播磨の山々

兵庫県姫路市周辺の山歩きと山道具の紹介をしています。2019年5月、Yahoo!ブログから引っ越してきました。

兵庫県加西市の戦争遺跡:鶉野飛行場跡地

私の職場の夏休みは今日で終わり。
せっかくなので、平日でないと行けないところで、終戦記念日(もう過ぎましたが)にちなんだところは無いかなと思っていたら、新聞で加西市役所での展示についての記事があり、行ってみることにしました。

 

展示は、加西市に現存する戦争遺跡「鶉野(うずらの)飛行場」に関するものなので、ついでに飛行場跡地も見てみることにします。

 

加西市役所の広い駐車場に車を止め、正面玄関から中に入ると、いきなりお目当ての展示がありました。
5m四方ほどのパーティションで区切られた空間の中央に、6分の1サイズの紫電改の模型が玄関の方を向いて置かれ、その周囲に各種資料が展示されています。

 

鶉野飛行場は特攻基地としても使われた(この基地出身の63名が戦死)ため、遺書代わりの詩のようなものも展示されています。

 


▲加西市役所の展示スペースの様子

 

駐車場の車に戻り、カーナビに鶉野飛行場跡地を行き先として設定し出発。

 

加西市役所から南へ進み(市民病院の脇を通って南へ進み)、県道23号線と交わる交差点で左折。県道23号線に入ります。
そのまま県道23号線を南東へ進んでいき「いいもり」の看板のある二股の分岐を右へ入ります。
後は道なりに走っていれば、「あっ、これが滑走路か」と分かるはず。

 

「滑走路はどの辺りかな」「駐車スペースはないかな」と思いながら走っていると、滑走路を横切って通過してしまいました。
慌てて引き返し、滑走路のすぐ北側にある滑走路と平行な道を南へ進むと、Webで見覚えのある慰霊碑が正面に見えてきました。道は右へカーブしているのですが、柵も何もないので、そのまま滑走路と平行な道(?)へ突入してみました。

 


▲滑走路跡とその周辺の様子(Googleの衛星画像)画像では「ウエダ(製)」の付近で道が二股に分かれているように見えますが、実際の道路は右(西)へカーブしています。そこを矢印のように直進して滑走路脇の慰霊碑へ行けます。

 

慰霊碑の脇には乗用車が止まっていて、持ち主と思われる地元の方2人が雑談されていました。

 


▲鶉野飛行場滑走路跡地中央付近にある慰霊碑(このすぐ横にポールがあり、旭日旗が翻っていました)

 

慰霊碑に刻まれた文章を掲載しておきます。
神風特別攻撃隊白鷺隊記
 神風特別攻撃隊白鷺隊は、姫路海軍航空隊員より編成され、この地鶉野飛行場において日夜訓練を重ねた。
 隊長 佐藤 清 大尉以下六十三名は、その保有する艦上攻撃機二十一機をもって、昭和二十年四月六日より五回にわたり鹿児島県串良基地より出撃し、沖縄周辺の米軍艦艇にたいし飛行機もろとも体当たり攻撃をくわえ、壮烈な戦死を遂げた。
 戦いは遂に国土防衛戦に入り、膨大なる物量を誇る米軍の強襲に、わが沖縄守備隊の戦力では如何ともしがたく、菊水作戦が発動され航空機による特別攻撃隊の投入となり、海空による総攻撃が開始されたのである。
 姫路空白鷺隊も決然としてこれに加わった。隊員達は出撃にさいし、遙か故郷の愛する家族らに別れを告げ、再び還ることなき特攻に若き命を捧げ、武人の務めを全うしたのである。
 今ここ鶉野の地に碑石を建立し、この史実を永世に伝え、謹んで殉国された勇士の御霊をお慰めし、併せてそのご加護により永遠の平和の実現を切に願うものである。

 

慰霊碑の脇にある石碑の文章は、次の通りです。
表面
飛行場建設に協力した地元の人々
 播磨平野中部丘陵の加西群九會村中野、鶉野、宮木と下里村野条一帯は、鶉鳴く農村地帯であった。
 昭和十六年十二月八日、西太平洋で始まった米、英国との戦いにおいて、航空機によるハワイ真珠湾攻撃が成功し、海軍は航空機搭乗員の訓練を目的として全国各地に練習航空隊を設置することになり、この地も候補に上がった。
 一般民家、企業が立退きの対象となり、昭和十八年一月上旬より土地買収及び家屋移転等の承諾調印が行われた。工事が始まり、地元加西群はもとより近隣町村より勤労奉仕団、国民学校、中学、女学校の学徒動員の生徒、また朝鮮の人達の献身的労働により、僅か一年余りの作業で飛行場は完成した。
 そして、全国より配属されて来た若き操縦練習生たちは、日夜飛行訓練に精を出した。訓練合間の休日には地元の人々は彼らを暖かくお世話をした。
 昭和二十年に入ると、この鶉野にも米艦載機が飛来し、飛行場は言うに及ばず周辺の民家にも攻撃を加え、一般住民にもかなりの被害が出た。戦争は我が方に利あらず、八月十五日に戦争は終わった。そして元の静かな鶉野に戻った。この平和をいつまでも続けるため、ここに飛行場設置に協力した多くの人々の苦労を後世に残し、碑を建立するものである。

 

裏面
姫路海軍航空隊、川西航空機の沿革
 太平洋戦争は航空戦によって開始された。海軍は航空機搭乗員を養成するため鶉野に実用機練習航空隊を設置した。この飛行場は、海軍航空隊及び川西航空機の戦闘機組立工場と併用の全国でも類い希な飛行場であった。
 昭和十八年十月一日、姫路海軍航空隊は初代司令露木専治大佐のもとに開設され、艦上攻撃機の訓練生が全国より集まり、日夜訓練に励んだ。この操縦訓練生を支えるため、航空機整備、兵科、運用、主計、航海、機関、通信、工作、兵器、砲術、医務の各科の兵隊が在隊した。
 一方、川西航空機では日夜過酷な条件の下、社員、徴用工、挺身隊、学徒動員の献身的努力によって、終戦までに局地戦闘機「紫電」・「紫電改」五一〇機が鶉野工場で組立てられた。そして、アメリカ軍の日本本土上陸を予測し、五十嵐周正中佐率いる筑波海軍航空隊の「紫電」がこれを迎え撃つために進駐して来た。また、飛行場拡張には設営隊が担当し、甲、乙種予科練生が北条・九會国民学校に分駐して労働に従事した。その中の西宮空第十四期甲種飛行予科練生は、特殊潜航艇「海龍」特攻の血書志願を書き山口県柳井潜水学校へ向かった.昭和二十年八月十五日、戦争が終わり、関係した兵隊達は、それぞれの思い出を秘め、故郷に帰って行った。その後米軍が進駐し武装解除が行われ開設以来一年十箇月の短い歴史を閉じた。今大戦において、尊い人々の犠牲があって今の平和な日本があることを忘れてはならない。再び戦争による惨禍を無くするため、ここに平和の祈念碑を建立し、後世に伝え残すものである。

 

対空砲座や防空壕などが残っているとWebでは紹介されていましたが、どこにあるのか案内板にも書かれていないため、見つけられずじまいでした。

 


▲現在、滑走路は陸上自衛隊の所有物になっています

 

加西市はこの跡地を有効利用したいようですが、戦争中の姿がこれほどきれいに残された日本軍の戦争遺跡はほとんどないはずです。

 

平和が大事だと言うなら、基地跡に何か施設を作ったりして、ただでさえ消えつつある戦争の記憶や痕跡を完全に消そうとするのではなく、こういった戦争遺跡こそ大切に残してもらいたいものです。