今日は、相生にある感状山(かんじょうさん)城跡を見に行ってきました。
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「二木」
感状山城跡と、そこから北へ約5キロ離れた三濃山まで往復で縦走したことがありますが、その時は城について知識がなく、城跡はほぼ素通りしているので、今回は時間がかかる縦走をせず、城跡見物だけをじっくり楽しむことが目的です。
インターネット上の情報によると、相生市立歴史民俗資料館には感状山城の復元模型があるそうです。
城の様子をイメージできれば、単なる山の中の平地や石垣の迫力が増すだろうと期待し、それを見てから城跡へ行くことにしました。
城の様子をイメージできれば、単なる山の中の平地や石垣の迫力が増すだろうと期待し、それを見てから城跡へ行くことにしました。
文末に感状山城跡発掘調査報告書(平成元年3月 編集 相生市感状山城跡調査委員会 発行)の付図を掲載しているので、参考にしてみて下さい。
感状山城
この城は下原山城または瓜生城とも呼ばれている。鎌倉時代に瓜生佐衛門尉がはじめてこの山に城を築いたという。瓜生城の名はここから生れた。また円心の3男赤松則祐がはじめて築いたともいわれている。ここでは後者の説をとりあげて築城年代を建武3年(1336)とした。足利尊氏が宮方の軍勢に追われて西国に落ちていったのを追って、建武3年新田義貞は播州へ軍を進めた。このとき義貞は徳力三河守秀隆ら3,000余騎をもって感状山城を攻めた。則祐の軍はよくこの城を守って徳力の軍勢を撃退した。義貞が白旗城を包囲するのはその後のことである。日を経て、足利尊氏が上京、天下を統一するや、則祐の活躍を讃えて感状を授与した。以来この城を感状山城と呼ぶようになったという。その後、岡豊前守や赤松義村が居城し、ついで晴政、義祐を経て則房に至ったとき、すわなわち天正5年(1577)羽柴秀吉の攻略に遭い落城した。
出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P189
兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4
下のURLをクリックすると、Googleマップで感状山城跡の位置が表示されます。
まずは相生市立歴史民俗資料館へ向かいます。
10:00
姫路市街の自宅から車で出発。
姫路市街の自宅から車で出発。
姫路バイパスを西進して相生へ向かい、県道121号線で相生市街を南へ走ります。
「旭大橋」交差点を右折し、突き当たりを左折。
左手に港が見える辺りで道の左側を注意しながら見ていると、相生市立歴史民俗資料館と図書館への標識があるので、それに従って左折。
その後は、同様の標識に従って進んでいけば、相生市立図書館の駐車場にたどり着きます。
その後は、同様の標識に従って進んでいけば、相生市立図書館の駐車場にたどり着きます。
図書館の駐車場は、歴史民俗資料館と共用です。
10:50
相生市立歴史民俗資料館に到着。
相生市立歴史民俗資料館に到着。
▲相生市立歴史民俗資料館
利用案内
開館時間: 10:30~14:30
休館日: 毎週月曜日(祝日が月曜日のときはその翌日)、12/28~1/3
入館料: 無料
住所: 相生市那波南本町11番1号(住所をクリックすると、Googleマップが開きます)
開館時間: 10:30~14:30
休館日: 毎週月曜日(祝日が月曜日のときはその翌日)、12/28~1/3
入館料: 無料
住所: 相生市那波南本町11番1号(住所をクリックすると、Googleマップが開きます)
目的の感状山城跡の模型は、2階に展示されています。
館内は撮影禁止なので、ガラスケース内の模型を色んな角度でじっくり眺め、城のイメージを頭の中に焼き付けました。
館内は撮影禁止なので、ガラスケース内の模型を色んな角度でじっくり眺め、城のイメージを頭の中に焼き付けました。
11:20
羅漢の里に向け、相生市立歴史民俗資料館を出発。
羅漢の里に向け、相生市立歴史民俗資料館を出発。
北へ進んで国道2号線に入ったら西進し、「竜泉」交差点を右折します。
この竜泉交差点にコンビニがありますが、これが羅漢の里までに出会う最後のコンビニ。
竜泉から北へ延びる道は県道44号線。これを北上します。
県道5号線と交わる「真広」交差点を過ぎた辺りで「瓜生羅漢石仏」の道標に従って左へ分岐し、その先では「瓜生羅漢」への道標に従って進めば、感状山城跡への遊歩道の起点となる「相生市 羅漢の里(http://www.rakansan.com/ )」にたどり着きます。
県道5号線と交わる「真広」交差点を過ぎた辺りで「瓜生羅漢石仏」の道標に従って左へ分岐し、その先では「瓜生羅漢」への道標に従って進めば、感状山城跡への遊歩道の起点となる「相生市 羅漢の里(http://www.rakansan.com/ )」にたどり着きます。
瓜生の集落を抜けてすぐの駐車場が、感状山城跡への遊歩道入口の最寄りの駐車場です。
川を渡って左手にキャンプ場が見える所まで行ってしまうと、行き過ぎています。
川を渡って左手にキャンプ場が見える所まで行ってしまうと、行き過ぎています。
11:40
羅漢の里の無料駐車場に到着(地図中「P」)。
登山靴に履き替えて出発。
羅漢の里の無料駐車場に到着(地図中「P」)。
登山靴に履き替えて出発。
▲羅漢の里の駐車場
この駐車場のすぐ北には、「里の店」という喫茶店があります(地図中「里の店」)。
注)冬期は土日祝祭日のみの営業です。
インターネット上の情報では、ここで感状山城跡の資料を見られるとのことだったので、資料(民俗資料館にあったものと同じパンフレットの他に、1990年代の山城に関する書籍に掲載されている感状山城跡のイラスト等)を見ながら昼食を摂りました。
模型を見なくても、こちらで想像イラストを見るだけで十分だったかな。
▲里の店
12:15
食事を終えて里の店を出て、お店のすぐ北にある公衆トイレへ。
食事を終えて里の店を出て、お店のすぐ北にある公衆トイレへ。
感状山城跡への一般向け登山道は、羅漢石仏へ続く道の途中から分岐しており、羅漢石仏への道は、公衆トイレのすぐ前にある小さな橋の向こう側です。
この橋の向こうの谷間は、羅漢渓谷。
瓜生羅漢渓
鍛冶屋川の源流三濃山の東南山麓に位置する瓜生字鍛冶屋谷。古くは天慶の乱(939~941)の賊徒藤原純友の一味が隠れ住んだ矢野の岩屋。くだって建武年間、赤松氏の居城であったと言う感状山城の西搦め手の間道に沿った渓谷として知られてきた。この渓谷の岩屋の奥に羅漢が祀られていることから、早くより“瓜生の羅漢さん”と呼ばれしたしまれてきた。羅漢渓谷の中には渓川(たにがわ)が流れ、春は桜、初夏のもみじ、夏のキャンプ設営、秋の紅葉と、人里からほんのわずか入ったところでありながら、深山幽谷の味わえる好適地である。小岩の石段を登り巨岩のトンネルをくぐり抜けると大きく張り出した岩壁のくぼみに、釈迦三尊の石仏を中心に、十六羅漢が方を寄せ合うように安置されている。このあたり、鍛冶屋川をさかのぼると、海抜508米の三濃山頂にたどりつく。ここはかって三濃千軒として栄えた三濃山求福寺の遺跡がある。また、羅漢境内からの登山路(延長413米)を散策し、尾根づたいの道をたどれば、中世山城の石垣が残る感状山城跡を訪ねることができる。
相生市
(出典:現地の看板)
橋を渡ったところは広場になっていて、石塔や石碑が建ち並んでいました。
▲橋とその向こう側の広場(石碑や石塔が見える)の様子
羅漢石仏への観光客が多かったときは案内所として機能していたであろう小屋の前を通過し、静かな渓谷へ入っていきます。
▲羅漢石仏への道の入口
12:22
羅漢石仏への道から感状山城跡へ登る階段道が分岐する地点に来ました(地図中「登城口」)。
道標によると、羅漢石仏までは150mとのことなので、先に石仏を見てから城跡へ上ることに。
羅漢石仏への道から感状山城跡へ登る階段道が分岐する地点に来ました(地図中「登城口」)。
道標によると、羅漢石仏までは150mとのことなので、先に石仏を見てから城跡へ上ることに。
▲感状山城跡への道が分岐する地点(羅漢石仏は直進、城跡は階段道へ)
小さな橋で沢を渡ったところには、屏風のような大岩があり、その前に赤い前垂れを着けた石仏が一体ありました。
この屏風岩は岩の崖から剥がれ落ちたものでしょうか。岩壁と屏風岩の間に道があります。
さらに進むと、先ほどと同様の屏風岩があり、さらにその奥には屏風岩が岩壁にもたれかかってトンネル状になっている所もありました。
▲屏風岩と岩壁のすき間の向こうには岩のトンネル
12:30
それを過ぎると石垣沿いの階段があり、登り切った所に羅漢石仏があります(地図中「羅漢石仏」)。
それを過ぎると石垣沿いの階段があり、登り切った所に羅漢石仏があります(地図中「羅漢石仏」)。
瓜生羅漢石仏
この石仏は、作者・製作年代は不明ですが、伝説では、朝鮮の僧恵便・恵聡一行がここに隠れ住み、後世の人々に仏縁を結ぼうとしてつくったといわれています。
また、この境内は建武年間、赤松氏の居城であった感状山城搦手の間道にあたり、この石仏は、真言宗の山伏の作で、戦国武士たちの霊をとむらうための供養仏であるともいわれ、約400年余前の室町時代に彫刻されたと推定されます。
岩窟は幅7.7メートル、高さ約5メートル、奥行約4メートルで、その中に釈迦如来像を中心に、文殊・普賢両菩薩及び十六羅漢像が左右に並んでいます。
相生市教育委員会
(出典:現地の看板)
▲羅漢石仏がある岩屋の全景
▲羅漢石仏
12:39
登城口まで戻ってきました。
登城口まで戻ってきました。
階段下の道標によると、「感状山城跡まで あと550m」。
城跡への道は、歩きやすい擬木階段のつづら折れの道です(地図中「階段道」)。
つづら折れの回数は合計12回。
折れの回数を数えなくても、所々に残距離の表示がある道標があるので、城跡までの距離はしっかり把握できます。
▲羅漢石仏から城跡へ続く道の様子
12:50
大手門跡への道が分岐する地点に来ました(地図中「大手門分岐」)。
大手門跡への道が分岐する地点に来ました(地図中「大手門分岐」)。
階段道を上ると、物見岩を経由してIII曲輪(三の丸)、道標に従って尾根の向こう側へ回り込むと、大手門跡への道です。
▲大手門跡への分岐
大手門への道に立って振り返ると、尾根の南端にある八柱神社へ続く山道も見えます。
やはり城跡へ入るには大手門経由が良いだろうと思い、大手門への道へ入りました。
大手門への道は等高線と平行な水平道で、序盤こそ綺麗な遊歩道でしたが、やがて石がゴロゴロした歩きにくい道に変わります。
大手門への道は等高線と平行な水平道で、序盤こそ綺麗な遊歩道でしたが、やがて石がゴロゴロした歩きにくい道に変わります。
▲大手門跡への道
12:54
階段道から大手門跡への道(歩いてきた道)と、往時に大手門へ続いていた道が交わる地点に来ました。
ここには倒れた道標があり、大手門跡へは左折する必要があることが分かります。
階段道から大手門跡への道(歩いてきた道)と、往時に大手門へ続いていた道が交わる地点に来ました。
ここには倒れた道標があり、大手門跡へは左折する必要があることが分かります。
右を見ると、谷間に旧大手道が見えるような見えないような。。。
少し下ってみましたが、雑木林の斜面でどこを見ても道に見えてしまい、本来の大手道の姿はよく分かりませんでした。
少し下ってみましたが、雑木林の斜面でどこを見ても道に見えてしまい、本来の大手道の姿はよく分かりませんでした。
倒れた道標から斜面を登りますが、今までと同様ガレた道です。
山歩きをしていない人から見ると、とても道には見えないでしょう。
山歩きをしていない人から見ると、とても道には見えないでしょう。
13:01
大手門跡に到着(地図中「大手門跡」)。
大手門跡に到着(地図中「大手門跡」)。
谷に向かって石垣が左右に大きく広がっており、谷の地形に沿って湾曲しています。
大手門前に立つと、左右から石垣に囲まれている、つまり両側から攻撃を受けるような形状になっているわけです。
大手門前に立つと、左右から石垣に囲まれている、つまり両側から攻撃を受けるような形状になっているわけです。
ここに櫓門と城壁があったら迫力があったろうなぁ。
大手門跡と井戸跡
大手門は、総石垣造りで、登り口の石段を中心に鳥の翼を広げた様な形に石垣が配列され、また、犬走りや井戸も配置され、念入りに造られています。石段は六段あり、登り口は広く上部へ上がるほど狭く造られていて、大人数で一斉には上がれないような工夫がされています。
両翼に伸びた石垣は、半円形に張出した形になっていて、敵に横から矢が射かけられるような仕組みになっています。また、ここには握りこぶし大の石が多くみられ、これは、戦国時代の伝統的な戦法の「つぶて」として用いられたと考えられています。
(出典:歴史民俗資料館や里の店で入手可能な「史跡 赤松氏城跡 感状山城跡」パンフレット)
▲大手門の石段跡(中央)左上の道標のようなものの下に井戸跡
大手門の形状が分かりやすいかなと思い、石段下で全周パノラマを撮影してみました。
が、思ったほど分かりやすくないですね。
が、思ったほど分かりやすくないですね。
大手門跡とI曲輪で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2015年1月11日)
https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/kanjosan20150111/virtualtour.html左上のリストでパノラマを切り替えられます。
大手門の石段跡から左上に登ると、水を湛えた井戸がありました。
▲井戸跡
大手門の石段上に戻り、右上へ進むと、頭上に見えるIII曲輪跡への道がありました。
13:24
III曲輪跡に出ました(地図中「III曲輪」)。III曲輪は三の丸のことで、倉庫等が置かれていた空間です。
III曲輪跡に出ました(地図中「III曲輪」)。III曲輪は三の丸のことで、倉庫等が置かれていた空間です。
パノラマ撮影をしていたので時間がかかりましたが、大手門跡からIII曲輪までは数分で登れます。
まずは左へ進み、物見岩を見物(地図中「物見岩」)。
名前の通り南を見下ろせる岩場で、すぐ北に低い石垣で形成された曲輪跡があります。
ここは南西尾根を伝って攻め込んでくる敵を食い止めるための重要拠点で、物見岩と曲輪の東側は急斜面のため通行不能。西側の通路は細く、軍勢の進攻速度を抑える効果は大きそうです。
ちなみに、物見岩の南側には「感状山城跡基準点No.5」があります。
▲物見岩(奥)と曲輪跡(手前)
再びIII曲輪へ戻りました。
ここには基準点No.4があるはずですが、探し回っても見つかりません。落ち葉に埋もれていたのかな。
このIII曲輪の西側には倉庫跡があります。
III曲輪群
感状山の中腹に、近世の城の三の丸に相当するIII曲輪群があります。この曲輪群は約1mの石垣の段差をもち、七段で構成されており、周囲には犬走りが配置され、感状山城の特徴を形づくっています。
このIII曲輪群には、南北約7m、東西約8mの正方形に近い建物遺構が発見されています。この建物の周囲には方塼(ほうせん)といわれる瓦が縦に埋められていて、その内側に礎石が配列されています。これは防火と防湿とともにねずみなどの小動物が建物内に侵入するのを防ぐため設けたものと考えられ、食料などを保管する倉庫跡とみられています。
またこの近くには、備前焼の大甕(おおがめ)九個が発掘調査により検出されており、大甕の底部についていたものを鑑定した結果、イノシシの塩漬肉に近いものが貯蔵されていたことが確認されています。
この付近は城の台所に相当する場所ではないかと考えられています。
(出典:歴史民俗資料館や里の店で入手可能な「史跡 赤松氏城跡 感状山城跡」パンフレット)
▲III曲輪の倉庫跡
ここからは埋設された大甕※(容量180リットル)が9個出土したそうです。
※相生市立歴史民俗資料館に実物が1つ展示されています。
地中に埋められ、食品の保存に使われていた大甕ですが、パンフレットによるとイノシシの塩漬けが入っていたとのこと。
どうしてそんなことが分かるのか気になったので調べてみると、感状山城跡発掘調査報告書に詳細が記載されていました。
2つの大甕付着土からは、微量ながら動物性脂肪酸とステロールを検出した。しかし、周辺土の植物腐植由来の脂肪の影響を強く受けているため、動物遺物の存在は痕跡を確認したにとどまった。動物遺物としては脂肪酸パターンより、生肉よりも塩蔵肉、とくにイノシシの塩蔵肉に近いことがわかった。植物性発酵食品は全く検出されなかった。
残存脂肪分析法により、貯蔵食品を認定するためには、周辺土から少なくとも5資料以上、大甕側壁資料を多く採取し、精密な脂肪酸およびステロール組成を分析する必要がある。感状山城跡大甕の貯蔵物の認定には分析資料が大甕の付着土2点、周辺土3点のため、精度に多少問題が残る。
(出典:感状山城跡発掘調査報告書 P92 平成元年3月 編集 相生市感状山城跡調査委員会 発行 相生市教育委員会)
味噌等、植物性発酵食品が検出されなかったのは意外ですが、大甕は9つ発見されたので、分析された大甕以外のものには入っていたのかも知れません。
倉庫跡から北へ進むと、北へ張り出した曲輪跡が左側に見えます。これは出曲輪(地図中「出曲輪」)。
特に何も残っていませんでした。
特に何も残っていませんでした。
このIII曲輪の北端には、感状山城跡基準点No.3があります。
▲感状山城跡基準点No.3
基準点から南へ戻り、II曲輪(二の丸)へ行くことにします。
II曲輪への道は、崩落した石垣の斜面のような場所です。
▲III曲輪からII曲輪への道(ロープ沿い)
II曲輪の南側には、小規模な曲輪が何段か連なった南曲輪群(地図中「南曲輪群」)があり、その南端には虎口(こぐち)がきれいに残っていました。
虎口の下には本来道があるはずですが、雑木の斜面で道の形はさっぱり分かりません。
大手門の少し上を基準にすると、この虎口は標高があまり変わらず、等高線沿いに東へ行けばここへ来られます。
大手門の少し上を基準にすると、この虎口は標高があまり変わらず、等高線沿いに東へ行けばここへ来られます。
当時は大手門付近から道があったのでしょう。
南曲輪群
南曲輪群は、自然の尾根を利用して、六つの削平地(山を人工的に削り平らにしたところ)を階段状に造っています。この曲輪群は、大手門から本城へ侵入する敵を防ぐための要所となっています。特に注目されるのが、二段目の腰曲輪の石垣で、感状山城跡の中でも最も大きな石垣で有り、保存状態もよく全長21m、高さ4.5mの規模を持っています。
感状山城跡の石垣の構築方法は、「野面積み」(のづらづみ)といわれ、自然石を30cm角のものから、大きいのは1mあまりのものを使い、一見粗雑に積み上げたような構造となっています。近世の城にみられるような隅(角)を直角にする技法ではなく、いずれも鈍角でゆるいカーブを描くことで処理しています。これらの石積みから、石垣づくりの城郭としては初期のものであると推測されています。
(出典:歴史民俗資料館や里の店で入手可能な「史跡 赤松氏城跡 感状山城跡」パンフレット)
▲南曲輪群南端の虎口跡
南曲輪群からII曲輪へ登ろうとすると、数段だけですが、幅の広い石段のようなものが見えました。
崩れた石が偶然階段状になったのか、元々階段だったのかは分かりません。
崩れた石が偶然階段状になったのか、元々階段だったのかは分かりません。
感状山城跡と言えば、この付近から見上げた石垣の写真が有名です。
登山道から撮影すると、ネットで見かける写真と同じ画角にしかならないので、南曲輪群から撮影してみました。
登山道から撮影すると、ネットで見かける写真と同じ画角にしかならないので、南曲輪群から撮影してみました。
▲南曲輪群からII曲輪を見上げる(写真中央やや左下に石段がある)
II曲輪は北II曲輪と南II曲輪に別れていて、南曲輪群からはまず南II曲輪へ入ることになります。
ここには明確な虎口が残っていました。
ここには明確な虎口が残っていました。
▲南II曲輪南端の石垣と虎口(最上部の石垣のへこんだ部分)
II曲輪の西側には帯郭がはっきりと何段も残っています。
感状山城は、東側が急斜面で敵の侵攻が考えにくいため、南の大手道がある谷と、羅漢渓方面に対して防御設備が構築されています。
III曲輪で見た西へ張り出した出曲輪は、羅漢渓方面からの攻撃を防ぐための射撃陣地だったのかな。
▲帯曲輪
13:48
南II曲輪に到着(地図中「II曲輪」)。
南II曲輪に到着(地図中「II曲輪」)。
II曲輪は南北約90m、東西約20m程の細長い曲輪で、北半分が北II曲輪、南半分が南II曲輪と名付けられています。
城主らが日常生活を送る居館があったと考えられる場所です。
ここには感状山城跡基準点No.2があります。
II曲輪
II曲輪は、標高296m、北II曲輪と南II曲輪の二つの曲輪により構成されています。全体は石垣によって支えられ、やせ尾根上を最大限に利用し、また西側は犬走りとよばれる3~4m幅の帯曲輪(帯状の曲輪)が配置され、敵が侵入しにくいような工夫がされています。
南II曲輪では、隅櫓と大規模な建築とみられる礎石群が発見されています。隅櫓は、見張りを目的とした建物であったと推定されています。また大型の建物は広間を中心に多くの小部屋をもっており、I曲輪が本丸御殿に対して、II曲輪は、常の御殿(日常生活をしている場所)の建物の可能性があり、建築の時期は柱の間隔から十六世紀末頃ではないかと推測されています。
(出典:歴史民俗資料館や里の店で入手可能な「史跡 赤松氏城跡 感状山城跡」パンフレット)
▲南II曲輪
北II曲輪には、板状の石を地面に立てたものがありましたが、何だったんだろう。
当時からこの状態だったのかな。
▲北II曲輪の奇妙な石列(立っている石の手前に、四角い建物の輪郭状の石列が見える)
北II曲輪から北へわずかな段差を下り、石垣沿いに登り返すとI曲輪、つまり主廓(本丸)です。
13:54
I曲輪に到着(地図中「I曲輪」)。
I曲輪に到着(地図中「I曲輪」)。
東から南にかけて展望が広がっています。
I曲輪
I曲輪は、標高301.05m、城の一番奥の北隅にあり、姫路城などでいう近世の本丸に相当し、城の中でも最も重要な箇所にあたります。南側斜面は地山の岩盤に自然石を組み合わせた石垣により囲まれています。曲輪内には、建物跡の礎石(基礎の石)や排水溝と思われる横一列に並んだ石組みが発掘調査により発見されています。この礎石の配列から敷地一杯に本丸御殿が築造されていたと推定されています。
また曲輪内の中央より建物の注穴が発見され、この中の底部から稲籾と16枚の銅銭、小皿が出土しました。これは、建物を建てるときの宗教的な意味を持つ「地鎮」ではないかと考えられています。
(出典:歴史民俗資料館や里の店で入手可能な「史跡 赤松氏城跡 感状山城跡」パンフレット)
ここでも全周パノラマを撮影しました。撮影したパノラマは、上の大手門跡パノラマの左上のリストを切り替えることでご覧頂けます。
▲I曲輪
上のI曲輪の写真で石が直線上に埋まっているのが見えますが、これは排水溝。
屋根からしたたり落ちた雨水を流すためのもので、この石の上に屋根の縁がくるような御殿が建っていたと考えられています。
屋根からしたたり落ちた雨水を流すためのもので、この石の上に屋根の縁がくるような御殿が建っていたと考えられています。
ここには感状山城跡基準点No.1があります。
14:17
東の山からハンターの銃声と猟犬の鳴き声が聞こえる中で景色を楽しみ、パノラマ撮影を終えて下山開始。
東の山からハンターの銃声と猟犬の鳴き声が聞こえる中で景色を楽しみ、パノラマ撮影を終えて下山開始。
当初はI曲輪から西の雑木斜面へ下り、西斜面を等高線と平行に通る道を通ってIII曲輪へ戻ろうと思っていましたが、曇って薄暗くなってきたので、ただでさえ薄暗い雑木の中の道を通るのはやめ、往路をたどって物見岩まで戻り、階段道で下ることにしました。
14:25
物見岩まで戻ってきました。
ここからは、往時から残っている石段の道を下ります。
物見岩まで戻ってきました。
ここからは、往時から残っている石段の道を下ります。
▲物見岩~擬木階段間の石段
趣のある石段はすぐに終わり、擬木階段の道になります。
14:36
羅漢石仏への道と合流。
羅漢石仏への道と合流。
14:39
里の店近くの「いこいの広場」にあり、往路で気になっていたものの、時間の都合で見るのをやめていた茅葺き屋根(※)の建物、隼光鍛刀場まで戻ってきました(地図中「隼光鍛刀場」)。
里の店近くの「いこいの広場」にあり、往路で気になっていたものの、時間の都合で見るのをやめていた茅葺き屋根(※)の建物、隼光鍛刀場まで戻ってきました(地図中「隼光鍛刀場」)。
※茅葺きは維持が大変なため、トタンのようなもので覆う工事がまもなく始まるそうです。
せっかくなので、中を見学させてもらうことにしました。
▲隼光鍛刀場(はやみつたんとうじょう)
小刀づくり体験(¥3,500)の真っ最中で、男性の参加者が一名と、刀鍛冶の桔梗光史(ききょう みつし)氏が作業中でした。
▲小刀づくり体験参加者の小刀に銘を刻む桔梗光史氏
▲隼光鍛刀場内の鉄を打つ機械(左)と炉
小刀づくり体験の参加者の方が帰られた後、色々と刀に関するお話を聞かせて頂きました。
宍粟鉄と島根周辺の鉄の違いや、作るのに失敗した刀は不要な部分を切り落としてそれより小さな形の刃物として再利用するとか、刀の刃紋が出来る仕組みや、見えづらい波紋を硝酸をかけて分かりやすくする方法等々、興味深いお話を伺いながら、たっぷり1時間近くも鍛刀場に居座ってしまいました。
帰り際、鍛刀場内の全周パノラマまで撮らせて頂きました。
さんざんお仕事の邪魔をしてしまいましたが、快く対応して頂き、ありがとうございました。
隼光鍛刀場で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2015年1月11日)
https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/hayamitsu/virtualtour.html
画面左上のリストでパノラマを切り替えられます。
この隼光鍛刀場では、第2・第4日曜に小刀づくり体験を実施されています。
参加費は、材料費込みでひとり¥3,500。桐箱はオプションで¥500。
参加費は、材料費込みでひとり¥3,500。桐箱はオプションで¥500。
すでにある程度形が出来上がっている鋼材(※)を研磨、焼き入れするだけなので、女性でも大丈夫とのことでした。
※日本刀の素材ではなく、一般的な鉄です。そうしないと、¥3,500では元が取れません。
詳細は、桔梗隼光鍛刀場のWebサイトでご確認下さい。
http://www.hayamitsu.com/
http://www.hayamitsu.com/
ここでは日本刀も作られていますし、「こんな刃物が欲しい」といった希望があれば、それに応じたものを作って頂けるそうです。
私もお金に余裕があれば、本物の刀が欲しい。
参考資料
(出典:感状山城跡発掘調査報告書 平成元年3月 編集 相生市感状山城跡調査委員会 発行 相生市教育委員会)