播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

恒屋城跡(兵庫県姫路市)

先日、Twitterのタイムライン上で写真を見て、是非行きたいと思っていた恒屋城跡に本日出かけてきました。
 
恒屋城
【城史】恒屋城の築城について『播磨鑑』は「恒屋肥後守(伊賀守)光氏が長禄2戊寅年(1458)之を築く」とある。光氏は、北垣聡一郎氏の引用した『恒屋の里』『播磨古城記』によると城主恒屋刑部少輔光稿の長子となっており、光稿がすでに城主と書かれているところからその築城年代はさらにさかのぼることが考えられる。『日本城郭大系』には『赤松秘士録』を引用して光(満)氏が嘉吉の変に赤松満祐に呼応して書写坂本城に参集したことをあげている。嘉吉の変は1441年であるから、それ以前にすでに城主として存在していたことが推測される。恒屋氏の名が文献にあらわれるのは永享元年(1429)とされているが、この頃すでに恒屋城主として居城していたのではなかろうか。しかし、『日本城郭大系』の筆者は光氏の没年が慶長5年(1603)とあるところから坂本城に参集したのは光氏では年代は一致しないとして、父光稿の間違いであろうとしている。
恒屋氏家系によると、恒屋伊賀守光氏は大坪対馬守義勝の実子(2男)となっている。義勝の2男光氏が恒屋光稿の養子となったとするのは北垣氏の説である。
光氏のあとは光成、光誉と続いたが、永正18年(1521)浦上村宗がここに本営を構えて同族赤松氏や山名氏と争うという事が起り、大永(1521~27)の頃に至って恒屋の家臣中にも赤松に属するもの、浦上に味方するものができて混乱を来し恒屋氏の勢力も不振の状態にあった。
天正2年(1574)5月5日光成ら恒屋一族は置塩城に赤松義祐(『播磨鑑』には則房)を攻めたが、白国構主白国治大夫宗把に阻まれて討死した。しかしその後も恒屋の一族は恒屋城を居城としていたらしく、天正年間の羽柴秀吉の播磨攻略の際恒屋氏はこの城に籠って戦ったが遂に落城したといわれている。

出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P227
   兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4
 
 
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「前之庄」
 
10:00
昨日の雪が残っていたり、路面が凍結していると危ないので、遅めに自宅を出発。
 
姫路市街から国道312号線を北上し、「溝口南」交差点を左折します。
県道409号線に突き当たったら右折し、すぐの「恒屋」交差点を左折。
1.5kmほど進むと、消防分団の火の見櫓と車庫、そして赤茶色の屋根の公民館が左手にあるのに出会います(地図中「公民館」)。
 
ここからは右側を注意しながら80mほど進むと、「恒屋城跡→」と書かれた小さな標識があるので、それに従って右折。
すぐに突き当たりますが、突き当たりを左折するとすぐ右前に先ほどと同様の標識があるので、それに従って細い道路に入ります。
 
 
▲標識に従って細い道路に入る。
 
大きめの車では厳しいかも知れませんが、普通車なら何とか通れる幅がある道路を進むと、未舗装の「恒屋城跡駐車場」があるので、そこに車を止めます。
 
ルートラボで作成した姫路市街から恒屋城跡駐車場までの道順を以下のURLからご覧頂けます。
 
10:55
途中でコンビニに立ち寄ったのと、少し道に迷って時間をロスしましたが、1時間弱で駐車場に到着(地図中「P」)。
 
この駐車場の位置は、下のURLをクリックするとGoogleマップで表示できます。(アルファベット付きのピンが立っている場合は、無視して下さい。文字のないピンの位置が駐車場です)
 
 
▲恒屋城跡駐車場の様子
 
11:02
準備を整えて出発。
上の写真の右側に写っている民家のすぐ左が登山口になっています。
 
▲登山口
 
登山道は植林の中で少し薄暗いですが、丸太階段があったり、岩盤がむき出しになっているところにはステップが刻まれていたり、歩きやすい道です。
 
 
 
▲登山道の様子
 
11:06
道が二股に分岐しているように見える場所に出会いました。
「前城→・お堂→」と書かれた道標が立っていて、右側しか示していません。分岐ではなく、道が直角に折れ曲がる場所のようです。
 
 
▲登山道が折れ曲がる地点の様子
 
そこから5分ほどで、突然視界が開けます。
前城の南端にあるお堂(下の道路から見えていた)の前に出てきました(地図中「お堂」)。
 
恒屋城は南北に細長い縄張りを持っていて、南側が前城、北側が後城と呼ばれており、前城の三の郭と後城の二の郭の間にある土塁が境になっているようです。
 
お堂は前城の南端です。つまり、登山道は城跡の最南端に出てくるようになっているわけです。
お堂の南側は畝状竪堀を見やすくするためか木々が伐採されていて、なかなかの展望です。
 
 
▲お堂前に残る畝状竪堀(下に見えるのは恒屋の集落)
 
 
▲お堂(恒屋伊賀守光氏が祀られている)
 
 
▲お堂の近くから南を見る(マウスポインタを合わせたとき右下に表示される虫眼鏡のアイコンをクリックすると拡大表示されます)
 
お堂の後ろには高い切岸がありますが、その上に続く道と、それを迂回するように北へ延びる道の2本のルートがあるようです。
 
 
▲お堂の裏の様子
 
せっかくなので切岸の上へ上がってみることにします。
上へ続く道の近くには、討ち死にした武者を祀った五輪塔が並んでいます。
 
 
▲お堂の背後にある五輪塔
 
切岸の上にある郭の周囲には幟が立っていましたが、官兵衛関連かと思ったら「夢そば」の幟でした。
 
 
▲お堂のすぐ上にある郭跡の様子
 
広い郭から先へ進むと、三の郭と書かれたプレートが立っていました。
恒屋城は前述の通り前城と後城とに分かれていますが、三の郭が前城の最高地点です(地図中「三の郭」)。
 
 
▲三の郭
 
ここから北へ下ると、土橋状の道に出会います(地図中「土塁」)。
 
南から三の郭に登るには高さ数メートルの切岸を登る必要がありましたが、北へ下るのは簡単。三の郭が陥落したときに、兵士の撤退を容易にするためでしょうか。

現地の説明板によると、平時は土塁の上を通行し、戦時には土塁の両側を通行したそうです。
 
 
▲土塁
 
土塁を渡りきると、深い堀切にぶちあたります。
直進することは不可能で、道は左へ続いている(右へ巻くのは不可能)のですが、道なりに進むと先ほどの堀切とつながっている横堀沿いに北へ進むことになります。
 
この道の左側は谷で、右側は横堀。横堀の右上に二の郭があるという状態。
つまり、前城を突破して攻め込んできた敵兵は、二の郭から攻撃を受けやすいこの道へ強制的に誘導されるわけです(地図中「二の郭」)。
 
 
▲二の郭脇の通路(城を攻める兵士からの視点)
 
敵を迎え撃つためのこの通路の北端には、「後城(本丸)のぼり口」と書かれた道標が立っていました。
 
ここから右(南)へ進むと、先ほど通路から見上げていた二の郭へ行けます(二の郭の出入り口は北端のみ)。
せっかくなので、二の郭から先ほどの通路を見下ろすことにしました。
 
 
▲二の郭から横堀脇の通路を見下ろす(城を守る兵士からの視点)
 
二の郭はこの城の郭の中では最大級で、屋敷があった可能性も示唆されています。
 
この他、光明山城跡(相生市)・恒屋城跡(香寺町)などでも屋敷曲輪の存在する可能性があるが明確にはできない。
出典:夢前町文化財調査報告書 第7集 播磨置塩城跡発掘調査報告書 平成18年3月10日 P113 夢前町教育委員会
 
二の郭の北端から主郭へ向かうには、左側に堀切りのある坂道を登ります。
 
 
▲堀切りと平行な道を上る
 
まもなく堀切状の切れ込みが道の右側にあるのに出会いますが、これは案内板によると堀切ではなく「水の手」とのこと。
 
水の手
敵の攻撃を防ぐのが主目的であるが一時的に雨水をためて、城で使用する水を確保する目的もある
両側が高くなっているが特長。
城跡管理:北恒屋自治会(恒屋城保存顕彰会)
中寺校区地域夢プラン実行委員会
出典:現地案内板 原文まま
 
 
▲水の手
 
すぐその上では堀切に出会いました。
 
 
▲堀切
 
何が違うのかよく分かりませんが、水の手は掘削された溝の底が平で、堀切りは谷に向かって下っていくというのが水の手と堀切の差でしょうか。
 
堀切の先には、「←香寺荘・←中村構跡」と書かれた看板がありました。
その看板の場所で矢印の方向を撮影したのが、下の写真です。
 
 
▲香寺荘・中村構跡方面の景色
 
香寺荘等の案内があった場所から2つの虎口を抜けると、後城の最高地点、主郭跡にでます。
 
 
▲主郭直前の虎口
 
12:05
主郭に到着(地図中「主郭」)。
昨日の雪がしっかり残っていて、誰の足跡も付いていません。
 
面白いのは、直径2mほどの穴があって、それが盗掘跡だということ。
案内板によると昭和10年頃、城跡に財宝があるという噂が流れてそれを探すために掘られた穴だそうです。
 
恒屋城の主郭跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2014年2月9日)
 
主郭からは360度の大展望を楽しめます。

北には大倉山が間近に見え、その左には七種薬師と地獄鎌尾根が、北西には明神山が見えています。
東は彼方に六甲山塊、南東には古法華山塊、山頂に反射板のある畑山、南には高御位山塊などなど、棚原山に視界を遮られている西側以外はすばらしい眺めです。
 
この展望を楽しみながらアルファ米のカレーライスを食べ、のんびり休憩していると、比較的若くて格好良い、軽装の単独の男性ハイカーが登ってこられました。
彼はしばらく景色を楽しみ、写真を撮った後颯爽と登山道を駆け下りていきました。トレイルランナーだったのかな。
 
13:06
たっぷり1時間休憩し、下山開始。
 
横堀のある二の郭まで下山したところで、男性ハイカー2人組に出会いました。
話を聞くと、秀吉の播磨攻略の際にこの城は落城していますが、今年の大河ドラマの主人公、黒田官兵衛も関わっているので、この城跡を歩く人が最近増えているそうです。
 
土塁を渡ると、道が二股に分かれます。
左は三の郭からの道(往路で歩いた)、右は三の郭の西側を巻く犬走りです。
 
 
▲三の郭と犬走りの分岐
 
せっかくなので犬走りを見ることにします(地図中「三の郭」西の軌跡)。
この斜面は畝状竪堀が何本も走っている(※)ため、犬走りもその地形の影響を受けてぐねぐねと曲がっているように見えます。
※竪堀のある斜面には植物が生い茂っているため、竪堀の様子はまったく分かりません
 
 
 
 
 
 
 
 
▲犬走り
 
犬走りを抜けた先は、お堂のある場所でした。
そこからは往路をたどって下ります。
 
13:29
駐車場に到着。
 
14:10
自宅に到着。
 
恒屋城の縄張りは、おおざっぱにまとめると下図のようになります。
 
▲恒屋城の縄張り(模式図)
 
敵部隊が城へ登るためにアクセスする可能性が高い西と南(麓の道路に面している)を重点的に守るようになっています。
 
登りやすい尾根南端から登ると竪堀の中を通ることになり、三の郭からの射撃を受けやすくなります。
 
三の郭を落として攻撃側が進撃しようとしても、土塁の道なので一度に通れる人数が少なくなりますし、この土塁は二の郭南端から丸見えなので、二の郭からの射撃を受けます。
 
土塁の先で、通路は空堀を隔てて二の郭の西を通りますが、この区間を通る間は常に二の郭からの攻撃を受けてしまいますし、二の郭へ入るための虎口は郭の北西隅ですから、この「死の通路」を最後まで進まないといけません。
 
攻撃側が南ではなく西側斜面を這い上がってきた場合も、やはり二の郭からの猛攻を受けることになるでしょう。
 
二の郭南西の角は少し西へ張り出しており、二の郭へよじ登ろうとする敵兵への横矢掛け(側面からの射撃)を行えるようになっています。
 
二の郭への虎口をあきらめて主郭の方へ西側斜面を北上しても、空堀(黒い線)と郭群がありますし、斜面が急なため攻めるのは困難。
 
敵を迎え撃つことをしっかり考えた、この周辺の他の山城とは一線を画す高度な縄張りになっているのが印象的でした。
 
恒屋城跡の様子を撮影したビデオをYoutubeにアップロードしました。
興味のある方はご覧ください(約7分)。