播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県姫路市の恒屋(つねや)城跡

最近は、雨が降った翌日の空気の澄み具合が素晴らしい。
今日も雨上がりだったので、ベランダから景色を見ると素晴らしい視界でした。
 
こんな日は展望を楽しみながら山の上で昼食を食べるに限ります。
が、朝ゆっくり寝ていたので、この時点で朝の10時。
 
急いで行き先を決めて荷物をデイパックに詰め込み、出かけてきました。
 
向かったのは、姫路市香寺町にある恒屋城跡。
 
恒屋城
 【城史】恒屋城の築城について『播磨鑑』は「恒屋肥後守(伊賀守)光氏が長禄2戊寅年(1458)之を築く」とある。光氏は、北垣聡一郎氏の引用した『恒屋の里』『播磨古城記』によると城主恒屋刑部少輔光稿の長子となっており、光稿がすでに城主と書かれているところからその築城年代はさらにさかのぼることが考えられる。『日本城郭大系』には『赤松秘士録』を引用して光(満)氏が嘉吉の変に赤松満祐に呼応して書写坂本城に参集したことをあげている。嘉吉の変は1441年であるから、それ以前にすでに城主として存在していたことが推測される。恒屋氏の名が文献にあらわれるのは永享元年(1429)とされているが、この頃すでに恒屋城主として居城していたのではなかろうか。しかし、『日本城郭大系』の筆者は光氏の没年が慶長5年(1603)とあるところから坂本城に参集したのは光氏では年代は一致しないとして、父光稿の間違いであろうとしている。
恒屋氏家系によると、恒屋伊賀守光氏は大坪対馬守義勝の実子(2男)となっている。義勝の2男光氏が恒屋光稿の養子となったとするのは北垣氏の説である。 光氏のあとは光成、光誉と続いたが、永正18年(1521)浦上村宗がここに本営を構えて同族赤松氏や山名氏と争うという事が起り、大永(1521~27)の頃に至って恒屋の家臣中にも赤松に属するもの、浦上に味方するものができて混乱を来し恒屋氏の勢力も不振の状態にあった。 天正2年(1574)5月5日光成ら恒屋一族は置塩城に赤松義祐(『播磨鑑』には則房)を攻めたが、白国構主白国治大夫宗把に阻まれて討死した。しかしその後も恒屋の一族は恒屋城を居城としていたらしく、天正年間の羽柴秀吉の播磨攻略の際恒屋氏はこの城に籠って戦ったが遂に落城したといわれている。
 
出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P227
    兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4
 
前回(2014年2月9日)に歩いたのと全く同じルートを歩いています。
2014年2月9日に恒屋城跡を歩いた記録:

 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「前之庄」。(2014年の記事で使用したのと同一の地図です)
 

 
▲恒屋城跡の縄張り(模式図)2014年の記事で使用したのと同一の図です。
 
10:35
姫路市街の自宅を車で出発。
 
姫路市街から国道312号線を北上し、「溝口」交差点を左折します。
「溝口」交差点から西へ進むこと約3.3kmで、消防分団の火の見櫓と車庫、そして赤茶色の屋根の公民館が左手にあるのに出会います(地図中「公民館」)。
 
この公民館の数十メートル先、右側に「恒屋城跡→」と書かれた小さな標識があるので、それに従って右折。
すぐ先の突き当たりで左前を見ると、また恒屋城跡への標識が出ているので、それに従って細い道へ入っていくと、恒屋城跡へ登るハイカーのための駐車場に至ります。
 
公民館から駐車場への道は、軽四なら問題なく走れる幅ですが、大きな車だと厳しいと思います。
 
11:20
恒屋城跡の駐車場に到着(地図中「P」)。
前回は擬木階段の資材が駐車場に積まれていましたが、それが階段となって斜面に設置されていました。
 
以前の駐車場と登山口の様子は上にリンクを張った過去記事をご覧頂くとして、2015年6月現在は下の写真のようになっています。
 
 
▲恒屋城跡登山者用駐車場と登山口(右の階段)
 
11:25
出発。
 
登山口の場所が全回と比べて変わっているだけで、登山道の様子はほとんど変わっていませんでした。
所々に新しい擬木階段が設置されていますが、特に目立たず、登山道の雰囲気は壊れていません。
 
道は一直線に尾根を登るのでは無く、標高150m付近で突然東へ回り込むように曲がります。
道が東へ向きを変える場所は、一見すると二股の分岐のようになっていますが、道標があるので間違えることはないでしょう。
 
11:34
恒屋城跡の南側、前城といわれている部分の南端(お堂が建っている)に出ました(地図中「お堂」)。
お堂の前には城跡の見所である畝状竪堀群がありますが、草が生い茂っていて形状はほとんど分かりません。
 
 
▲お堂のある前城南端付近の様子
 
 
▲草に覆われた畝状竪堀群
 
ここから主郭のある後城方面へのルートは2本あります。
一つは三の郭を通るルート。もう一つは、三の郭の西側にある犬走りを通るルート。

道標では犬走りを歩いて後城へ向かうよう案内されていましたが、前回同様にお堂の背後にある切り岸に付けられたつづら折れの道を上り、三の郭へ上がりました(地図中「三の郭」)。
 
三の郭は草むらになっていて、足下が見づらくて歩きにくい。
ニョロニョロしたもの(蛇にしては小さかったのでトカゲかな)や虫などの小動物がガサガサと音を立てて逃げていくのが分かります。
 
三の郭は東側の巻き道を通って通過したので、最高部は通りませんでした。
 
11:40
三の郭から北へ下ると、土塁があります(地図中「土塁」)。
 
山城好きの方には立派な土塁の跡に見えると思いますが、あまり興味の無い人には、土塁には見えないかも知れません。
 
 
▲土塁
 
土塁の上を通過すると、恒屋城跡の見所のひとつ、L字型の横堀がある場所に出ました(地図中「二の郭」)。
 
前回と違って草が生い茂っていますが、それでも横堀や通路、二の郭の形状はしっかり分かります。
 
 
▲横堀(中央)と二の郭(右上)
 
横堀越しに二の郭を右手に見ながら北へ進むと、道は右へ直角に折れ曲がり、丁字路に突き当たります。
この丁字路を右へ進むと二の郭。左へ進むと主郭方面です。
 
前回は二の郭へ入りましたが、今日は草が生い茂った藪にしか見えなかったので、二の郭への虎口跡だけ見て主郭方面へ進みました。
 
ここからは、何段もの郭群の中を登って行きます。
 
 
▲主郭手前の郭群を見上げる(写真だと遠近感が無いため分かりづらいですが、現場に立つと削平地が何段もあることがよく分かります)
 
11:47
主郭跡に到着(地図中「主郭」)。
 
 
▲主郭跡の様子(プレートは、山頂プレートや盗掘跡を示すものの他は、どの方向に何が見えるのかを示すもの)

期待通りの大展望でした。
 
主郭跡からの展望は、前回の山行で全天球パノラマを撮影したものがあるので、それをご覧下さい。(本日は山の上で昼食を食べることだけが目的だったので、パノラマ撮影機材を持って行っていません。)
 
 
恒屋城の主郭跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2014年2月9日)
 
東を見れば加西の街並みの向こうに六甲山塊、南東には古法華山塊から畑山、西には棚原山が聳え、北西には明神山、北には七種薬師が目立っています。
 
 
▲主郭跡から見た六甲山塊
 
南側の景色を楽しみながら、どん兵衛きつねうどんで昼食。
手や顔にたかってくるハエと格闘しながらの昼食で、落ち着きませんでした。
 
うるさかったハエが急にいなくなったので、不審に思って周囲を見ると、雪彦山方面の景色が真っ白になり、明神山も白っぽくなっていました。そして、まもなく雨が降り出しました。
小雨ですぐに止みましたが、北から厚い雲が次々に来そうです。
 
ということで、私にしては珍しく、1時間も経たないうちに撤収。
 
12:33
下山開始。
 
基本的には一本道なので往路をたどることになりますが、三の郭付近だけ、三の郭を通るか、その西の犬走りを通るのかを選べます。
 
今回も、前回同様犬走りを経て駐車場へ戻りました。
 
 
▲犬走りの様子(畝状竪堀の影響を受けてグニャグニャと曲がっている)
 
12:47
駐車場に到着。
 
やはり低山の城跡は、冬場に行くに限ります。