、以下の通りとなっています。(内容を要約したものです)
・景福寺 (姫路市景福寺前)
収容人員: 下士官以下 150名
使用畳数: 300
借家料月額: 90円
収容人員: 下士官以下 150名
使用畳数: 300
借家料月額: 90円
・本徳寺 (姫路市地内町)
収容人員: 准仕官以下 160名
使用畳数: 356
借家料月額: 100円
収容人員: 准仕官以下 160名
使用畳数: 356
借家料月額: 100円
・妙行寺 (姫路市坂田町)
収容人員: 将校 8名、卒 5名
使用畳数: 114
借家料月額: 35円
収容人員: 将校 8名、卒 5名
使用畳数: 114
借家料月額: 35円
※借家料は、俘虜1名につき70銭を標準として算出。それより安いところは俘虜にとって暮らしにくい場所(寺院側の不利益が少ない)、高いところは快適に暮らせる場所(寺院の被る不利益が大きい)ことを意味します。他に、構築物の補修費として、俘虜1名につき月額30銭以内を実費支給。
(以上、出典は「欧受第一九六五号 俘虜収容所借家料其他支出ノ件伺」)
なお、当時の物価ですが、煙草の価格が当時の官報に掲載されていたので、参考までに(あまり参考になりませんが)載せておきます。
大蔵省告示第99号製造煙草定価左ノ通想定ム大正4年9月20日 大蔵大臣 武富時敏種類 紙巻煙草製造所 仏蘭西名称 ナショナル定価 100本ニ付 1.150 (1円15銭?)(出典:大正4年9月20日付の官報 第941号)
青野原俘虜収容所が開設されていた期間は、陸軍省告示によると大正4年9月20日~大正9年4月1日です。
陸軍省告示第13号青野原俘虜収容所ヲ開設シ姫路俘虜収容所ヲ閉鎖ス大正4年9月20日 陸軍大臣 岡市之助(出典:大正4年9月20日付の官報 第941号)
青野原俘虜収容所設置青野原俘虜収容所ハ本月20日兵庫県加西郡富合村ニ設置シ同日ヨリ事務ヲ開始セリ(陸軍省)(出典:大正4年9月25日付 官報 第945号)
陸軍省告示第3号久留米俘虜収容所ハ大正9年3月12日、習志野俘虜収容所、名古屋俘虜収容所、青野原俘虜収容所、似鳥俘虜収容所及板東俘虜収容所ハ大正9年4月1日限リ之ヲ閉鎖ス大正9年3月12日 陸軍大臣 田中義一(出典:大正9年3月12日付の官報 第2280号)
今回のイベントは要予約。
申し込み方法は加西市教育委員会への電話のみ。インターネットでの申し込みはありませんでした。
こういったイベントの申し込み方法は電話やFAX、葉書に限定されていることが多いですが、それは本当に参加したいという強い意志を持った、常識のある人(大げさかも知れませんが、電話や文章で申し込むには最低限の教養が必要。客商売をされている方ならおわかり頂けると思いますが、最近はとんでもない人が多いです)に参加者を絞り込めるメリットがあると思います。
JR姫路駅から新快速で加古川駅へ向かい、そこから加古川線で青野ヶ原駅へ。
10:00
JR青野ヶ原駅前で今回のイベントの説明が始まりました。
JR青野ヶ原駅前で今回のイベントの説明が始まりました。
参加者は30名ほど。
10名ほどずつ、3つの班に分かれての行動となりました。
10:10頃
出発。
出発。
駅の東側の道を北へ進み、踏切(地図中「十郎踏切」)で加古川線の線路を越えます。
そして、線路の西側を北へ。
この辺りは、おそらく100年前の俘虜たちが見た風景とさほど変わっていないでしょう。
10:18
「大門廠舎正門」踏切で左折(地図中「大門廠舎正門」)。
「大門廠舎正門」踏切で左折(地図中「大門廠舎正門」)。
当時、桜台の東麓には大門廠舎(だいもんしょうしゃ)と呼ばれる兵舎が存在していました。
そのため、青野ヶ原駅は当時「大門口駅」という名前だったわけです。
そのため、青野ヶ原駅は当時「大門口駅」という名前だったわけです。
軍の施設があった痕跡はほとんど残っていませんが、踏切の名前にはしっかりと残っているのが不思議です。
押しボタン式信号で県道349号線を渡ってからは、桜台へ向けての上り坂。
この辺りに大門廠舎があったわけですが、実は痕跡が少しだけ残っています。
この辺りに大門廠舎があったわけですが、実は痕跡が少しだけ残っています。
当時の兵舎や関連施設の木造建築物が、一般のお宅やお店として今でも残っているのです。
一般のお宅と思われる建物の写真を載せるのは問題があると思うので、お店として再利用されている兵舎の建物の写真を紹介しておきます。
一般のお宅と思われる建物の写真を載せるのは問題があると思うので、お店として再利用されている兵舎の建物の写真を紹介しておきます。
案内をして頂いたガイドさんによると、この北側の谷ではかつて軍馬の放牧も行われていたとのこと。
「しかし、軍馬育成の制度の変更のため、1899(明治32)年に軍馬育成部が鳥取県の大山に移転(出典:図録「俘虜収容所に生きる-第一次世界大戦時青野原収容所の世界-」平成18年 神戸大学文学部地域連携センター発行)」したそうです。
「しかし、軍馬育成の制度の変更のため、1899(明治32)年に軍馬育成部が鳥取県の大山に移転(出典:図録「俘虜収容所に生きる-第一次世界大戦時青野原収容所の世界-」平成18年 神戸大学文学部地域連携センター発行)」したそうです。
自衛隊の官舎が建つ桜台(皿山の南側)を通過して間もなくすると、道の右側に有刺鉄線のある金網が現れます。
金網の向こうは、陸上自衛隊の演習場。
火薬庫もあり、火薬庫を囲む土塁の上には銃を持った隊員さんが2名いて私たちの方を眺めていましたが、こちらも30人がかりで見つめ返すと、照れてしまったのか奥へ移動してしまいました。
大型トラックが何台か止まっているのは道路からよく見えましたが、目をこらして奥の方を眺めると、03式中距離地対空誘導弾(中SAM)や何やら特殊な車両の姿も見えました。
自衛隊の施設を写真に撮ることは最近厳しく制限されているので、この付近では写真を撮っていません。(Googleのストリートビューでも、2015年12月現在、この辺りは掲載されていません。駐屯地に近い場所は掲載されています。)
10:46
演習場の周囲を時計回りに進むように付けられた道が東を向いた頃、北へ延びる農道へ入りました。
演習場の周囲を時計回りに進むように付けられた道が東を向いた頃、北へ延びる農道へ入りました。
1車線幅の狭い道路で、100年前の道ならこの程度の幅しかなかったろうなと思えるような所です。
地形図で「南新池」の西にある87mの標高点の場所には庚申堂(こうしんどう)が建っていて(地図中「庚申堂」)、屋根の葺き替え作業の真っ最中でした。
葺き替える前は屋根に猿の像があったのに、更新後はそれらの像はなくなるそうです。もったいないなぁ。
この庚申堂の東には、古い道標がありました。
この細い道が当時は主要な道路だったことを示す証拠です。
この細い道が当時は主要な道路だったことを示す証拠です。
国道372号線を渡り、物流会社の大きな倉庫の横を北へ抜けると、道はあぜ道に変わります。
100年前は、俘虜たちが歩いた道すべてがこのような未舗装の道路だったはず。
100年前は、俘虜たちが歩いた道すべてがこのような未舗装の道路だったはず。
11:02
青野原町へ向けて進路を南へ変えました。
青野原町へ向けて進路を南へ変えました。
11:05
青野原町公民館のすぐ北で、地中の鉄パイプが見えるように土が掘り返されていました。
ガイドさんによると、その鉄パイプは当時俘虜収容所へ水を送っていた水道管だそうです。
青野原町公民館のすぐ北で、地中の鉄パイプが見えるように土が掘り返されていました。
ガイドさんによると、その鉄パイプは当時俘虜収容所へ水を送っていた水道管だそうです。
11:08
青野原町公民館に到着。
今日のイベントのために開放されている公民館で昼食休憩です。
青野原町公民館に到着。
今日のイベントのために開放されている公民館で昼食休憩です。
見ての通りの昔ながらの建物で、中も古き良き和風建築。
最近は見かけない真っ白な座布団が並べてありましたが、この公民館の内装にはそれがとてもよく似合っていました。
最近は見かけない真っ白な座布団が並べてありましたが、この公民館の内装にはそれがとてもよく似合っていました。
この青野原町一帯が、100年前は俘虜収容所でした。
公民館のある場所は、かつて厨房と浴室があった場所。
水道管があった場所は、表門付近。
水道管があった場所は、表門付近。
道路は、当時の収容所内を通っていた道の形をそのまま受け継いでいます。
公民館の西と南が、かつて兵舎が並んでいた場所です。
2000年代前半までは、いくつか当時の建物が残っていたそうですが、現在も残っているのは、将校用の浴室と言われている建物のみ。
昼食までの時間に、その建物を全員で見学しました。
今回はイベントのため地元の方と一緒にこの建物を見学しましたが、おそらく私有地のため、普段勝手にこの場所へ入ることは出来ないと思います。
そのため、詳細な位置についてはここでは紹介しません。
11:30~12:30
公民館内で昼食。
公民館内で昼食。
公民館の外では、地元の方々が作った野菜の直売会が行われました。
私は試食で頂いた焼き芋が美味しかったのと、もともと芋が好きなので、安納芋と里芋を購入。
12:00からは、公民館の中でガイドさんによる俘虜収容所に関する詳しい説明を聞かせて頂きました。
それによると、第一次世界大戦当時の日本はハーグ陸戦協定を批准していたのと、ヨーロッパの列強と同じくらい先進的な国であることを示すために、捕虜を丁重に扱ったそうです。
捕虜の扱いが良かったのは、主戦場がヨーロッパで日本があまり疲弊していなかったことも関係しているだろうとのこと。
当時の捕虜たちは遠足に出かけたり、地元の方と交流をもったり、豚を飼育してソーセージを作ったり、自分たちでパンを焼いたりし、比較的自由な生活をしていたようです。
ちなみに、収容所内の酒保(売店)で売られていたビールは、アサヒビールだったそうです。
青野原俘虜収容所の写真ですが、「近代デジタルライブラリー」で公開されているものがあるので、それを紹介します(著作権保護期間満了)。
写真のキャプション内、括弧の文章は、私(しみけん)による注釈です。
▲青野原俘虜収容所 全景(遠景中央やや左に善防山、中央付近に笠松山が写っていることから、おそらく中央は現在公民館がある場所で、南西向きに撮影された写真)
▲青野原俘虜収容所 事務室内(今回参加したツアーのガイドさんによると、収容所北西に事務室があったとのこと)
12:30
公民館を出発。
公民館を出発。
往路を引き返して青野ヶ原駅へ向かいます。
13:40
青野ヶ原駅に到着。
青野ヶ原駅に到着。
13:59
加古川行きの列車で加古川駅へ向かい、新快速に乗り換えて姫路へ帰りました。
加古川行きの列車で加古川駅へ向かい、新快速に乗り換えて姫路へ帰りました。