播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

第二次世界大戦中の姫路空襲(Part 1 of 4)

私が住んでいる姫路市は、第二次世界大戦中に空襲を受けました。
 
祖父母から子どもの頃に聞いた空襲の話の印象が強く、姫路空襲についてはずっと興味を持っていましたが、詳細を知る術はありませんでした。

当時を知る人たちの証言は、当時の心理状態の影響などもあり正確ではないことが多く、実際の空襲がどのような規模だったのかも分かりません。
 
米軍がいつ、どこから来て、何を狙って空襲を行ったのか、どんな兵器が使われたのか、米軍の被害はどの程度か、といった疑問をずっと持ち続けていました。
(分かったからといって何の得にもなりませんが、好奇心を満たせるというメリットはあります。)
 
ある時、米軍の作戦報告書(Tactical Mission Report、以下TMR)の存在をインターネットで知り(そのサイトから、姫路が2回の空襲に遭ったことも知りました)、作戦報告書のコピーが展示された姫路市の平和資料館の特別展で初めて作戦報告書を見てその詳細な内容に感心し、もっとじっくり読んでみたいと思っていたところ、インターネットの検索で見事にその作戦報告書のPDFファイルを発見。
 
本当に便利な世の中です。国会図書館に行かなくても、自分の部屋でTMRを見られるとは思ってもみませんでした。
 
1回目と2回目の空襲はそれぞれ別のTMRに記載されていますが、両方とも見つけることが出来たので、以下にその内容の概略を載せておきます。

注:(補足:○○)はTMRには載っていない情報、(注:○○)は私の個人的な推測、それ以外はTMRに書かれている内容です。
 
記載されている時刻は世界協定時なので、日本時間に直すには9時間を足してください。
 
まずは1回目の姫路空襲。
 
 
▲1回目の姫路空襲について記載されたTactical Mission Reportの表紙
 
1945年6月22日に実施された作戦番号(Mission No.)215~220について詳細が書かれている米軍の「Tactical Mission Report(XXI Bomber Command)」(以下TMR)の内容は、次の通りです。
 
(補足:XXI Bomber Command(第21爆撃集団)は、1945年1月21日から、無差別爆撃に積極的だったCurtis LeMay(カーティス・ルメイ)が指揮した部隊です。)
 
このTMRには、作戦番号215~220について書かれています。

これらの作戦の攻撃目標として選定されていたのは、呉海軍工廠(215)、三菱航空機玉島製作所(216)、川西航空機姫路製作所(217)、三菱航空機各務ヶ原製作所(218)、川崎航空機各務ヶ原工場(219)、川崎航空機明石工場(220)です(括弧内は作戦番号)。
(注:つまり、同じ日に姫路を含めて6箇所が空襲を受けていたということです。)
 
 
▲作戦番号215~220の攻撃目標が示されたページ(姫路は右上。爆弾投下のための目標が2カ所設定されていることが分かる。写真左下には姫路城が写っている。)
 
姫路の川西航空機工場が攻撃された作戦217について、TMRによると、この工場では紫電と紫電改の機体が作られており、紫電・紫電改の生産に重要な役割を果たしていたそうです。TMRの表現では、神戸と岡山のほぼ中間にある姫路市の西端に工場は位置すると書かれています。

(注:工場は姫路城の東、市川の西岸にあったので、東端の間違いでしょう。)
(注:2014/10/05追記:鶉野飛行場資料館の展示によると、この工場で製造された紫電・紫電改は、3分割されて3頭立ての馬車で加西の鶉野飛行場まで運ばれたとのこと。距離は約20km。5時間かかったそうです。)
(補足:JR播但線の京口駅とアンビックの工場の間、現在は京口団地やゴルフセンターのある辺り一帯が川西航空機姫路製作所でした。アンビック(旧日本フェルト)と山陽皮革の工場は、現在も当時と同じ位置に残っています。)2014/10/5追記:山陽皮革の工場は、取り壊されました。追記ここまで
 
TMRによると、第58航空団が作戦を担当し、B-29爆撃機は500ポンド爆弾を1機あたり13,000ポンド分搭載、弾頭には0.01秒の遅発信管を、弾底には着発信管をセット。500ポンド爆弾を使用したのは、より大きな爆弾を命中させるよりも、標的の構造上小型の爆弾を複数命中させた方が大きな損害を与えられるからだと書かれています。
 
0.01秒の遅発信管を弾頭にセットしたのは、工場の屋根を抜けた後、屋根から3mほど下で爆発させるためで、これにより工場内部と建物の両方に大きな損害を与えられます。

弾底の着発信管は、工場の周辺の地面に着弾した際、着弾と同時に爆発させるためのものです。
 
姫路への空襲(作戦番号217)の場合、爆撃行程の始点からの攻撃軸(進路)は36.5度、爆撃高度は約4600m(15,000フィート)、爆撃行程(bomb run)は約55km(34マイル)、爆撃行程にかかる時間は6分50秒(小豆島南東から爆撃行程を開始している)として計画。
 
 
▲マリアナ諸島から日本への飛行ルート
 
 
▲当日の気象状況
 
戦闘機による護衛は無し。
 
爆撃行程の始点(initial point)は小豆島の南東隅(北緯34度26分、東経134度21分)。ここから方位36.5度に進んで爆撃、その後は左(西)へ旋回して帰投します。これは、右旋回をして東へ進むと、明石や神戸の対空砲火にさらされるからです。
 
B-29に搭載されていた燃料は1機あたり25,000リットル(6,700ガロン)。爆弾搭載量は1機あたり約6トン(13,000ポンド)。
 
B-29は対地レーダーを搭載し、その反射波をレーダー画面で見ることで地形を識別(水面と地面の区別)していました。
そのため、海岸沿いの工場のようにレーダーにはっきり写る目標と異なり、街中にある姫路の工場はレーダーでとらえるには不向きとTMRでは評価されていますが、姫路市街地がレーダーに写るので、その東端を目指せばよいとなっています。

(補足:B-29搭乗員向けのマニュアル「XX Bomber Command B-29 Combat Crew Manual」によると、当時の日本の都市は、よほど大きくないとB-29のレーダーに写らなかったそうです。)
(注:姫路には姫路城や密集した市街地、市川にかかる橋があるため、レーダーで補足出来たのでしょう。)
 
作戦217のためにテニアンの基地を離陸した第58航空団のB-29は58機。一番機の離陸は1945年6月21日16:46。最後のB-29が離陸したのは同17:52。(この段落の時刻は協定世界時)
 
攻撃は第58航空団の2つのグループ(4個飛行中隊と2個飛行中隊)により昼間に実施されています。
2つのグループにはそれぞれ別個の攻撃目標(M.P.I. Mean Point of Impact)が設定されていました(川西航空機姫路製作所と山陽皮革の工場)。
 
爆撃は00:46~01:37(いずれも世界協定時。日本時間では09:46~10:37)、高度約4,600m(15,200フィート)~約5,500m(18,000フィート)で実施。昼間で雲量も少なかったため、すべて目視照準。
 
攻撃軸(爆撃時の進行方向を方位角で示したもの)は37~43度。
 
M.P.I.の半径約300m(1,000フィート)以内に、投下した爆弾の52.9%が着弾。かなり高い精度で爆撃出来ています。
 
投下されたのは、M64汎用(general purpose)爆弾が1,403発(350.7トン)。攻撃目標をマークするためのM47A2白燐爆弾も合計12発搭載していたようですが、爆撃前に海上で投棄されています。
(補足:M64汎用500ポンド爆弾には、1発につき炸薬としてアマトール爆薬 117kg、またはTNT爆薬 120 kgが装填されていました。)
(補足:500ポンド爆弾については、「姫路空爆の記録-恐怖の昼と夜-」姫路空襲を語りつぐ会編(1973)に掲載されている手記を読むと、250kg爆弾という表現が使われています。500ポンドはほぼ250kgです。)
 

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▲川西航空機姫路製作所の爆撃に使用されたM64汎用爆弾。上部中央から爆弾の前後に伸びるワイヤーは、投下と同時に安全装置を解除するためのもの。爆弾内の棒は、起爆薬。弾頭と尾部の両方に信管が付いていることが分かる。(出典:「UNITED STATES BOMBS AND FUZES PYROTECHNICS 1945年9月1日 U.S.N.B.D.」p.50)
 
姫路を爆撃した第58航空団に対し、日本軍は12機の迎撃機が合計17回の攻撃をしかけています。
それに対してB-29は合計8,510発の50口径弾で応戦し、2機の日本軍機に損傷を与えました。
 
爆撃行程開始時から姫路上空に出るまでに双発機2機が目撃されていたにもかかわらず、迎撃機に双発機はいなかったと記録されています。
ただ、米軍のF6Fによく似た(翼端が四角く、星形エンジンを搭載し、機首が短い)黒っぽい単発戦闘機3機がB-29の編隊より高く上昇し、B-29の編隊を追い越して行ったという奇妙な記述もあります。それら3機の上昇力は「驚異的」(terrific)だったとのこと。
 
姫路を爆撃した部隊によると、対空砲火は「わずか」(meager)で「おおむね不正確で口径は大きい」(generally inaccurate and heavy)。対空砲火の大半は、爆弾投下の約1分前、姫路南部の海岸沿いから発射されたもの。
目標へ向かう途中では、赤穂からわずかで不正確な対空砲火を受けています。
 
(補足:B-29搭乗員向けマニュアル「XX Bomber Command B-29 Combat Crew Manual」では、毎秒1発以下の対空砲火を「meager」、75mm以上の口径の対空砲を「heavy」と表現しています。)
 
当時、姫路には大口径の高射砲が23門しかなかったようです(呉には131門)。
 
米軍の損害は、迎撃機の攻撃による損傷x1機、対空砲火による損傷x2機。米軍側の死傷者は無し。
 
作戦終了後、最初の機体が基地に着陸したのは1945年6月22日07:28、最後が着陸したのは同22日10:09。(この段落の時刻は協定世界時)
 
この空襲による川西航空機姫路製作所の損害は、建物面積全体の96.1%。事実上完全に破壊されたとTMRには書かれています。

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▲爆撃効果判定のために撮影された、爆撃直後の様子。黒煙が北へ流れている様子が分かる。(出典:Damage assessment photo intelligence reports of Far Eastern targets filed by area and contain all available information on the area: Okayama Report No. 3-a(28), USSBS Index Section 7)

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▲爆弾が着弾した地点の分布を示す画像(目標番号2047は川西航空機、2047Aはアンビック(旧日本フェルト)、2047Bは山陽皮革の工場)(出典:Damage assessment photo intelligence reports of Far Eastern targets filed by area and contain all available information on the area: Okayama Report No. 3-a(28), USSBS Index Section 7)
 
 
▲川西航空機姫路製作所の損害評価報告(黒く塗りつぶされたところは全壊、X印は全焼)
工場群のすぐ左、緩やかな曲線を描いているのは播但線の線路と京口駅
 
▲工場の配置図(参考:姫路空爆の記録-恐怖の昼と夜-、姫路空襲を語りつぐ会編、1973)
「姫路空爆の記録」を元に、米軍のTMRの損害評価報告に建物の名前を書き込んだものです。
 
第1回目の空襲による姫路市の損害
(出典:姫路空爆の記録-恐怖の昼と夜-、姫路空襲を語りつぐ会編、1973)
 死亡:341人
 重傷:113人
 軽傷:237人
 行方不明:10人
 全焼:550
 半焼:5
 全壊:715
 半壊:81
 罹災者数:10,220人
 罹災面積:26万坪
 
参考
 
Part 2「B-29はどのような爆撃機だったのか」へ続く