播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

黒田官兵衛の父職隆晩年の居城:甲山城跡

昨日、「ひめじの黒田官兵衛大河ドラマ館」に行き、出口付近の展示(官兵衛ゆかりの地等)を見ていて、甲山城跡にまだ登っていないことを思い出しました。
 
というわけで、今日は甲山城跡へ出かけてきました。
 
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「姫路南部」
 
甲山城は、黒田官兵衛の父 黒田職隆(もとたか)が晩年城主を務めていた城で、秀吉の播磨攻めの際、姫路城を秀吉に明け渡した黒田官兵衛も一時この城にいたと言われています。
 
甲山城は、妻鹿(めが)城、国府(こう)山城、功(こう)山城とも呼ばれていますが、地形図で「甲山」と書かれているので、この記事では甲山城で統一します。
 
功山城
 功山城は別称として国府山城・甲山城・妻鹿城・袴垂城の名をもっている。初代城主は薩摩氏長の子孫で『太平記』で有名な妻鹿孫三郎長宗である。『播磨鑑』によると長宗は貞祐と名をかえている。しかし『飾磨郡誌』には嘉吉の変(1441)後、城を退転した孫次郎貞祐が妻鹿氏を称し文正元年(1466)民間に下り妻鹿村に居るとあって2人の貞祐が居たことになっている。いずれにしても長宗は元弘の戦に赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたのであろう。後その孫妻鹿苗三郎四郎この城を守ったが、赤松満祐に属していたため嘉吉の変に遭い退転し野に下ったとされている。
 その後天正8年(1580)小寺官兵衛孝高の父職隆の居城となる。官兵衛孝高は御着の城主小寺藤兵衛政職の養子となり姫路城を居城としてこれを守ったが、天正8年別所長治を亡した羽柴秀吉が三木城を居城としたことに対し、三木城の戦略的に不備なることを述べて秀吉が姫路に帰るよう進言し自らは妻鹿の功山に移った。
出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P189
   兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4
 
10:45
姫路市街の自宅を車で出発。
 
阿保橋で市川を渡り、そのまま県道402号線を南下します。
そして、セブンイレブンのある「兼田」交差点を右折し、県道517号線へ。
 
後は道なりに南下していくと、急斜面が市川へ落ち込む甲山が正面に見えます。
 
甲山の南端付近には、市川を渡る水道橋がありますが、その東端付近から甲山南麓の荒神社へ下る道が分岐しています。

私はこれを下りましたが、1回では曲がれないような強烈なヘアピンカーブになっているので、さらに南へ進んでから東へ入ることをお勧めします。
 
荒神社前には駐車場の位置を示す地図が掲示されていたので、それに従って観光客用の駐車場へ向かいました。
 
 
▲荒神社前の駐車場案内(「現在地」は荒神社)
 
荒神社の位置は、以下のURLでご覧頂けます。(Googleマップが開きます)
 
公共交通機関を利用される方は、山陽電鉄の妻鹿(めが)駅が便利です。
 
11:05
荒神社南東にある駐車場に到着(地図中「P」)。
違法駐車をしなくて済むので、非常にありがたいです。(この駐車場がいつまであるのかは不明)
 
 
▲観光客向けの駐車場(無料)
 
11:08
念のため登山靴に履き替えて出発。
 
荒神社の境内に入ったところはちょっとした広場になっていて、石碑やベンチ、案内板も設置されています。
ありがたいのは、トイレがある点。小便器と大便器が1つずつあります。
 
 
▲荒神社(道路からは玉垣しか見えない)
 
 
▲荒神社境内の広場の様子(中央がトイレ)
 
ここには城跡の平面図とお城に関する記述が掲示されているので、登る前に一通り目を通すことをお勧めします。
 
国府山城
国府山城(功山城とも)は城郭の観点から見て砦のような小規模な城だが大変優れた城であった。先ず第一は大変堅固な要砦をなしているということ。市川は妻鹿の河口で二つに分かれ、一つは現在のように南に流れ、別の流れは現在の浜国道の南沿いに流れ、今は埋め立て地となっている妻鹿港に流れていて、天然の堀となっていた。また南の一部には松原山があり、東には御旅山、妻鹿山が連なっている。北は峻険な切岸をなし、従って妻鹿村全体が大規模な城郭となっていた。
第二は、瀬戸内海を一望のもとに眺めることができ、見晴しの大変よい城である。名城の条件を満たしている。
第三は、市川は当時現在の京口川とつながっており、姫路城近くまで舟で行くことができた。軍の移動も物資の運搬にも大変便利よく、真北に位置する姫路城の枝城としては申し分なき城であった。
軍師官兵衛も一時期この城を居城としており、築城の名手黒田官兵衛はこの城から始まったといっても過言ではない。
(出典:荒神社境内の案内板)
 
 
▲城跡の平面図(出典:荒神社境内の案内板)拡大表示出来ます。
 
もう一枚、平面図が設置されているので、それも紹介しておきます。
 
 
▲上とは別の平面図(出典:荒神社境内の案内板)拡大表示出来ます。
 
他に、百度石の脇とトイレの脇に目薬の木が植えられていました。
 
 
▲目薬の木
 
黒田官兵衛ゆかりの目薬の木
信長・秀吉・家康に仕えた戦国の知将・黒田官兵衛(1546~1604)は、姫路城で生まれ、40年近くをこの播磨の地で過ごしました。司馬遼太郎の「播磨灘物語」には、官兵衛の祖父・重隆が、広峯神社(姫路市外を眼下に一望出来る広峰山上にあります)で暮らしたとき、「目薬の木」で目薬を作って売り、財を成したと記されています。
(出典:現地の看板)
 
11:16
トイレを済ませ、一通り案内板を読んだので、石段を登ります。
 
小さな神社ですが、私がゴソゴソやっている間にお二人の方が参拝されていました。
無事に山歩きを終えられるよう私もお参りし、登山開始。
 
 
▲荒神社
 
拝殿に向かって右側に登山口があり、杖(木の棒)がたくさん置かれていました。
 
登山道はなだらかで(山歩きをしている人から見ればなだらかですが、官兵衛の史跡巡りをしている方のWebサイトでは「険しい道なので行かなかった」といった表記も見られます。)、登山靴で無くても問題なく歩けそうな路面です。
 
随所にライオンズクラブ寄贈の道標が設置されていて、後で分かったことですが、その道標に従って時計回りに城跡を回るようルートが設定されていました。
 
 
▲登山道の様子(右下に写っているような道標が随所にある)
 
11:23
登山道脇に井戸跡がありました(地図中「井戸跡」)。
黒田職隆の死後廃城になり、何百年も経過していますが、まだ水を湛えていました。
 
 
▲井戸跡
 
11:25
井戸跡からまもなく「門石跡」と書かれたプレートのある場所がありました。

ここに大手門があったのでしょうか。
このプレートが無いと、間違いなく見落としそうな場所です。
 
門の礎石は、写真の左側だけそれらしいものがありましたが、右側は何やら掘り起こされたような跡がありました。
 
 
▲門石跡
 
11:26
「かまど跡」への分岐に出会いました。
どんな物か見に行くと、数十メートルで道は行き止まりになっていて、そこに小さな石組みがありました(地図中「かまど跡」)。
 
11:28
分岐に戻り、少し登ったところで丁字路に突き当たりました(地図中「甲山」の「山」の字の左下)。

道標は左を指していますが、右側の道も気になります。右の道へ入って振り返ると、上ってきた道を指して「帰り道」と書かれた道標が見えました。
 
どうやら、ここから左へ進んで周回すると、またここへ戻ってくることになるようです。
 
 
▲丁字路
 
道標に従って丁字路を左へ入ると、空が大きく開けた笹原に出ます。
プレートによると、ここは「馬駈け」という場所だそうです。馬場のことでしょうか。
 
 
▲馬駈け(奥は飾磨港加古川線14番鉄塔)
 
11:31
馬駈けの先で送電線鉄塔に突き当たります(地図中「飾磨港加古川線14番鉄塔」)。
 
登山道はここで右へ向きを変えるのですが、送電線鉄塔の北に「経塚」への分岐がありました。
分岐に従って鉄塔の西へ回り込み、斜面を少し下ると、展望の良い場所にある経塚跡に出会います(地図中「経塚」)。
 
11:32
経塚跡に到着。

経塚からさらに下る道(地形図の破線道)がついていますが、トラロープで通せんぼされていました。
 
 
▲経塚跡
 
甲山経塚
 甲山は御旅山の北西端に位置し、経塚はその緩やかな山頂部の突端に造営されている。
 経塚とは経文を容器(経筒)に入れて土中に埋納した遺跡である。経典を後世に伝え、その仏教的な作善行為によって極楽往生を願う経塚の造営は平安時代中期以降に全国的に盛行した。
 甲山経塚は昭和42年に地元有志の調査によって発見され、その後の調査で立石状に露頭した岩の周囲で3基の埋納坑が確認された。埋納坑は板石で囲んで構築されていた。
 遺物は土師質外容器・経筒、須恵器甕、青白磁合子、泥塔、銅鏡、銅銭などが出土した。このうち泥塔は塔身に二仏の坐像が陽形の范で浮き出されている。同一形式のものが乏しく珍しいものである。須恵器甕は香川県の甕山窯の製品で平安時代中期から後期のものと考えられる。
 また、経塚周辺から鎌倉時代から室町時代の瓦質土器土釜・土師器香炉・白磁皿など出土しており、中世を通じて信仰されてきた可能性がある。
 平成23年6月  姫路市教育委員会
(出典:現地の看板)
 
経塚から鉄塔まで戻り、道標の順路に従って進むと、再び森の中へ入ります。
 
この森の中には郭跡が何段もあり、自然の巨岩が石垣のようになっている場所もありました。
 
 
▲石垣のような自然石の切岸(この上は郭跡)
 
その先には狼煙(のろし)郭と書かれた郭もありましたが、こことこの先出会う庭園郭、磐座(いわくら)跡には、規模こそ違うものの、いずれも似たような形の立石がありました。
 
 
▲狼煙郭(中央は岩)
 
11:39
二層の隅櫓が建っていたとされる郭跡を通過。
礎石などは見えず、他の郭跡と同様の外見でした。
 
11:41
主郭跡に到着(地図中「主郭」)。
西に向けて大展望が開けています。
 
Ricoh Thetaを使い、主郭跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2015年1月3日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/kouyama20150103/virtualtour.html
 
 
▲主郭跡の様子
 
 
▲主郭跡の展望案内図
 
この主郭跡から西方面の展望を、超高解像度パノラマで撮影しましたので、興味のある方は以下のURLへどうぞ。
 
面白いくらいに拡大出来るので、主郭跡から双眼鏡で景色を眺めているような感覚を味わえますよ。
パソコン、スマホ両対応です。
 
甲山城跡からの展望の超高解像度パノラマ
http://www.gigapan.com/gigapans/167384
▲超高解像度パノラマの画面サンプル(上のURLをクリックしてください)
 
上のURLへアクセスすると、上のような画面が開きます(最初はもっと広範囲が表示されていますが、上の画像は姫路城周辺を拡大しています)。
 
左下のカメラのアイコン(スナップショットボタン)を押すと、画像のようにサムネイル(スナップショット一覧)が表示されます。見たいところをクリックすると、一旦ズームアウトしてからその場所へ自動的にズームインします。
 
飾磨区阿成を通る送電線鉄塔頂部にある番号札の数字が読めるほどの解像度ですので、パソコンでもスマホでも、思い切り拡大してお楽しみください。
 
超高解像度パノラマの撮影は電動雲台に任せ、私は双眼鏡で景色を楽しみながら、カロリーメイトで昼食。
ここからは、姫路城だけでなく、大河ドラマで有名になった広峯神社や英賀城跡、栗山善助の出身地である栗山周辺もよく見えます。
 
また、うっすら雪化粧をした明神山もよく見えましたし、小豆島も比較的良く見えました。
 
上のパノラマの中で色々と探してみてください。
 
▲画角をセットすれば、画像を結合しやすいようにオーバーラップを考慮しながら数百枚の写真を自動で撮影してくれる電動雲台(GigaPan EPIC Pro)の撮影風景。カメラとは専用のケーブルで接続している。
 
この主郭跡では風も無く、気温もそれほど低くなかった(本日の主郭到着時の気温は7.6度、相対湿度52.9%、無風)ので、2日前に歩いた檀特山のような辛さはまったくありませんでした。
 
12:48
下山開始。
来た道を引き返すのではなく、道標に従って北東へ進みます。
 
12:49
「井戸郭」への分岐がありました(地図中「井戸郭分岐」)。
せっかくなのでどんなものか見に行くことに。
 
井戸郭へ下る道は、トラロープと立木がまるであやとりをしているような状態で、普通の山道ならトラロープなんて絶対に付けないような斜度ですが、山歩きと無縁の観光客が怪我をしないようにという配慮でしょうか。
 
 
▲井戸郭へ下る道の様子
 
坂を下りたところは「北郭跡」。北向きの緩やかな斜面を敵の攻撃から守るための郭が、何段にも渡って構築されています。
 
井戸はここには無いようです。

北郭跡のプレートに向かって右へ道が続いているので、等高線と平行に東へ延びるその道を進みました。
 
12:53
井戸郭に到着(地図中「井戸郭」)。
丸い石組みだけが残っていて、すっかり埋まっています。
 
 
▲井戸郭
 
ここから右手の斜面を登って稜線上へ復帰するルートがあるようですが、稜線上に何か見所があっても困るので、来た道を引き返して井戸郭分岐へ戻りました。
 
12:58
稜線に復帰して東へ進むと、広い郭跡の先に「庭園郭」がありました(地図中「庭園郭」)。
ここも狼煙郭と同様の立石があります。
 
 
▲庭園郭
 
12:59
順路に従って北東へ進むと、磐座跡がありました(地図中「磐座跡」)。
ここの岩が、今回見た中では最大です。
 
 
▲磐座跡
 
この巨岩の真北には、石ころを敷き詰めた不思議な空間がありました。
何か宗教的な行為を行っていた場所なのかな。
 
 
▲磐座の真北にある石畳(?)の空間
 
磐座の北へも道がありましたが、その先はちょっとした郭跡があるだけです。
 
磐座の東に道標があり、その矢印に従って進むと、両側に身長より高いササが茂った帯郭(地図中「帯郭」)を通って馬駈けへ戻れるようになっていました。
 
 
▲帯郭
 
途中、北へ向けて道が分岐していたので入ってみると、庭園郭へつながっていました。
 
飾磨港加古川線15番鉄塔(地図中「飾磨港加古川線15番鉄塔」)の手前では二股の分岐がありましたが、道標は右を指しています。
 
左へ進むと、巡視路を通って東側へ下山するのだと思います。
 
13:11
飾磨港加古川線15番鉄塔を通過。
 
13:12
11:28に通過した丁字路に戻ってきました。

ここからは、往路をたどって下山します。
 
13:20
駐車場へ戻ってきました。
引き続き、黒田職隆の廟所を見に行くことにします。
 
住宅街の中の分かりにくい場所にあるとネットに書かれていたので、車を置くスペースが無いかも知れないと思い、駐車場に車を置いたまま徒歩で向かうことにしました。
 
駐車場の南側の道を東へ進み、突き当たりを右へ曲がって南下します。
そして、たばこ店の前で左へ。

用水路を渡ったすぐ先に看板が出ていました。
 
 
▲黒田職隆廟所への案内標示
 
ここには空き地や集合住宅の駐車場がありますが、勝手に車を置く観光客がいたのか、「黒田官兵衛の駐車場ではありません」と書いた駐車禁止の張り紙などがありました。
 
看板だけでなく、廟所を示す石碑もありました。
 
 
▲黒田職隆廟所の通称「筑前さん」の名前が刻まれた石碑
 
 
▲黒田職隆廟
 
姫路市指定史跡 黒田職隆廟所
 黒田職隆は、安土桃山時代の武将黒田孝高(官兵衛、如水)の父である。孫の長政は、初代筑前福岡藩主。
 廟所は南北約15m、東西約12mの規模で、中央の廟屋内に大型の五輪塔が建つ。五輪塔は角礫質凝灰岩製で、地輪に刻銘がある。
 江戸時代の古文書「播磨古事」等によれば、天明3年(1783)10月、姫路城下の心光寺住職入誉が墓所発見を福岡藩に報告し、翌年10月、福岡藩が玉垣を巡らし、廟屋を整備するなどしたとされる。現在の廟屋は昭和52年に地元自治会が修築したもの。
 北約800mには、職隆が晩年に在城したとされる国府山城(功山城)がある。
 平成26年1月16日指定。
  平成26年1月
   姫路市教育委員会
(出典:現地の看板)
 
13:43
来た道を引き返して駐車場へ戻ってきました。
 
14:05
自宅に到着。