播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県小野市の金鑵城跡

あちらこちらに城跡はありますが、現存の城郭施設や復元された天守閣等は近世のもので、戦乱が多かった中世の簡素な城が復元されているところはほとんどありません。
 
しかし、Google検索で偶然見つけた小野市の金鑵城跡は、柵や木橋、物見櫓が再現されているとのこと。
小野市は私が住む姫路からさほど遠くないので、早速どんなところか見に行くことにしました。

この城跡は、「夢の森公園」と名付けられた公園施設になっているそうです。
 
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「社」
 
10:40
小野市のサイトで調べた住所をナビに入力し、姫路市街の自宅を出発。
 
ナビの指示通りに進むと、どんどん細い道へ案内され、台地の上へ上がろうとすると、ナビはUターンを指示してきます。
カーナビ相手に口げんかにならない口げんかをしながら、自分が正しいと思う道を進んでいくと、公園の駐車場が見つかりました。
公園は広いため、住所を適切に表現できないようです。

というわけで、この公園を目指す方は、下のURLで表示されるグーグルマップを頼りに、カーナビの地図で場所を指定し、ドライブして下さい。
 
姫路から行く場合は、国道372号線を進み、「加西中野」交差点を右折。県道23号線を東進し、青野ヶ原病院への入口を過ぎた次の三差路を左折。突き当たりを左折するという行き方が一番簡単かも知れません。
 
Googleマップで「夢の森公園」駐車場の位置を見る場合は、以下のURLをクリック(アルファベット付きのピンが立っている場合は、無視して下さい。文字のないピンの位置が駐車場です)
https://www.google.co.jp/maps/place/34%C2%B052'43.1%22N+134%C2%B054'23.2%22E/@34.878641,134.906449,15z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x0:0x0?hl=ja
 
11:40
なんとか駐車場にたどり着きました(地図中「P」)。
トイレと飲み物の自販機、そして小野市内の観光地を紹介するマップが設置されています。
 
 
▲夢の森公園の駐車場
 
城跡へは、車両の進入は防ぎたいけれど、車いすは通れるようにするための回転ドアのようなものがある入口から入ります。
 
 
▲車いすは通れる入口
 
入口を過ぎると、すぐ右側に竪穴住居跡がありました。
城跡だけではなく、弥生時代の遺跡もあるようです。
 
金鑵城遺跡
 城が築かれる以前には、弥生時代の集落が営まれていました。当集落の所在する青野ヶ原台地は、標高約94mで、台地下とは60mの比高差があります。このような高い場所に営まれた集落は、高地性集落とよばれています。この集落は、弥生時代の中期から後期(1~3世紀ころ)にかけて、日常生活の不便な高いところをわざわざ選んで設けられたもので、瀬戸内地域や大阪湾沿岸に広く分布しています。見張り、軍事的施設、争乱による逃げ場所、烽火台などの役割が想定されています。
 当遺跡は、加古川沿いの内陸部に営まれためずらしい例で、目の前に加古川が見渡せることから、古くからの交通路でもあった加古川を通して伝わってくる情報をつかみ、それをメッセージとして段丘下の集落へ伝えていたのでしょう。
 6棟の竪穴住居を検出し、1~6号住居としています。1号と6号住居は、円形のものですが、他のものは隅のみが丸い隅丸方形のものです。すべてが同時期のものではありませんが、出土遺物からすれば、弥生時代中期末ごろに中心があるようです。平面復元した1号住居は、直径約5mの規模ですが、北東部に入口とみられる長さ3mの張り出し部があります。柱は7本で、壁の周囲には高床がめぐり、中央部には炉か煮炊き施設とみられる大きな穴が認められました。
(出典:現地の案内板 作成者・設置者不明)
  
 
▲竪穴住居跡(1号住居)
 
竪穴住居跡の先には、幅20m、深さ9m(出典:現地案内板)の巨大な堀切があり、その堀切りを渡るための木橋が作られています。
 
リアルさに欠ける橋ですが、仮に当時の絵図等(あるのかな)をもとに復元した橋なら安全性に問題があり、通行できないただの飾りになってしまうでしょうから、しかたありません。むしろ、当時と同じ場所に橋があり、それを渡って歩けるという点はありがたい話です。
 
 
▲大きな堀切りと木製の橋
 
 
▲堀切の底から土塁まではかなりの高低差
 
橋を渡りきると、目の前に主郭跡への入口があります。

本来の虎口は、橋を渡りきって土塁に突き当たったら左に折れて十数メートル進んだところにあります。

敵の突撃速度を下げるためにそのような構造になっているはずですが、今は利便性を考えて土塁を切り崩し、橋を渡った正面にも入口が設けられています。
 
 
▲橋から主郭跡へ入る
 
金鑵城跡
 当城は、青野ヶ原台地上の遠望がきく、要害の地を選んで築かれた山城です。ここからは、河合城、堀井城、小堀城など室町時代から戦国時代にかけて市内に築かれた中世城郭を見渡すことができます。城主は、播磨を治めていた赤松氏の有力な家臣中村氏とされ、後に三木城の別所氏の持城となっています。
 台地先端部に「主郭」と「西の郭」があり、その間には幅約20m、深さ9mの堀切が掘られ、木橋がゆいいつの通路となっていました。主郭は、東西50m、南北80mの規模で、周囲には、土塁と呼ばれる土の壁がめぐらされていました。北西部に土塁が途切れるところがあり、場内への入口、虎口と考えられています。そこから城内に入ると礎石建物(建物跡1~3)、倉庫施設、煮炊き施設、集石遺構などがありました。また、北東隅部からのびる尾根の先端部には、見張りのための櫓が設けられていました。
 城内からは、甕、壺、擂鉢などの陶器、茶碗などの磁器、茶臼などの石製品、土錘などの漁労具、刀、鞘、笄などの武具類、瓦、釘、壁などの建築資材、硯、水滴など文具類や銅銭など多様な遺物が出土し、当城が長期間にわたり武士達の生活と防御の場なっていたことがわかります。
(出典:現地の案内板 作成者・設置者不明 原文まま)
 
 
▲金鑵城復元イメージ図(出典:現地の案内板 作成者・設置者不明)
 
金鑵山城(小野市新部町小字大谷および昭和町小字一丁通)
【城史】国人中村氏の居城である。中村氏は赤松家再興と応仁の乱に活躍し(「上月文書」「応仁記」)、天文年間(1532~1555)には加西の別符氏と所領を争い(「広峰神社文書」)、後に三木の別所氏に滅ぼされた。その後は、この城も別所氏の支城となったものと考えられる。
【現状】河合城の西南1.5km、標高95m、比高50mの青野が原台地の東端にある。東に加古川のなす平野を展望でき、さらに遠く丹上山、雌岡山(神出山城)も望める。東側は崖、北と南に谷が食い込んで、3方を自然の要害に守られている。西側台地続きが主たる被攻撃面と考えられる。主郭(70m×90m)の東を除く3方の縁は高くなっており、土塁が存在したと思われる。主郭から東に下る尾根の途中に一段削平地がある。主郭南部には説明のつかない巨大な穴(直径約30m、深さ10m)が存在する。主郭西側は空堀(幅約15m、深さ約8m)で防御している。その西側、県の福祉工場との間の地(20m×35m)が2郭に相当すると考えられるが、この地表面は主郭より3m高い。
 主郭において壺・甕・皿などの土器片と瓦を採集した。それらは三木城・三津田城で発見されたのと同様に永禄から天正時代のものが多い。なお刻字瓦も見つかっているが、解読されていない。城地は市有地でもあり、近く発掘調査が行われるであろう。北北東300mの地点および南南西200mの地点にも城としての立地を考え得る地形があるが、未だ調査されていない。
出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P129
   兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4
(注)城跡が公園にされる前に作成された調査報告書のため、現状とは一致しない記述があります。城跡から数百メートル離れた地点の「城としての立地を考え得る地形」は、旧日本軍が演習用に建造した土塁と思われます。
 
主郭跡は周囲が土塁と柵で囲まれてはいますが、広々とした空間です(地図中「主郭跡」)。

3棟の建物があったらしく、建物の跡地はその大きさがわかるようにブロックで輪郭が描かれていました。
これらの建物には1~3の番号が振られており、それぞれ以下の規模をもっていました。
 
 建物1:東西15m、南北10m(城内最大の礎石建物)
 建物2:東西6m、南北10m(棟持ち柱をもつ礎石建物)
 建物3:東西7m、南北6.5m(ほぼ方形の礎石建物)
 
 
▲周囲を土塁に囲まれた主郭跡の様子
 
 
▲虎口(通行不可)
 
主郭の南西にはあずまやがあり、そこには井戸が復元されていました。

金鑵(かなつるべ)城という名前は、金属製のつるべを使って水をくみ上げていたから付けられたと言われています。
井戸の位置や規模、どのようなつるべが使われていたのかは分かっていないそうなので、完全な推測による復元。(都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P129 では、「主郭南部には説明のつかない巨大な穴(直径約30m、深さ10m)が存在する。」となっており、その穴の位置に井戸が復元されています。)
 
 
▲名前の由来になったと言われる井戸が復元されている
 
主郭跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2014年3月16日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/kanatsurube20140316-1/virtualtour.html
 
主郭跡の東側に土塁の切れ目があり、その先に物見櫓が見えたので、そちらへ行ってみました(地図中「物見櫓」)。
 
が、残念ながら物見櫓は立入禁止。
梯子で上り下りする構造なので安全面で問題がありますし、そもそも張り紙によると建築基準法に適合していないため立入できないとのことです。
 
 
▲復元された物見櫓
 
物見櫓の下からは、東方面の大展望が広がっていました。
かすんでいますが、空気が澄んでいればどれだけの景色が楽しめるのか、容易に想像出来ます。
 
物見櫓の下で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2014年3月16日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/kanatsurube20140316-2/virtualtour.html
 
しばらくの間景色を楽しみ、車へ戻ろうとして思い出しました。このすぐ近くに陸軍が演習用に作った塹壕があるということを。

このことを知ったのは、こちらのブログ「私のマイカー日帰り登山」(http://blog.goo.ne.jp/1945ys4092/e/60aeebbc05f419b27baf0eb970530211)のおかげ。
 
木橋の下にある巨大な堀切は、主郭跡を囲むように作られているように見えますが、主郭跡の北側に続く堀切(自然地形の谷?)には、現在は滑り台が設置されていて子ども達の遊び場になっています。
 
 
▲主郭跡北側に設置された遊具
 
この遊び場の上(上の写真を撮影した場所)に道標が立っており、北東を指して「眺望の道」南東を指して「色彩の道」となっています。

陸軍の塹壕を見るためには「眺望の道」方面へ進みます。
 
 
▲道標(丸太階段を登る)
 
丸太階段を登ったところに案内図があり、その後ろには関西電力の社線39番鉄塔が立っています(地図中「社線39番鉄塔」)。
この鉄塔の右に遊歩道があるので、そちらへ進んでいくと、わずかな距離で塹壕に出会いました(地図中「土塁」)。
 
 
▲送電線鉄塔の右にある遊歩道へ入る
 
単純な塹壕ではなく、厚みのある土塁の真ん中に塹壕が掘られているという形態です。
現地の案内板によると土塁は上幅約1.2m、高さ約1.2m、塹壕の規模が幅約1.2m、深さ1.2m。
(都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P129 では、「北北東300mの地点および南南西200mの地点にも城としての立地を考え得る地形がある」となっていますが、北北東の地形は、この土塁と思われます。)
 
 
▲土塁と塹壕の様子(断面を赤線で描いています)
 
12:40
金鑵城跡と旧日本軍の演習用の塹壕を見るという目的を果たし、家路に就きました。