播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県赤穂市の尼子山(259.4m)

坂越から千種川の東を見ると、山頂に大きな岩がある山が目に留まります。
「あの大岩に登ると気持ちいいだろうな」と何年か前から気になりつつ、数日前まですっかりその存在を忘れていました。
 
大晦日に山歩きの登り納めをしようと考え、どこへ登ろうか思案していると突然、坂越から見えたあの山を思い出しました。
地形図から尼子山という名前は分かっていましたが、ネットで調べてみると上高野と下高野から登山道が山頂まで延びているとのこと。
 
普通は登山口がわかりやすい下高野の神社から登るわけですが、Googleストリートビューに上高野集落もしっかり写っており、集落内の様子を見ていくと登山口標柱も写っていました。
 
本来は分かりにくいはずの集落内の登山口の位置もこれで分かったため、どちらからでも登れます。

しかし、上高野からの斜面は登るにはなかなか厳しそう。ということで、下高野の尼子神社から登り、上高野集落へ下山することにしました。
 
 
 
▲対応する地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「相生」
 
9:15
姫路市街の自宅を出発。

中地から姫路バイパスに乗って西進し、「相生陸橋」交差点を左折して相生市街へ出ます。
 
途中でコンビニに寄り道。
 
相生市街を抜けて突き当たりの「ポート公園前」交差点を右折し、ペーロン城を通過して国道250号線を南西へ進みます。
 
あとは峠を越えてユニチカの工場の先で「高野」交差点を右折。
 
ちなみに、この高野交差点を北に入ってすぐの場所、道路の東側に「萬歳所」と書かれた標柱が立っています。
標柱によると、出征する兵士をバンザイで見送った場所だそうです。
 
10:35
高野交差点から北へ進み、千種川の土手を北上すると、左下の河川敷に駐車場が見えてきました。
北向きに進んでいると、駐車場へ下る道は左後ろへ急カーブする形になりますし、「左折禁止」の看板も出ているため、その先でUターンして駐車場へ下りました(地図中「P」)。
 
駐車場へ下りる道幅は普通乗用車1台がギリギリ通れる幅。
 
姫路市街からこの駐車場までの道順をルートラボで作成しました。
 
駐車場入口の位置は、こちらをクリックして確認して下さい(Googleマップが開きます)。
 
 
▲河川敷の駐車場
 
10:42
準備を完了して出発。
 
駐車場の北側の坂道を登って道路を渡ると、下高野集落の西端です。
集落の中を東へ進み、尼子神社を目指しました。
 
ところが、これが非常に分かりにくい。
高野自治会のホース格納箱のあるところから左へ入ると、地形図の実線道。
 
 
▲ホース格納箱から左へ入る
 
お寺の前を横切り、「ここは通ってもいいところなのかな?」と思うような場所を歩いて、青い屋根の民家の前も過ぎて細い道を上ると、登山口のある尼子神社があります。
 
 
▲お寺の北にある青い屋根の民家の先へ進む
 
10:48
尼子神社に到着(地図中「尼子神社」)。この神社は、明治時代に上高野からこの場所へ遷座したとのこと。
鳥居の左に尼子山城跡登山口標柱が立っていて、広いしっかりした道が見えています。
 
尼子神社の位置は、こちらをクリックして確認して下さい(Googleマップが開きます)。
 
 
 
▲尼子神社の鳥居と登山道(左)
 
神社でお参りしてから、登山道へ入りました。
ところが、入口が広かった登山道はすぐに形が曖昧になり、道がはっきりしません。

よく観察すると、道は斜面を登ると言うより、等高線と平行に南へ延びている様子。
合っているのか分かりませんが、とりあえず道に見えるところを進んでみます。
 
コンクリートの台座が1つあり、その周辺には碍子の破片が落ちていました。
 
足下に注意しながら歩き、ふと視線を上げると、下の写真の光景が見えました。

道標が立っているので、これが正しい登山道だったようです。
 
 
 
▲神社から登り始めて間もなく出会う道標(尼子将監の墓への分岐)
 
左がお墓、右が登山道です。
せっかくなので、尼子将監のお墓を見ることにします(お墓は道標の前からでも見えます)。
 
 
 
▲塀に囲まれた尼子将監のお墓
 
帰宅後に調べてみると、尼子将監義久の墓は他にも建てられているらしく、本物のお墓ではないのかも知れません。
 
お墓を見てから登山道へ戻り、低山らしい小径を登ります。
 
10:58
はげ山(75m標高点)への分岐に出会いました。大した距離ではないので、見に行くことに。
 
10:59
はげ山(地図中「はげ山」)に到着。
西に向けて多少の展望があるだけの雑木のピークでした。
 
 
 
▲はげ山ピークの様子
 
登山道に戻って北へ進みますが、ここからは斜度がきつくなって山歩きらしい雰囲気になってきます。
 
11:11
「休憩所 四合目」と書かれた標柱の立つ場所に出会いました(地図中「四合目休憩所」)。
休憩所とは書かれていますが、ベンチ等があるわけでもなく、特に広い空間もありません。
 
しかし、振り返るとはげ山と河川敷、千種川や南の山並みを眺めることが出来るので、立ち止まって休憩するには最適。
 
四合目の先にはシダが目立つ区間が少しだけありますが、登山道はほぼすべて両側に雑木・灌木が茂った小径です。
 
11:28
「見晴台 七合目」と書かれた標柱のある場所に来ました(地図中「七合目見晴台」)。
その名の通り、周囲に背の高い木々がない見晴らしの良い岩場です。
 
 
 
▲七合目の見晴台からの展望
 
七合目の見晴台のすぐ上が上高野からの登山道との合流地点になっていました。
つまり、下山時はここから西へ進むことになります。
 
 
 
▲上高野方面への分岐の様子
 
七合目から先は、大きな岩の脇を通るところがあったり、岩が露出した路面を歩いたり、私の好きなタイプの道になります。
 
 
 
▲大きな岩の脇を通る
 
11:33
古い石の鳥居に出会いました。
鳥居の先で足下を見ると、瓦の破片が散乱しています。これは「都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻」によると「付近に土塀や瓦片が散乱しているがいずれも後世のものである。」となっています。
 
なお、ネットの情報によると、この鳥居は安永3年(1774年)のものだそうです。
 
 
 
▲石鳥居
 
石の鳥居の先には比較的新しい尼子神社の赤い鳥居と拝殿がありました。
路面は舗装してあり、とても小さな山の山頂にある神社とは思えません。
 
ここは尼子山城の本郭跡です。
 
尼子山城については、「都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻」で「107 尼子山城(赤穂市坂越町下高野)」として紹介されています。
 
【城史】城主は尼子将監義久といわれている。尼子氏の播磨進攻は天文7年(1538)にはじまり、城山城を本拠とした尼子詮久はつぎつぎ播磨の諸城を陥れていった。尼子山城もこのときに攻め落されて尼子氏が入城したのかもしれない。しかし、尼子氏の占拠以前の城主の名はあきらかでない。『赤松家播備作城記』には「尼子山城 赤穂郡坂越庄高野村尼子将監守之。天文年中討死。戸田氏守之。天正中落城」とある。しかし、尼子将監義久は永禄5年(1562)出雲富田の城主として毛利軍に包囲されて戦っているところからみて、尼子山城が落城したといわれている永禄6年には義久は尼子城に居なかったことは確かである。天正6年(1578)上月城で討死した尼子勝久は尼子の支族であるところからみて、この尼子城に居た城主もその系統の尼子氏であったかもしれない。

出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P201
   兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4
 
 
 
▲山頂の尼子神社
 
赤い鳥居の右奥に三角点標石があったのでそれの写真を撮っていると、「尼子山湧泉」と書かれた道標を見つけました。
 
山頂の北側斜面へ誘導するように矢印が書かれています。
山城があった当時の水源だろうから、きっと近くにあるのだろうと安易に考え、道標に従って下ることにします。
 
北側は植林の斜面で、何段もの削平地があって明らかに山城跡であることが分かります。
山の南斜面は急峻で敵が攻めて来づらいですが、北側は比較的緩やかなので防御用の設備が設置されていたのでしょう。
 
当時の兵が水を汲みに行った道かなと思いながら、つづら折れの道を下ります。
が、下っても下ってもたどり着きません。標高差で40mほど下ったところでようやく湧泉に出会いました(地図中「尼子山湧泉」)。
 
11:39
直径1m強の円形の泉で、透明な水がたまっていました。
道はさらに先へ続いていますが、下山するわけにもいかないので山頂へ引き返します。
 
 
 
▲尼子山湧泉
 
11:44
再び山頂へ戻ってきました。
尼子神社拝殿でお参りし、今度は大岩に登るルートを探すことにします。
 
 
 
▲登りたかった大岩(麓から下山後に撮影した写真)
 
拝殿前で周囲を見ても、岩はありません。

拝殿に向かって左側に小径があったのでそこへ入ると、大岩の裏面に出ました。
真後ろから見るとどう考えても登れそうにありませんでしたが、さらに奥へ回り込んでみると、上手い具合に岩に割れ目があって、それに足をかけていけば登れそう。
 
 
 
 
▲大岩の後ろの様子
 
足をかける場所は十分にあり、手をかけられる突起やくぼみもちょうど良い場所にあるため、私のような運動神経のない人間でもある程度簡単に登れました。
 
山城があった当時は物見岩として使われていて、当時の見張り達もこの割れ目から登ったのでしょうか。
良い場所にとっかかりがあるのは、ひょっとしたら当時の兵達が岩を削って作ったからかも。
 
登っている最中はそんなことを考えてワクワクしながら登りましたが、岩の上に出ると強い寒風に襲われて一気に気分が盛り下がってしまいました。
 
登山道や神社前では風をほとんど感じませんでしたが、岩の上は遮るものが何もないためか、風が強い。
パノラマを撮ろうと思って三脚を立てると、三脚が風で倒れそうになってしまいます。
 
三脚の脚を岩のくぼみや突起などを利用して固定し、自分は転落しないように、なおかつ三脚を蹴ったりしないように慎重に動いてパノラマ撮影を完了しました。
尼子山山頂の大岩の上で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2013年12月31日)

https://shimiken1206.sakura.ne.jp/panorama/amakoyama20131231/virtualtour.html
 本当はここで食事をしたかったのですが、風が強いので荷物を吹き飛ばされたりしそう。
というわけで、大岩から下りることにします。
 
登るときは首からかけていたカメラも、下りで足下の視界を遮らないようにするためバックパックに仕舞い、時間をかけて慎重に岩を下りました。やはり登るより下る方が怖い。

荷物を下に残し、空身で登ればたいしたことは無いかも知れません。
バックパックを背負っていると、岩の近くに生えている木の枝が引っかかるんです。
 
後日図書館で尼子山について調べてみると、この大岩にも言及されていました。
 
頂上から少し西へ降ったところに5m4角の巨岩が露出していて落下寸前の様相を呈している。この城が攻められたとき、山頂から岩を落下させて敵を防いだ時の残りであるといっている。

出典:都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成 第15巻 P201
   兵庫県教育委員会・和歌山県教育委員会編 2003年4月30日発行 ISBN4-88721-446-4
 
12:15~12:48
山頂の尼子神社拝殿前で、南の景色を楽しみながら昼食を頂きました。
 
本日のメニューはMary Janes Farm社のフリーズドライパスタ「Chilimac」。ベジタリアンメニューです。
メキシコ料理的な風味の、豆がたっぷり入ったパスタ。タコスやタコライスが好きな私には良いメニューでした。
 
 
▲本日の昼食
 
12:53
七合目の分岐まで戻ってきました。
 
ここから右へ曲がり、等高線とほぼ平行に西へ下っていきます。
この道には、石段がありました。ひょっとして、当時の大手道だったのかな。
 
 
▲石段状の段差がある(矢印の部分)
 
冒頭の地図内の赤線(GPS軌跡)でもよく分かりますが、今までまっすぐ緩やかに下っていた道が、突然向きを変えてつづら折れになります。
 
つづら折れの頂点や直線部分では、時々石段のようなものが見られました。
 
標高100m~150mの辺りは、斜面が岩で覆われているようなところがあります。城を敵から守るために上から落としたものなのでしょうか。
 
 
▲岩に覆われた斜面
 
さらに下っていくと、えぐれた中に石が転がる歩きにくい道になりました。
 
13:16
石垣に出会いました(地図中「神社跡」)。

お城に関係あるのか?と思いましたが、もう麓まで目と鼻の先。よくよく見ると、石垣の南面は中央が開いていて、神社のような形をしています。
 
登山口がある尼子神社はもともと上高野集落にあったそうなので、これがその跡地でしょう。
 
 
▲尼子神社跡地
 
尼子神社が当初ここに作られていたということは、やはり今回下ってきた道はお城へ通じる正規のルートだったのかな。
 
神社跡地のすぐ先でコンクリート擁壁にぶつかりますが、擁壁のすき間から上高野集落へ出られるようになっています。
 
 
▲コンクリート擁壁の間から下りてきた
 
コンクリート擁壁の外へ出て民家の間の道を下りると、上高野集落のこの場所へ出てきます。
 
 
 
 
▲上高野集落内の登山口標柱
 
賑やかな声が家々から聞こえて来る中、上高野集落を南東へ抜けて駐車場へ戻りました。
 
13:30
駐車場に到着。
 
なんだか楽しい山歩きだったという印象が残りましたが、やはり大岩に登ったことが今回の山歩きの最大のハイライトで、岩の上からの絶景とスリリングな岩の上り下りが私にはちょうど良かったのかな。
 
14:30
自宅に到着。