播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県姫路市の書写山で官兵衛特別展と鬼舞い見物

2014年1月12日から2015年3月31日までの期間で、書写山で開催されている書写山圓教寺黒田官兵衛特別展を見に行ってきました。
 
大河ドラマや史実では、三木城攻めの際に秀吉が本陣を書写山に置いたとされていて、大河ドラマでは書写山のシーンが実際に書写山で撮影されました。
 
建物は修復されているため、秀吉やその軍勢が見た建物とは微妙に違うのですが、それでも何百年も同じ場所に同じ名前で残っている建物が使われているわけですから、すごいことだと思います。
 
今回の特別展の内容は、食堂(じきどう)内の勘兵衛にまつわる展示と、本陣が置かれたとされる十地坊(じゅうぢぼう)跡の整備です。
 
これら2つの展示を見ることが本日の目的でしたが、偶然にも大きなイベントと日が重なっていたため、当初の予定にはなかったイベント見物も楽しめました。
 
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「姫路北部」
 
下のURLをクリックすると、ロープウェイ書写駅の無料駐車場の位置がGoogleマップで表示されます。
山陽道の高架下に駐車場がありますが、Googleマップでルート検索をすると、山陽道へ乗るよう案内されてしまうため、ご注意下さい。
 
 
10:10
ロープウェイ書写駅の南側、山陽道の高架下にある無料駐車場(地図中「P」)に駐車。
 
 
▲無料駐車場
 
 
▲ロープウェイ書写駅(左手前はトイレ)
 
書写駅の券売機で往復の切符を購入し(大人ひとり¥900)、階段を上がって乗り場へ。
出発待ちのロープウェイは、満員電車のような混雑ぶりでした。
 
ロープウェイは毎正時・15分・30分・45分の発車です。
 
■書写山ロープウェイ
長さ 781.09m
高低差 210.87m
営業時間 8:30~17:00(季節延長あり)
発車時刻 毎時 0・15・30・45分
(出典:書写山ロープウェイの切符裏面)
 
10:15
すし詰めのロープウェイが書写駅を出発。約4分で山上駅に到着します。

途中、ロープの支柱を通過する部分で多少揺れますが、それ以外は至って快適な乗り心地です。
 
ガイドさんのアナウンスによると、本日は修正会(しゅしょうえ)という行事があるため、通常ひとり¥500の入山料が無料になるとのこと。
 
10:19
山上駅に到着。
 
 
▲山上駅から南東を見る
 
山上駅のトイレで用を足し、自販機で飲み物を購入しました。
 
ロープウェイの山上駅を出て北へ行くと、すぐに入山料を支払うための志納所があるのですが、今日は無料開放と言うことで素通り。
 
特別志納料(ひとり¥1,000)を支払うと、摩尼殿(まにでん。地図中「摩尼殿」)近くまでマイクロバスで往復送迎してもらえるのですが、今日は徒歩で摩尼殿方面へ向かうことにしました。
 
参道は、地形図では実線で描かれている道です。
地形図の二条道路は、マイクロバス用の道路(未舗装)。未舗装の山道を走るマイクロバスはかなり楽しいので、機会があれば是非乗ってみて下さい。
 
なお、この道路は数十年前まで、マイクロバスの代わりに馬車が走っていました。
子供の頃は私もその馬車に揺られたことがあります。乗り心地は悪いし、道は馬糞だらけでしたが、あれは面白かったなぁ。
 
地形図の等高線を見て頂くと分かりますが、摩尼殿方面への道はなだらかな上り坂。
両側に仏像が並べられており、その前でお経を唱えている参拝者もいらっしゃいました。
 
10:30
姫路市街地方面を見渡せる展望所がありました(地図中「展望所」)。
ベンチがあってゆっくり休めそうですが、かすんでいて景色が楽しめないため、今日は素通り。
 
 
▲展望所の様子
 
 
▲展望所の先の参道の様子
 
10:33
仁王門に出会いました(地図中「仁王門」)。
 
仁王門 兵庫県指定文化財(昭和43年3月29日指定)江戸時代
圓教寺の正門。東坂の終点にあたり、これより中は聖域とされる。
門は、両側に仁王像を安置し、中央が通路となっており、日本の伝統的な門の形を受け継いだ「三間一戸の八脚門」である。天井には前後に二つの棟をつくり、外の屋根と合わせて「三つ棟造り」となっている。
(出典:現地の看板)
 
 
▲仁王門
 
 
▲仁王門の天井を見上げる
 
 
▲仁王門の先の参道の様子
 
10:36
壽量院(じゅりょういん)下を通過(地図中「壽量院」)。
ここでは精進料理を頂くことが出来ますが、要予約で、観光客が突然押しかけても中には入れません。
 
壽量院の先では、道の右側に立派な石垣を見ることが出来ます。
 
壽量院の先、右側には空き地があるのですが、ここは五重塔跡です。
書写山にはその昔、三つの堂の近くとこの場所、つまり2箇所に五重塔が建っていたそうです。
 
10:39
姫路市の小学生が林間学校で宿泊する圓教寺会館(地図中「圓教寺会館」)前を通過。

私が林間学校に参加したときは、ここで肝試しをやらされました。大人でもこんな山中を夜に歩くのは怖いですよ。
小学生にとって、それはそれは恐ろしいイベントでした。
 
続いて十妙院(じゅうみょういん)前も通過(地図中「十妙院」)。
この十妙院には狩野永納筆のふすま絵があり、特別公開の日にこの中に入ったことはありますが、普段は立ち入ることが出来ません。
 
十妙院の先で緩やかな階段状の坂道を下りきると、摩尼殿の下に出ます。
 
 
▲十妙院から摩尼殿への下り坂
 
10:41
摩尼殿(地図中「摩尼殿」)の下、はづき茶屋の前に到着。
 
摩尼殿
岩山の中腹に建つ舞台造りの建物。国指定重要文化財「四天王像」が安置されています。
(出典:特別展パンフレット)
 
 
▲摩尼殿を見上げる
 
今日のイベントは大きなもののようで、圓教寺会館も十妙院も僧侶の控え室になっていましたし、摩尼殿下には露店が出ていて、大賑わい。
 
賑やかな場所は苦手なので、摩尼殿へ避難。
 
 
▲舞台造りの摩尼殿を支える柱
 
石段を登り、まるで近世城郭のような石垣の脇を通り過ぎると、摩尼殿の入口です。
 
 
▲摩尼殿の入口屋根を見上げる
 
摩尼殿は土足厳禁なので参拝者は全員靴を脱ぐわけですが、置き場がないくらいに靴だらけ。
すでに多くの方が中におられる様子。
 
しかし、入ってみるとそれほどの混雑ではありませんでした。
というのも、もともと摩尼殿の中が広く、その上多くの方が柵の内側に入って座っていたため、一般の参拝客がウロウロできる範囲の人口密度がそれほど高くなかったのです。
 
 
▲摩尼殿内部の様子(柵の内部(左)に多くの人がいた)
 
10:48
摩尼殿の見物を終え、摩尼殿の裏(北側)を通って三つの堂へ向かいました。
 
三つの堂への道は、木漏れ日の差す落ち着いた雰囲気の小径で、途中には樹齢700年の巨大スギ(樹高約35メートル、幹周り8.4メートル)が立っています。
 
 
▲三つの堂へ続く道の様子
 
10:54
三つの堂に到着(地図中「三つの堂」)。
 
 
▲三つの堂(左から常行堂、食堂、大講堂)
 
三つの堂とは、食堂(じきどう)・大講堂(だいこうどう)・常行堂(じょうぎょうどう)の3つを指し、圓教寺と言えば摩尼殿よりもこちらの方が有名なほどの場所です。
 
映画「ラストサムライ」の撮影や前述の大河ドラマ「軍師勘兵衛」の撮影も、この食堂とその前の広場で行われました。
 
そんな場所ですが、摩尼殿だけ見て帰ってしまう観光客もいます。
実際、摩尼殿の下で観光客に帰り道を聞かれた茶屋の方が「三つのお堂は見た?」と尋ね、観光客が「何ですかそれは?このお堂(摩尼殿)?」と聞き返したため、茶屋の方が慌てて説明を始めたという光景も目にしたことがあります。

現地の案内表示等が不十分なのかな。それとも、帰ってしまう観光客の勉強不足かな。
 
食堂
後白河法皇の勅願により創建。室町期に建てられ、本来は修行僧の寝食のための建物。別名「長堂」とも呼ばれ、現在1階に写経道場、2階では寺宝がご覧になれます。(国指定重要文化財)

大講堂
室町中期に建てられた圓教寺の本堂にあたる学問と修業の場。
本尊の釈迦三尊像が安置されています。(国指定重要文化財)

常行堂
本尊は阿弥陀如来像で常行三昧をするための堂。中央に張り出した舞台は大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものです。(国指定重要文化財)
(出典:特別展パンフレット)
 
先ずは食堂の1階にある勘兵衛関連の展示を見ることにしました。ここも土足厳禁ですが、すでに並んでいる靴は数足だけ。摩尼殿とはえらい違いです。
 
1階は、写真撮影が認められています(三脚不可)。
 
鬼瓦がずらりと展示されており、その下には軍師勘兵衛の撮影に関するパネル展示があります。その向かい側には古い柱が横たわっており、それが秀吉軍の兵士が落書きをしたとされるものでした。
 
 
 
▲鬼瓦と軍師勘兵衛関連のパネル展示
 
旧摩尼殿書写塗飾り柱
室町時代(明応3年1494)
明応3年(1494)に再建された摩尼殿の柱として使われたものである。明和5年(1768)姫路藩主酒井公の助力により行われた、摩尼殿の修理により、新しい柱に取り替えられた。
柱には天正6年(1578)の「天正の乱」の際に秀吉軍の兵士が書いたと思われる落書きが残っている。
現在の摩尼殿は大正10年に焼失したため、昭和8年(1933)に再建された堂である。
落書きの内容
「羽柴小一郎」
・・・羽柴小一郎は秀吉の弟
「天正六年」
・・・秀吉による圓教寺乱入年は天正6年である
「近江浅井郡」
・・・秀吉の本拠地である長浜城は近江国浅井郡にある
(出典:現地のパネル)
 
 
▲秀吉軍の兵士が落書きをしたとされる摩尼殿の柱の展示
 
 
▲柱の落書き(羽柴の文字が読める)
 
2階の展示も見ましたが、こちらは迫力のある仏像や性空上人(しょうくうしょうにん)の遺骨発見時の様子などが展示されています。(2階は写真撮影禁止)
 
11:08
食堂を出て北から西へ回り込むと、開山堂への道に出ます。

その前に、食堂のすぐ北には弁慶鏡井戸があるので、それを見物。
 
弁慶鏡井戸
 書写山には武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や勉強机が今に伝えられている。
 昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円(しなのぼうかいえん)がいたずら書きし、小法師2、30人を呼んで大声で笑った。目を覚ました弁慶は、皆がなぜ笑っているのか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し、喧嘩となる。その喧嘩がもとで大講堂をはじめ山内の建物を焼き尽くしてしまったと言われている。
 平成26年3月 姫路市教育委員会
(出典:現地の看板)
 
 
▲弁慶鏡井戸
 
11:10
開山堂(かいざんどう)に到着(地図中「開山堂」)。
 
開山堂
圓教寺の開祖、性空上人をまつる堂。
書写山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続ける奥の院の中核。現在の建物は、江戸初期の開山堂建築の代表作であり、軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち北西隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説が残っています。(兵庫県指定重要文化財)
(出典:特別展のパンフレット)
 
 
▲開山堂(左は護法堂拝殿、右は護法堂)
 
開山堂の軒下にある力士の彫刻は、下の写真のようなものです。
 
▲開山堂の軒下にある力士像(北東)
 
しかし、私たちが見ることが出来るのは、逃げ出したと言われている北西のもの以外の3つだけ。
肝心の北西の軒下は、見えないようになっています。

マナーを無視して山の斜面へ入れば見えるのでしょうが、いい歳をした大人がとる行動ではありません。
(GPS軌跡は開山堂の北へ延びていますが、実際は開山堂の北にある和泉式部の歌塚を堂内から見ただけで、外へは出ていません。開山堂の南から西へ延びている軌跡は、まだ見たことのない書写山の三角点への道を確認するために歩いた跡です。)
 
本日の目的は、黒田勘兵衛の特別展を見ることで、食堂の展示を見るのは達成したものの、もう一つの展示(?)である十地坊跡はまだ見ていません。
 
実は、そもそも十地坊がどこにあるのか分かりませんでした。
パンフレットをよく見ていなかったのです。
 
少し前にパンフレットをスキャンしてPDF化し、パソコンに保存はしてあったのですが、iPhoneへコピーしたり印刷するのを忘れていました。
 
景色が良い場所だという記憶はあったので、南側の展望台付近かなと思って開山堂から南へ移動。
今回は、開山堂から南へ少し下った谷にある刀出からの道との合流地点に立っている道標(展望台・金剛堂)に従って歩きました。
 
 
▲展望台方面への道の様子
 
 
▲立派な石垣の下を通った
 
石垣からわずかに上ると、金剛堂のある広場に出ました(地図中「金剛堂」)。

ここは、紅葉の季節は非常に美しい場所です。
 
ちなみに、紅葉の季節のこの広場で撮影した全周パノラマがありますので、興味のある方はどうぞ。 
2012年のもみじまつりで撮影した全天球パノラマ(撮影日:2012年11月23日)
 
 
▲金剛堂のある広場
 
広場から南へ行くと、展望台があります(地図中「展望台」)。
残念ながら、この付近には十地坊跡らしき表示はありませんでした。十地坊跡はどこなんだろう?
 
 
▲展望台の様子(景色を楽しめるのは写真左のパネルのある場所。あずまやは休憩所です。)
 
かすんだ姫路市街の景色を眺めながら、iPhoneで十地坊跡の位置を検索。
大講堂のすぐ横に案内があるとのこと。

中に入れる食堂にしか興味が向いていなかったため、見落としたようです。
 
ということで、鐘楼を見てそのそばにあるトイレで用を足し、薬師堂、松平直基墓所(いずれも地図中に同名で記載)前を通って、常行堂の裏から三つの堂の前に戻りました。
 
 
▲鐘楼(左下に映っている建物はトイレ)
 
鐘楼 国指定重要文化財(昭和25年8月29日指定) 鎌倉時代
袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。
寺伝によれば、鐘楼は元弘2年(1332)に再建、鐘は元亨4年(1324)に再鋳とされる。いずれも確証はないが、形や手法から14世紀前半のものと推定されている。
鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。
銅鐘は、兵庫県指定文化財(昭和25年8月29日指定)で、市内では最古のつり鐘である。
(出典:現地の看板)
 
これらの場所は、摩尼殿に比べると観光客が少ない印象があります。
書写山に来られる際は、せっかくなので有名な建物だけでなく、周辺の散策も楽しむことをお勧めします。
 
なお、ロープウェイ山上駅のラックに、圓教寺境内の簡単な地図が書かれたビラが他のパンフレットと一緒に置かれているので、ロープウェイを下りたらそれを忘れずに取ると良いでしょう。
 
11:36
三つの堂前に戻ってきました。
 
大講堂の横を見ると、十地坊跡へ案内する大きな看板が立っていました。
なんでこんなものを見落としたんだろう。
 
 
▲大講堂横の十地坊跡への案内看板
 
ここから十地坊跡へは、軽トラックなら走れる上り坂です。
 
11:38
十地坊跡に到着(地図中「十地坊跡」)。
コンクリート製の大きな配水池が鎮座し、その横にはNTTの携帯電話基地局が聳えています。
 
 
▲十地坊跡(コンクリートの建造物は配水池。右のフェンス内に携帯基地局。)
 
配水池の壁面には、藤巴紋が描かれた幕が貼り付けられ、その前には椅子が置かれていました。
植林が一部伐採されているおかげで、椅子に座ると北方面が見えるようになっています。
 
 
▲配水池前の椅子
 
 
▲椅子に座ると見える風景
 
書写山から北を見ると何が見えるのか、それは置塩城です。
木がまばらな置塩城主郭(本丸)跡が、双眼鏡を使わなくても間近に見えました。
 
置塩城は兵庫県姫路市夢前町宮置~糸田にある標高370mの置塩山(通称:城山)にある山城。
姫路市の中心部の北10kmに位置し、北から南に夢前川が流れ、川沿いに播但街道がある要所に築城された。
五代城主をした赤松家だが、最後の城主赤松則房は羽柴秀吉の中国攻めに対して、戦うことなく降伏し、軍門に入った。
勘兵衛とは狼煙等を使い連絡を取り合って三木城の別所長治を攻めたと言われている。
(出展:現地のパネル)
 
2014年12月に置塩城跡に行ったブログ記事を作成しています。興味のある方は、こちらもどうぞ。
 
兵庫県姫路市の置塩城跡
 
 
▲十地坊跡から置塩城跡を見る(矢印は主郭跡)
 
さらに、西は明神山から七種山、七種薬師、七種槍まで見渡せます。
 
ちなみに、置塩城跡から十地坊跡がどのように見えるのかは、下の写真でご確認下さい。
 
▲置塩城主郭跡から見た十地坊跡(2014年12月撮影)
 
私以外には誰もおらず、静かだし北の山並みが見えて気持ちよいので、しばらくボーッとしていましたが、ロープウェイでガイドさんが話していた今日のイベントについて調べてみようと思い、またまたiPhoneで検索。
 
なんでも、摩尼殿内部で儀式が行われ、その間は摩尼殿が完全に閉堂するとのこと。
また、13:00からは白山権現(はくさんごんげん)で鬼舞いがあるということも、圓教寺のFacebookに書かれていました。
 
修正会(しゅしょうえ)については、書写山圓教寺の公式サイトに説明があります。
 
白山権現は十地坊跡のすぐ近くです。

何度か行ったことはありますが、白山権現は大きなイベントが出来るような広さではありません。
人が集まると何も見えなくなるかも知れないと考え、まだ早いですが、白山権現へ向かうことにしました。
 
地形図を見ると、十地坊跡から実線道が白山権現(地図中「白山権現」)まで伸びています。
それを通ろうとしましたが、道がぬかるんでいて、普通のスニーカーでは歩きづらそう(そもそもスニーカーがドロドロになってしまいます)。
 
仕方が無いので、大講堂方面へ戻り、大講堂に下りる手前にある白山権現への分岐へ入りました。
 
摩尼殿から白山権現への道も大講堂から行く道も、整備された参道しかない書写山の中にあって、どちらもなかなか良い雰囲気の山道です。
 
 
▲大講堂近くから白山権現へ続く道の様子
 
11:57
書写山の最高地点(標高371m)にある白山権現に到着(地図中「白山権現」)。
鬼舞いが始まるまで1時間以上あるから誰もいないだろうと思っていましたが、すでに多くの人が来ていました。
 
白山権現
大講堂、摩尼殿についで性空上人が第三の吉所としたところで、上人はここで六根清浄の行をつんで心眼を開いたとされる。それにちなんで1月18日の修正会(鬼追い会式)では、主役の赤鬼、青鬼が、先ずこの白山権現に来て神域をまわりながら四隅でたいまつの明かりを振りかざす。
この地には、性空上人入山以前より祠があった。それは素盞嗚尊(すさのおのみこと)をまつる堂であった。これは神の時代素盞嗚尊が、この峰で一宿されたと伝える。故にこの山を「素盞の杣」と呼んだ。書寫山の名は、これに由来するといわれる。
(出典:現地の看板)
 
 
▲白山権現
 
お社の隣には、古い石碑が祀られています。
石碑には文字が刻まれていますが、私には一番下の「王神」の二文字しか読めません。
 
 
▲白山権現の脇にある石碑
 
白山権現には、お社と向かい合わせになるように農村舞台のような建物が建っており、この舞台で鬼舞いを行うようですが、すでにその前は人で埋まっています。
そこで、舞台を見下ろせる向かい側の斜面で待機することにしました。
 
12:50頃には、幼稚園児の団体や、その保護者の方々、私のようなたまたま居合わせた観光客等で、狭い白山権現周辺は人で埋め尽くされました。
 
13:09
赤鬼と青鬼(緑色ですが)が黒い布を頭にかぶって摩尼殿の方から現れ、舞台の奥へ消えていきました。
 
13:15
消防団員が松明(たいまつ)に火をともしたり、鬼舞いの準備をしている間に、袴姿の男性が舞台で木の棒を配り始めました。
これは鬼の箸と呼ばれるものだそうです。
 
 
▲鬼の箸を配る様子
 
13:25頃
ようやく鬼舞いが始まりました。
 
赤鬼が左手に松明、右手に鈴を持ち、床を踏みならしながら舞台に出てきました。
続いて剣を持った青鬼が登場。
 
舞台の陰にある鐘が打ち鳴らされる中、赤鬼と青鬼は独特の動きで床をドシンドシンと踏みならし、舞台の中を巡回します。
 
 
▲鬼舞いの様子(連写で撮っていたら、たまたま舞台近くの人のフラッシュとタイミングが合い、明るく映った写真。舞台の中は照明がないため薄暗い)
 
13:35
鬼舞いが終わったように見えたので、摩尼殿へ向けて下山開始。
 
歩きにくい山道なので大勢の人が一度に通れず、大渋滞になると予想されたため、いち早く下山を始めました。
が、私と同じように考えて(あるいは鬼舞いに飽きて)すでに下りていた人たちが山道で行列を成していました。
 
13:43
摩尼殿まで下りてきました。
 
徒歩でロープウェイ山上駅へたどり着いたのが14:00数分前。
 
先発のロープウェイは14:00ちょうど発ですが、すでに一杯で乗れそうにありません。
ということで14:15の次発に乗り、下山しました。