播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県宍粟市の長水山(584.2m)

ようやく涼しくなってきたので、今日は近場の低山を歩いてきました。
行き先は、宍粟市の長水山(ちょうずいさん)。

山頂に長水城跡がある山です。
 
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「山崎」
 
 
長水城址(ちょうずいじょうし)
【所在地】宍粟市山崎町五十波(いかば)
 
 市街地より北西に約5キロ、五十波地区と宇野地区に跨りそびえる標高584メートルの長水山上に築かれた山城で、南北朝期に赤松円心の三男則祐(そくゆう)によって築かれたと伝わる。西播磨守護代をつとめた赤松一族宇野氏は、室町中期まで篠ノ丸城に本拠を置いたが、戦国期になると防備に優れた長水城に拠点を移した考えられている。
 播磨北西部の城としては規模が大きく、現在信徳寺の本堂が建つ山頂部に東西約10メートル、南北約23メートルの主郭を置き、南北と北東方向へ延びる尾根を約100メートルにわたり段々に削平して郭を設けている。主郭の石垣は最高で約6メートルあるが、大部分は後世に積み直されたものと考えられている。
 なお、宇野地区の伊水(いすい)小学校は大手口の居館跡と推定されており、地名などの残りからこの地域には原初的な城下町があったものと推測されている。また、搦手口(からめてぐち)の五十波地区にも五十波構(いかばがまえ)と呼ばれる平城があった。
 天正8年(1580)4月、聖山城(ひじりやまじょう)に本陣を置いた羽柴秀吉は宇野方の拠点を次々と攻略して長水城に迫り、所々に砦を構えて包囲を固め一端英賀(あが)(姫路市)へ転戦した。同年5月、奮闘むなしく城を脱出した宇野政頼(まさより)・祐清(すけきよ)父子は美作方面へ逃れようとしたが、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)・荒木重堅(あらきしげかた)・神子田正治(みこだまさはる)らの軍勢に追いつかれ、千種大森(ちくさおおもり)で討ち死にしたとされる。
 なお、江戸後期成立の『長水軍記(ちょうずいぐんき)』は、黒田官兵衛の調略で裏切った家臣の放火により長水城が落城したと伝えている。その真相は不明であるが、宇野氏の滅亡によって播磨の反織田勢力は一掃され、当地の戦国時代は終焉することとなった。
 その後、宍粟は神子田正治、次いで黒田官兵衛らの領地となり、元和(げんな)元年(1615)宍粟藩主となった池田輝澄(いけだてるずみ)が山崎城を築城して近世城下町を整備し、長水城はその役割を終えることになった。
(出典:山頂の看板 原文まま)
 
過去にも何度か歩いたことはありますが、山城跡であることをきちんと意識して歩いたことがなかったので、誰が見ても一目で城跡と分かる山頂の主郭跡以外の郭跡を見ることを目的とします。
 
9:15
姫路市街の自宅を車で出発。
 
国道29号線を北上し、山崎の市街地に入ってまもなくの「今宿北」交差点を左折します。
そして、突き当たりの一本手前(ヤマザキストアがある)を右折。この道は県道429号線です。
 
そのまま道なりに県道429号線を北上し、井沢の里の建物を左手に見ながら通り越してすぐ先、小さな川を渡る直前にある右への分岐に入ります。
 
トイレのある公園を右手に見ながら進み、突き当たりを左へ曲がって道なりにすぐまた右へ曲がると、林道法師ヶ谷線に入ります。アスファルト舗装だったり簡易舗装だったりしますが、全線を通じて舗装されています。
 
この1車線幅の林道の終点が、今回の登山口です。
 
以下のURLをクリックすると、Googleマップで林道法師ヶ谷線の終点の位置が表示されます。
 
10:15
林道法師ヶ谷線終点に到着(地図中「P」)。
車が何台か置けるスペースがあり、最奥が登山口になっています。
 
 
▲林道法師ヶ谷線終点の駐車スペース
 
10:25
GPSの測位を待ちながら着替えを済ませ、出発。
 
登山口には、平成26年3月20日から平成28年3月25日まで、砂防堰堤工事のため伊水小学校ルートが通行止めになっている旨の看板が設置されていました。
 
 
▲登山口
 
最初は薄暗い植林の中の道です。

すぐに分岐に出会いました(地図中「標準コース・健脚コース分岐」)。
楽に登りたいので、標準コースの方へ。
 
 
▲標準コースの様子
 
10:36
南北方向へ延びる尾根の上に出て、尾根道と合流しました。
南を指して「下町へ」と書かれた道標がありますが、山頂方向への道標は見当たりませんでした。
 
ここからは東西方向へ延びる稜線に向けて一直線に登る丸太階段道です。
 
 
▲丸太階段
 
10:41
道標のない分岐に出会いました。
まっすぐ進めば丸太階段を登って展望台(地図中「展望台」)へ、左へ進めばなだらかな道で主稜線に乗れます。
 
やはり楽な方を選び、左へ進みました。
 
10:43
主稜線に乗りました。
 
 
▲主稜線を通る道との合流地点の様子
 
後は山頂まで一本道です。
ここからはなだらかなアップダウンが多く、道も広くて蜘蛛の巣もありませんし、蜂やハエもおらず快適。
 
 
▲主稜線上の道の様子
 
10:49
408m標高点付近から、道の右側に鹿除けネットが出てきます。

見た目は良くありませんが、ネットの向こう側は伐採されているのか、北東方面の見晴らしが少しですが開けています。
 
 
▲ネット越しに宮山(645.8m)を見る
 
408m標高点の次の小ピークは西側を巻くように道が付けられていて、いったん鹿除けネットから離れますが、小ピークを過ぎて道が尾根の中心に戻ってくると、再び鹿除けネット沿いを歩くことになります。
 
再び鹿除けネットと出会う付近からは、水剣山が大きく見えました。
 
いつの間にか鹿除けネットが無くなったと思ったら、倒木が切り刻まれて脇にどけられた雑然とした雰囲気の場所や、背の低い植物が道の両側に多い区間も出てきますが、そういった場所はごくわずか。
 
431m標高点を過ぎると、道が尾根の西側にずれ、岩を削って付けられたような道になりました。

大きく右へカーブするように尾根を回り込んでしばらく進むと、堀切(ほりきり)に出会います(地図中「堀切1」)。
堀切の左半分は登山道建設で破壊されているため、右側を見ていないと気づきません。
 
 
▲堀切
 
堀切は、尾根をV字型に切り込んで寸断した、山城の防御設備です。

攻城側は急斜面を下って登り返さないといけないため、進撃速度が一気に遅くなりますし、急斜面を下る時は攻城兵が無防備な体勢になり、城に籠もる兵からは攻撃しやすくなるというもの。
 
この堀切は、今では埋まって浅くなっていますし、登山道を付けるために大部分が破壊されてしまっていますが、往時は深くえぐれていたのでしょう。
 
堀切は山城の最も外側に作られていることが多いので、ここからは城跡の痕跡を見逃さないように注意して歩くことにしました。
 
堀切1を過ぎてから尾根の西側を道が通っているのですが、右上を見ると削平地が何段も並んでいるように見えます。
 
地図で「三の郭」(三の丸)と書いた付近は、道が平坦、数メートルの段差、平坦、数メートルの段差という具合になっています。つまり、登山道は削平地群の中を通っていることになります。
 
以前歩いたときは山城について無知で、何も感じずに歩いていましたが、やはり知識が増えると同じ山を歩いても楽しさが違います。
 
11:18
伊水小学校からの登山道が合流する地点を通過(地図中「伊水小学校分岐」)。
ここには、「下山禁止」の札が立っていました。
 
 
▲伊水小学校からの道が合流する地点の様子
 
このすぐ先では、二つ目の堀切に出会います(地図中「堀切2」)。
これは二の郭(二の丸)南端にあるもので、先ほどの堀切とは違い、道の左側に形が残っています。
 
 
▲2つめの堀切の様子
 
堀切2を過ぎると、道は尾根の東側を進んでいきます。
 
 
▲山頂が近づくと尾根の東側を進む(左側の斜面の上に二の郭がある)
 
この道には、「トイレ」と書かれた道標のある分岐があり、トイレ方面を覗いてみると簡易トイレが設置されていました。

怖くて中は覗きませんでしたが。
 
 
▲簡易トイレ
 
11:24
民家に突き当たりました(地図中「民家」。人が住んでいます)。
これを左に曲がると、そびえ立つ主郭の石垣が視界に飛び込んできます。
 
 
▲民家前から主郭の石垣を見上げる
 
石垣に感動しながら歩くと、すぐに山頂広場(二の郭跡)。
東方面の展望が大きく開けた気持ちよい場所です。
 
 
▲山頂広場
山頂広場でデジイチを使って撮影した全天球パノラマ(撮影日:2015年11月1日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/chozuisan20151101-1/virtualtour.html
 
後ろを振り返ると、青い鉄階段があります。
これを登ると、主郭跡。今は信徳寺が建っています。
 
鉄階段の下には、往時の物と思われる石段が、かなり崩壊していますが一部残っていました。
 
 
▲主郭跡へ続く青い鉄階段
 
 
▲長水山 信徳寺
 
信徳寺の前に、宍粟50名山の標柱が立っています。
宍粟50名山的には、ここが山頂ということでしょうか。

信徳寺にお参りして驚きました。中に長水城の縄張り図と復元図が置いてあったのです。
長水城のこんなに詳しい縄張り図があるのは知りませんでした。
 
往路で見かけた堀切や削平地は「おそらくそうだろうな」という程度の感覚で見ていましたが、この縄張り図を見て自分の感覚が正しかったことが分かって一安心。
 
続いて、信徳寺の裏手にある祭壇(?)を見物。
この祭壇に三等三角点標石(点名:蔦沢2)が埋設されています。
 
 
▲信徳寺の裏にある祭壇
 
 
▲祭壇上には不動明王像
 
 
▲不動明王像の右後ろにある三等三角点標石(点名:蔦沢2)
三等三角点標石(点名:蔦沢2)近くで、RicohのTHETA S(シータ・エス)で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2015年11月1日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/chozuisan20151101-2/virtualtour.html
主郭跡の北側斜面にも複数の郭跡があるようですが、上から見下ろした限りでは分かりませんでした。
 
青い鉄階段を下って山頂広場(二の郭跡)に戻り、その最南端の削平地でもパノラマを撮影してみました。
二の郭跡南端で、RicohのTHETA S(シータ・エス)で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2015年11月1日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/chozuisan20151101-3/virtualtour.html
山頂広場とこの削平地の間はえぐれていますが、これも堀切跡のようです。
 
 
▲二の郭を南北に分断する堀切跡
 
 
一通り景色を楽しんでパノラマ撮影を終えたので、山頂広場から東の景色を楽しみながら昼食を摂ることにします。
 
本日の昼食は、マルちゃん黒い豚カレーうどん(賞味期限切れ後1ヶ月経過)。
家で食料をあさっていたら賞味期限が切れたコイツが見つかったので、自動的にこれに決まりました。
 
山頂広場のベンチに座ると、正面に明神山が、その少し左には七種山塊が見えます。
右の方を見ると、姫路の山並みがはっきり見えて、かなり良い気分。
 
二の郭を分断する堀切近くからは、西方面の展望が少し楽しめます。
 
 
▲二の郭跡から駒の尾~後山山塊を見る
 
視程はおよそ30km弱といったところ。
それより遠くは、真っ白でよく見えませんでした。
 
12:50
下山開始。

往路をそのまま引き返しました。
 
13:38
駐車場に到着。
 
14:25
自宅に到着。