2022年4月 追記
鶉野の飛行場に関する資料は、飛行場跡地の北側にある「soraかさい」で展示されるようになりました。
追記ここまで
鶉野の飛行場に関する資料は、飛行場跡地の北側にある「soraかさい」で展示されるようになりました。
この記事に記載している防空壕は、見学の14日前までに加西市観光協会に申し込まないと見学はできません。
2011年8月13日付の神戸新聞に「地下指揮所66年ぶり現る 加西の旧海軍飛行場跡」と題した記事が掲載され、加西にある鶉野飛行場跡近くの地下指揮所が見学可能になったことを知り、それ以来見に行きたいと思っていましたが、山に行く気がしないほど暑く、終戦記念日も近いので、本日見に行ってきました。
姫路市街からだと、国道372号線を北東へ進み、北条鉄道の踏切を越えてまもなくの「鶉野南」(うずらのみなみ)交差点を左折。
後は道なりに進めば、「防空壕」と書かれた道標に出会います。
この道標に従えば、新聞に掲載されていた地下指揮所に行けますし、道標を通り越して直進すれば、滑走路跡に行けます。
この道標に従えば、新聞に掲載されていた地下指揮所に行けますし、道標を通り越して直進すれば、滑走路跡に行けます。
滑走路北端付近には道路が放射状に広がっているような形になっているところがありますが、そこを通って滑走路を越え、すぐ左折して南西へ滑走路沿いに進んでいけば、慰霊碑があります。(その後、滑走路北東(下の地図の位置)に移設されました)
https://goo.gl/maps/b6eFDuCrsJtDLkACA
▲滑走路跡にある慰霊碑の位置
▲慰霊碑(その後、上のGoogleマップの位置に移設されました)
慰霊碑の碑文等は、2009年8月にここを訪れた際の拙ブログ記事に書いていますので、興味のある方はご覧下さい。
まずは滑走路跡地でパノラマ撮影。
戦時中の日本軍の基地が、一部は道路で分断されているものの、当時の姿を残しているのは奇跡的だと思います。
戦時中の日本軍の基地が、一部は道路で分断されているものの、当時の姿を残しているのは奇跡的だと思います。
▲滑走路跡
滑走路跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2012年8月4日)
引き続き、滑走路の北にあるという機銃座を見に行くことにします。
ネットであらかじめ位置は調べていたので、簡単に見つかりました。
https://goo.gl/maps/1sRAzc8MTYeGFvWQA
▲対空機銃座の位置
ちょうど機銃座の近くは路肩が広くなっていて、車を1台止められるスペースがありました。
機銃座の中心でパノラマ撮影をしようと思っていましたが、ロープで囲まれていて立ち入り禁止になっているため、それはあきらめて普通に撮影。
▲地元の方の協力で綺麗に姿を現した対空機銃座
地下の弾薬庫へ続く階段もありますが、入口がふさがれているため入ることは出来ません。
USSBS(THE UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY) Kawanishi Aircraft Co. (Kawanishi Kokuki Kabushiki Kaisha) CORPORATION REPORT No. 3 (Air frames)(以下USSBSレポート) によると、川西航空機の鶉野工場は1945年3月28日に戦闘機から機銃掃射とロケット弾による攻撃を、1945年7月30日には機銃掃射と爆弾による攻撃を戦闘機から受けています。
飛行場の方は、USSBS The Japanese Aircraft Industry (Aircraft Division May 1947)によると1945年7月24日に米海軍機18機による爆弾2トンの、同30日には海軍機27機による4トンの爆弾による攻撃を受けています。(米軍側による損害評価は「Light(軽微)」)
この対空機銃座もその際活躍したのかも知れません。
「25mm連装機銃」があったとのことですが、九五式あるいは九六式の連装機銃のことでしょう。
※旧海軍では40mm以上を機関砲と呼んでいたので、25mmだと機関銃。
いよいよ戦闘指揮所(道標では「防空壕」)を見に行くことにします。
鶉野南交差点からの道へ引き返し、「防空壕」と書かれた道標に従って西へ細い道を入ると、綺麗に整備された駐車場と仮設トイレのある防空壕が簡単に見つかりました。
鶉野南交差点からの道へ引き返し、「防空壕」と書かれた道標に従って西へ細い道を入ると、綺麗に整備された駐車場と仮設トイレのある防空壕が簡単に見つかりました。
https://goo.gl/maps/SspFoEtoTygyUmqt9
▲地下指揮所跡の位置
▲防空壕(地下指揮所)
▲決して質の良いコンクリートとは言えないが、現在までほぼ原型を留めている
注:ブログ掲載時点では自由に見学できましたが、現在はガイドの立ち合いが必要です。詳細は、加西市観光案内所へお問い合わせください。
入口のドアは開放されていて、すぐ中には電灯のスイッチがあります。
これをONにしないといけないようですが、薄暗い階段の先に変化は見られません。ちょっと不気味な感じもしますが、思い切って階段を下りて地下へ。
これをONにしないといけないようですが、薄暗い階段の先に変化は見られません。ちょっと不気味な感じもしますが、思い切って階段を下りて地下へ。
階段を下りきったら右、すぐ左、そしてまた右へ曲がると、テレビや記帳用のノートが置かれた小さな部屋に出ました。
爆風を防ぐために折れ曲がった通路があったので、部屋の電気が点いたことが入口からは分からなかったのです。
この小さな部屋の向こう側には、天井からラジコンの紫電改がぶら下がった、先ほどの部屋よりは大きな部屋に出ます。
▲地下指揮所内部の様子
地下指揮所跡で撮影した全天球パノラマ(撮影日:2012年8月4日)パノラマ画面左上のリストから、3箇所のパノラマを切り換えてご覧いただけます。
部屋の中央には机と椅子が置いてあり、天井からは紫電改のラジコンがつり下がっており、壁には特攻隊として出撃した若い兵士達の遺書が掲示され、紫電の部品(機体の一部やタイヤ、ホイール)が置かれています。
遺書の一部を掲載しておきます。
第一護皇白鷺隊
湯川俊輔少尉(25歳)の絶筆
俊輔之より征きます、元気で
4月6日 12時7分注)第一護皇白鷺隊 湯川俊輔少尉(25歳)の姉が出した速達の手紙が特攻出撃の3分前に届き、その返事を愛機に片足をかけ鉛筆で封筒の裏にしたためた絶筆である。
野元 純少尉候補生
父様 母様
時間がありませんので乱筆にて失礼します。何も申し上げることはありませんが、最後の最後まで選抜されて元気で出撃です。僚機は既に出発しました。これは飛行機の蓋の上で書いています。誰に恨まれることもなければ、特に喜ばれることもありません。平常と何も変わることなく、平常の心のままで落着いて突っ込む覚悟です。永い間本当に種々御世話になりました。
何と言って御礼申し上げてよいやら分かりません。海山よりも高い御恩は突込むことにより、必ずや御報いできると信じます。宏三、茂生の勉強を呉々も御願い致します。
人生に勉強を抜いたら何も残りませんことは確かです。ぼんやりする時間を、できるだけ少なくするよう教育して下さい。姉様は何も心配事ありませんね。
本当に安心して往けます。凡ては父様母様のお陰です。私も突込むことにより幾分でも祖先に報いられれば満足です。
平常と何等変わらぬこの気持ち
国を思うと同じかるらん
では さようなら
コンクリートが剥離し、さびた鉄筋が露出しているところがあったり、換気用(?)のパイプが天井から飛び出ていたり、型枠として使った木の板の木目がそのまま綺麗にコンクリートの表面に残っていたり、新聞記事や他の方のブログなどでは分からなかったことが色々と見えてきます。
やはり、自分の目で見るのがベストです。
地上に出て前を見ると、エプロン(駐機場)と特攻隊員が杯を交わすために使われた場所があります。
現在は神戸大学の施設になっていますが、エプロンだった場所は当時のコンクリートの路面がそのまま残っており、往時を偲ばせます。
▲エプロン(駐機場)跡地
各地に戦争関連の資料館はありますが、当時の施設内で展示されているのはここだけではないでしょうか。
私のように滑走路から先に見るのではなく、この地下指揮所を見てから滑走路を見た方が、より感慨をもって見学出来ると思います。
負の遺産として撤去せず、地元の方々が守り続けている戦争遺跡。
お近くの方は是非見学に行ってみてください。
お近くの方は是非見学に行ってみてください。
おまけ
川西航空機の機種別生産機数が米軍の資料に掲載されていましたので、それをもとにグラフを作ってみました。